#01 林檎と銀貨 3/6



 オズワルドが寝たふりをやめ、ベッドからむくりと起きあがったのは、夜の十一時のことだった。なるべく音を立てないようにベッドを降り、テーブルにある市街マップを一部だけ抜きとった。
 黙って出ていくつもりでいたが、さすがにそれでは礼に欠ける。オズワルドは、テーブルの上にあった正方形のメモ帳を取り、書き置きを残しておくことにした。そして、半日を共に過ごした、隣で眠る男を見る。いかにも利発そうな顔をした彼の体は、規則正しい寝息により上下している。起こさないようにそっとした猫足で、彼のベッドに近づいていった。囁くように彼に言う。
「皿洗いがんばってね、イヴ」
「初めからなすりつけるつもりだったな、オズワルド」
 オズワルドは強く息を呑んだ。はっと彼の顔を見ると、さっきまで閉じられていた瞼はしかと開いていた。涼やかに己を見上げる男に、オズワルドは「おはよう。ごめんね」と告げる。イヴは「酷いやつめ」と返す。イヴがベッドから出たので、オズワルドは半歩下がった。
「貴方も出ていくの?」
「逃げるんだよ」イヴは静謐せいひつな声で囁く。「外から足音が聞こえる。追手だ」
 イヴの言葉にオズワルドは閉口した。耳をすませば、たしかに足音が聞こえた。それも複数。談笑をするでもなく、まるでこの部屋に忍び寄るかのような足取りだったので、それがただの従業員や宿泊客のものではないことを、オズワルドも理解した。
 イヴは素早くウェストコートとロンググローブを身につけた。小さな声で「この部屋を借りるときの名義はお前が記入したな」と呟く。
「なんと書いた?」
「なんとって?」
「馬鹿正直に本名を書いたんじゃないかって」
「馬鹿じゃないけど正直には書いたわ」
 足音はどんどん大きくなっていく。オズワルドの目線は部屋のドアに向いていて、イヴの目線は窓のほうに向いていた。
「《Speak of the Evil》に引っかかった」
「なにそれ」
「ざっくり言うと、警報のような役割を担っている、囚人管理システムのことだ。囚人として名前が登録されると、その名前の呼応は探知および捕捉される。壁にも水差しにも耳がついてると思ったほうがいい。決して本名を使わないように。与えられた識別記号コードネームで呼応すれば問題はないから、たとえば“イヴ”なら安全だ。“オズワルド”」
 もう足音が近い。ドア一枚を隔てたところに、追手がいる。オズワルドが焦燥していると、ふわりと風が吹いた。ふいに運ばれた夜風の冷たさに驚いて視線を遣ると、イヴが窓を開けていた。
「ここは二階だ。オーニングテントもある。惨事は防げるだろう」イヴはオズワルドに手を差しだした。「お手をどうぞ、レディー?」
 イヴとオズワルドが窓から飛び降りたのと、ドアが乱暴に開かれたのは、同時のことだった。二人は窓の下に張られていたオーニングテントをクッションに、もう一つジャンプする。地上への着地の感触は、イヴの想定よりも弱かったけれど、オズワルドはお尻を痛そうにしながら座りこんでいた。イヴは視線を上げる。元いた部屋の窓を見ると、屈強そうな男たちが「放て!」という声が響かせていた。イヴはオズワルドを立たせて走りだした。全速力で夜道を駆け抜けていく。
 ふと、二人の背後から、地面を蹴る音と荒い息遣い。イヴがちらりと確認すると、精悍な顔つきをした三頭の犬が追ってきているのが見えた。放て、と言われたのはこれだったかとイヴは眉を顰めた。
 路地に入り、積まれていた木箱を崩し、進行を遮った。しかし、犬は華麗な跳躍で歯牙にもかけない。あちこちの物を倒しながら逃げても、距離は詰められるばかりだった。
 すると、オズワルドは「イヴ!」と前方を指差した。イヴがそちらに目を向けると、建物の上層へ吊り荷を運ぶ、小型のクレーン。すぐ隣にはレバーがあるのを見つけ、イヴは「乗れ!」とオズワルドに促す。
 オズワルドが吊り荷の上に乗ったとき、イヴはレバーを押した。クレーンは音を立てて、オズワルドごと吊り荷を上げる。オズワルドは片方の手でケーブルを掴みながら、もう片方の手で跳躍したイヴの手を掴んだ。ふらふらと上空を彷徨さまよったイヴの足が、追ってきていた犬を蹴る。犬が地べたに着地したときには、イヴもオズワルドも上層へと向かう吊り荷の上だった。
「本当は林檎より梨が好き」オズワルドの書き置きを朗読したイヴは、それを下へと放った。「大したご挨拶だな。危うく、一人みじめに皿を洗うところだった」
 とはいえ、二人一緒に追いかけられていてはどうしようもないが。
 申し訳なさそうに、けれどへらりと笑うオズワルドを見て、イヴも爽やかに笑った。本当に、どうしてこんな娘と夜の街を逃走しているんだろうと、イヴは不思議でしょうがなかった。それでも、たしかなことは一つある。
「オズワルド。お前もあの“ダストシュート”を通って、亜終点まで逃げだしてきたんだろう? あの監獄から」
 イヴとオズワルド。
 二人は、ノドロン城塞監獄から抜けだした、脱獄囚である。



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