#01 林檎と銀貨 2/6



 二人がいたのは地上ではなく、地下にある空間だった。その空間の端まで歩くと、天まで突き抜けた鉄筋階段が見える。その階段は手すりすらもきれいで、真新しいというよりは使われていないがための整然だ。それを二人は登っていく。天辺てっぺんまで辿りついたイヴは、天井の蓋をぼこりと開ける。とてつもない汚臭がして、少女は顔を顰めた。イヴが顔を覗かせてみると、いくつものパイプや空洞が連なる下水道に繋がっていた。
 鼻を摘まみながら、二人は体を穴から引きずり出す。ピチャン、という水音が甲高く反響していた。ライターの火の点すかぎり、あちこち酸化して赤錆まみれだ。しばらく歩いていると、奥に地上へと続くような梯子と、マンホールらしき黒い蓋が見える。後ろに少女がいるのを確認しながら、イヴはその梯子を目指した。
「あたしたち、こんな深いところにいたんだね」少女は呟く。「やっぱり、ねえ、わからないわ。さっきまでいた、あそこはどこだったの?」
「どこだと思う?」
「どこだろうと思うわ」
「仮称として、“亜終点”と呼んでいる」
「亜終点?」
 物問いたげな目を向ける少女を無視して、イヴは梯子に手をかける。手の次は足と、響くような音を鳴らしながら、登っていった。少女もそれに続く。登りつめたころ、イヴは頭上にあるマンホールの蓋を外そうとして、一人では重たすぎることに気づく。結局、二人がかりでなんとか持ち上げることができ、蓋を地上の脇に寄せて、イヴはその穴から外を見た。
 人通りの少ない路地だった。赤銅色の煉瓦の建物には金属のパイプが蔦のように這っており、緩んだネジの隙間から濁った蒸気が漏れている。曇って灰色に淀んではいるものの空も見える。イヴと少女は体を引きずり出し、風のある空気に全身を触れさせる。
 少女はとっくにドレスを脱ぎ捨てていて、亜終点にあるごみの山から適当な服を見繕い、着こなしていた。ベルトで腰を引き絞った深緑のセーターに、象牙色のフレアスカートだ。豪奢な赤も暗がりも剥いた少女の肌は白かった。それに映える長い黒髪は、イヴのブルネットよりもよっぽど暗い色をしていて、まるで漆のよう。曇天に溶けそうな透明感のある少女は、膝丈のブーツを履き鳴らして、嬉しそうにはにかんだ。
「出られたね」
「出られたな」
「あたし、とってもお腹が空いたわ」
 少女は黒いまんまるな目をイヴに向ける。哀れを誘う子鹿のような眼差しだった。その誘いに素直に従おうと思うも、イヴは致命的な不能に気づく。
「問題がある」
「またなぞなぞ?」
「違う」イヴは苦笑して続ける。「俺たちにはお金がないんだ」
 イヴの言葉に少女は「それは難しい問題ね」と返した。
「だが、考えはある。君の力も借りていい?」
「いいよ。それが答えなら」
 イヴはついてくるようにと促して、路地を出る。少し歩き、小さな安いホテルを二人は見つける。寂れたホテルで、街を息巻く蒸気に酸化したような風体だったけれど、地下にレストランがあるのを知り、イヴはここだと決めた。
 少女はぼんやりとイヴを眺める。そこのコックや支配人となにやら話しこんだかと思えば、イヴは「席はこっちだ」と真ん中のテーブルへと足を向かわせる。幾何学模様をあしらった、木製の椅子に座りこんだ。
「部屋も取れた。ツインだけど」
「どんな解法を使ったの?」
「交渉した。代わりに明日は朝から晩までき使われるぞ」
「へえ、そうなんだ」
 どこか他人事の口ぶりで、少女は答えた。テーブルの脇にあったメニューを取りだす。グラタンとバゲットを注文し、デザートには梨のジェラートを頼む。イヴは、一番安いサラダと、二人分の紅茶を注文しただけだった。
 チーズのいい匂いがイヴの鼻を掠めたら、テーブルの上にグラタンが置かれた。少女はあどけなく顔を綻ばせ、きらきらと静かに目を輝かせる。イヴはあるかなきかの苦笑を浮かべて「お先にどうぞ」と促した。少女はカトラリーボックスからスプーンを取り出して「いただきます」と食べはじめる。しばらくしてから持ってこられたサラダに、イヴもフォークを突きたてた。口に運ぶと、野菜とパン屑とドレッシングが、口内をさっぱりと満たしてくれた。
 胃袋が満ちていく温かい心地を感じながら、そういえばまだ少女の名前を聞いていなかったと、イヴは思い出した。
「君、名前は?」
「あるよ」
「そうじゃなくて」
「おにいさんは?」
「イヴ」
「おにいさんは?」
「あるよ」
「あたしも」
「なんと呼べばいい?」
「オズワルド」
 オズワルドと名乗った少女は、またグラタンを啄みはじめる。数分遅れで到着したバゲットを一口サイズに千切り、テーブルの上に並べられてあるディップをごっそりとつけた。サワークリームやアボカドのディップなど種類はいくつかあったが、少女が特に好んでつけたのは梨のディップだった。
 イヴは自分の紅茶に一つだけ角砂糖をいれる。スプーンでくるくると溶かしていると、ふとオズワルドと目が合った。オズワルドはバゲットを食べながら、じっと彼を見ていた。一つ一つの所作が幼く感じられる。まるでものを知らぬ赤ん坊のようだった。
「君はいくつだ?」
「三つ」
「冗談はよしてくれ」
「冗談じゃないよ、あたし三つがいい」
「なんの話をしてるんだ」
「お砂糖でしょ?」
「歳だ」
「ならそう言ってよ」
「そう言った」
 オズワルドがカップを差しだしてくるので、イヴは三つ砂糖を入れてやった。オズワルドは紅茶に一口つけたあと、「十六」と返した。
「若いな」
「花も恥じらう乙女ですもの」
「君が勝手に恥ずかしいだけじゃないか?」
「あたし別に恥ずかしがりやさんじゃないよ?」
「どこに出しても恥ずかしいってこと」
「んま。ひどい言い草。紳士なら、レディーを花に喩えるものでしょう」
「蒲公英のようだ」
「嬉しいわ」オズワルドは歌うように続ける。「一昨日は兎を見たのよ。昨日は鹿。今日は貴方」
 わざわざ雑草に喩えてみたのに、厭味いやみの通じない娘だとイヴは思った。特に貶めてやりたいとも思っていなかったけれど、彼女のたわけた無垢さには気抜けしてしまう。
 けれど、また別のところで、イヴは感心してもいた。ものさしの狂った、頭のわるそうな娘だと思っていたのに、自分の知る物語になぞらえて冗句する彼女に、きちんとした教養はあるらしいことを悟ってしまったのだ。素が盆暗なのか、奇っ怪な対話感覚を有しているのか、それでも、育ちはよいのだろうとイヴは思った。
「あたしも聞いていい? これからどうするの?」
 イヴは一度口を噤み、逡巡、まあいいかと答える。どうせ行きずりの相手なのだから。
「ここから出るんだ」
「えっ。もう出たよ?」
「あそこからはね。出るのはここから」
「どこから?」
「この国から」
「どこへ?」
「海の外へ」
「外?」オズワルドは顔を顰める。「海をずっと行ってもなんにもないよ? ただ塩水が広がっているだけ」
 イヴはテーブルに頬杖をついた。紅茶の水面をスプーンで乱していると、オズワルドに「学校でちゃんと創世神話は習った?」と聞かれたので、「では、君は知ってるのか?」と尋ねる。オズワルドは「全部言えるわ」と答えた。
「神は七日間で世界を作りました。光あれ。闇あれ。天地あれ。天が太陽と月と星。地がこの世界、この国・エグラド。そこに生き物を住まわせました。けれど、エグラドの外にはなにもお恵みになりませんでした。ただただ広く海が横たわっているだけなのです」
 オズワルドは歌うようにそらんじたが、イヴは彼女を見ていなかった。そんなイヴにオズワルドは「貴方はそうやって眠りこけていたのね」と囁く。イヴは小さなため息をついた。
「それくらい俺だって学んだよ。三日目に植物、四日目に天体、五日目と六日目には生き物が作られた。一番最後に人間だ」
「以上で一章。そうしてできた、ここはエグラド、蒸気の国」
 周りを海に囲まれたエグラドは、芳醇な潮風と蒸気をエネルギーに栄え、神話における世界から、金属的な煙霧で彩られたいまのありさまへと、成長を遂げている。エグラドは近海の水産資源、陸地の地下資源にも富み、現在は石油や石炭を燃料とした蒸気機関が主流となっている。神話と共に世界史として学ぶ、一般教養だった。
 きちんと学び舎に通い、勉学したであろうさまが見受けられて、イヴは「そうだな」と返した。
「特に女王政府の管轄する、ここ、首都・ノドロンは、格別に発展したと言えるな。四方八方へ鉄道が伸び、大時鐘のある時計塔も建てられた」
「海からは遠いけどね。おにいさんが海へ出るのはいつ?」
「鯨が空を飛んでいるのが見えたら」
「鯨は空を飛ばないよ?」
「君が知らないだけで、実は飛んでる」
 カチッとライターの火を点すイヴを、オズワルドは見つめる。真に受けたのか真に受けていないのか、「ふうん……」とグラタンを口に運んだ。イヴはライターをポケットに戻して、「まだ見えないけど」とため息をついた。
 しばらくして、食事をきれいに平らげた二人は、泊まる部屋へと向かった。
 イヴがふと窓の外を横目で見ると、曇り空が夕陽に晒され、僅かに暖色を帯びていた。あまねく管に覆われた建物の隙間から、いくつもの丸い影が、ふわふわと漂うのが見える。オズワルドはぱたりと足を止め、窓硝子に手をついて目を凝らす。生温い灰色の空に漂っていたのは、風船の群れだった。
「素敵」オズワルドが楽しそうに言う。「でも、どうしてあんなにたくさんの風船が浮かんでいるのかな」
「気になるか?」
「気になるわ。知ってるなら教えてくれる?」
 イヴは口を開こうとして、「やめておく」と視線を逸らした。
「えー」オズワルドは不思議そうな顔をする。「どうして?」
「知らなければよかったと、恨まれても困る」
「えー……?」
 オズワルドは唇を尖らせ、窓の外に一瞥を送る。空を揺蕩たゆたう風船の行く末を見届けることなく、二人はまた歩みを再開させた。
 部屋に戻ると既にベッドメイキングが成されていて、パリッと糊のきいたベージュのシーツが待ちうけていた。オズワルドはすぐさまベッドにダイブして、自分の陣を決める。イヴはもう片方のベッドに腰を下ろした。ウェストコートと肘まで達するロンググローブを脱ぎ、隣のベッドで手足をバタバタとさせるオズワルドを見る。彼女はその洋服のまま、ふとんにくるまった。もう眠るつもりなのかとイヴが尋ねたら「おやすみ」の声だけが帰ってくる。イヴはため息のあと、電気を消した。ウェストコートとロンググローブを枕元にあるのを確認してから、枕に頭を乗せる。彼女の眠る繭をじっと見つめてから、瞼を閉じた。



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