#02 馬鹿は首を吊れ 4/5



 オズワルドと哀王は、水と油だ。
 その相容れない様子は、まるで世界の裏側にいる者同士のようだ。
 イヴは思い出す。数刻前の哀王の誘い――― 彼と手を組む、という話についてだ。哀王は非常に賢い男であり、そんな男と手を組めることは、これ以上ない有利だと思えた。しかし、イヴが哀王と手を組むとなると、イヴの仲間であるオズワルドとも、当然、関係を持つわけで。対照的な二人のあいだを取り持つことを考えると、イヴは気が遠くなりそうだった。
 イヴ自身も自覚していることではあるが、彼は人付き合いがあまり得意ではない。いっそ、好きではない、と言ったほうが正しい。オズワルドと哀王の緩衝材として常に気を揉まなければならないのはまっぴらごめんだし、そんな力量が己にあるとも思えなかった。
 となると、イヴは、二人のどちらかを選ぶという岐路に立つ。
 オズワルドと哀王ならば、天秤にかけるまでもない。それを含めて、哀王は“答えのわかりきっている問題”と発言したのだ。イヴには哀王を選ぶ理由がある。しかし、オズワルドを選ぶ理由はない。二人が仲間となったのは、運命だったからという、その一点に尽きる。それだけでいいと、イヴは思っていたのだ。いまだってたしかにそう思っているのだけれど。
 イヴはがらくたの山の中、金目の物を物色しながら、静かに思い悩む。
 そんなとき、離れたところから「ねえ、イヴ」とオズワルドの声。イヴが振り返ると、髪とスカートを靡かせながら、一冊の本を抱えたオズワルドが駆け寄ってきていた。その懸命な様子に、イヴは何事かと身構える。オズワルドはイヴの目の前で立ち止まり、ぱっと顔を上げた。
「見てみて」オズワルドは持っていた本を広げる。「ほんシラミが湧いてる」
 開かれたページののど、、には、苺の種ほどの大きさの虫がによによと蠢いていて、それを眼前に晒されたイヴはひそやかに鳥肌を立てた。いよいよこの少女といることに迷ったイヴは、よっぽど見限ってやろうと思ったのだけれど、開かれたページの文字の羅列には覚えがあり、たちまち眉を上げた。
「どうしたんだ、その本」
「ね。紙魚シミ食いもひどいのよ。ちゃんと読めるかな?」
「そうじゃなくて、それ、『ラッド博士の論文集』だろう?」
「えっ、イヴが探してたのって『ラッド博士の論文集』じゃなかったっけ?」
「俺が探してたのはそれだけど」
「だったらそうだよ。見つけたからあげる」
 さらりとそう告げたオズワルドは、イヴに本を差しだす。イヴが「俺に?」と尋ねると、オズワルドは「他に誰かいるかしら」と首を傾げた。
「相手が俺であることじゃなくて、これをくれることが疑問なんだけど」
「もういらない?」
「いる」
「よかった」オズワルドは笑った。「手分けして探した甲斐があったね」
 オズワルドのその言葉で、イヴはひらめいた。先刻の“手分けして見つけよう”という己の言葉をオズワルドが誤解したのだと悟った。手分けしたのは金目の物を見つけるためであり、イヴの欲していた本を探すためではないのに。
 呆れてものも言えなかった。言えるわけがなかった。己の求めたものをこんなにも容易く差しだす少女に、なんと言うべきなのか、イヴはわからなかったのだ。ただ、あるかなきかの笑みを浮かべた口から、「ありがとう」という、乾いた声が漏れた。
「どういたしまして。だけど、シラミはどうしよう?」
「これだと燻煙剤くんえんざいを使うしかないだろうな。ここにあるか聞いてみようか」
「大丈夫かしら。なんとなくなんだけど、あたし、荘哀王にね、」
「荘哀王? 哀王のことか?」
「そうそう。あのひとにね、ずっと睨まれてる気がするんだ」
 イヴは素っ頓狂な顔をした。
「気づいてたのか」
「えっ、イヴも気づいてたの?」
「それはこっちの台詞せりふだ」
「イヴは自分が気づいてることに気づいてなかったってこと?」
「俺はお前が気づいてることに気づいてなかったってことだよ」
「そういうこと」
「そういうこと。ちなみに、睨まれてることに心当たりはあるか?」
「うんう」
 なんと言いたかったかはわかったので、イヴはそれを聞き流しそうとしたけれど、数秒後にはやはりおかしくなって、口の端から空気が漏れた。オズワルドの“ううん”は、舌足らずに“うんう”と響くのだ。本人は無自覚なのか、唐突に噴きだしたイヴを不思議そうに見ている。
 その姿があまりに暢気だったので、思い悩むことに馬鹿馬鹿しくなったイヴは、ついに言ってしまうことにした。
「……オズワルド、前にも言ったけど、お前の物言いはけっこう危ういときがあるんだよ。ひとを苛立たせたり、最低な気分させたりすることがある。哀王に対してもだ。お前は他人をそういう気持ちにさせやすいって気づいたほうがいい。これから一緒に生きていくなら、なおさらだ」
 イヴはオズワルドの目を見て告げる。いつの間にか、オズワルドを見限るなんて選択肢は、イヴの頭から消えていた。その天性のたぶらかしにしてやられたな、と思った。なんにも考えていないようなそぶりで、容易く屈服させる。まるで針穴に糸を通すような最適解だった。イヴが出会ったときから、この少女は決してはずさないのだ。
 オズワルドはゆっくりと二度、目を瞬かせる。なんと返すだろうとイヴが思っていると、オズワルドは「そっかあ」と呑みこむように俯いた。
「なら、謝らなきゃだめよね」
 オズワルドは顔を上げて、はっきりと言った。この娘は、頭はわるくとも、悪意はないのだ。だから、イヴも「それがいい」と後押しをした。
「お前が謝ってくれると、俺も燻煙剤くんえんざいを頼みやすくなる」
「んま。イヴだって、そういうところですからね」
 細い腰に手を当てて眇めるオズワルドを、イヴは視線も遣らずにいなした。
 そのとき、こちらへと近づいてくる足音が聞こえ、二人は振り返る。
 哀王だった。
 麻袋を担いでいる彼はオズワルドの前で止まった。彼女が顔を上げれば、見下ろす哀王の目と合う。ちょうどよかったので、オズワルドは口を開こうとしたが、哀王の「やってくれたな」という声に遮られる。
 哀王は麻袋を足元へと叩きつけた。袋の口からいくつものトランジスタがごろごろと落ちた。イヴの目から見ても、それらは壊れているのだとわかる。哀王が麻袋を落としたからではなく、元からだろうと思われた。
 オズワルドは黙ったまま、ぼんやりと哀王を見上げる。
 哀王は憎らしそうに舌打ちをした。
「修理したてのものだった。だが、保管しておいた場所の近くにあった本の塔が崩れていて、その下敷きになっていたらしい。おかげで全滅だ」哀王は冷たい目で続けた。「お前が積んでいた本を取った拍子で塔が崩れたと、部下から聞いた」
 オズワルドはすぐさま顔を濁らせて「ごめんなさい」と呟く。しかし、哀王の機嫌が戻ることはなかった。そもそも、オズワルドを前にしたときの彼の機嫌は、すでに最低を極めている。
 イヴには哀王の言い分も理解できたが、そんな大事なものを保管しているなら、すぐそばに本など積むべきでなかったとも思っていた。相互に咎められる点がある。しかし、哀王は平静を欠いていた。
「これだから、お前のように能のないやつは嫌なんだ。考えが足りない、そもそも、自分ではなにも考えない……馬鹿だということを自覚せずに笑っているだけの能天気」
「……哀王、言いすぎだ」
「そうよ、言いすぎよ」
 お前が言うのもどうだろう、とイヴはオズワルドに対して思ったが、己が初めに言い返したことなので、なんとも言えない気持ちになった。
「お前は、そっくりだ。俺の部下だったやつに」
 カラカラと、キャスターが地面を走る音。氷点下の対話の外では、いまでも作業がおこなわれている。二人がかりでリネン用のランドリーワゴンが押されていた。その音が嫌に響く。イヴは俄然がぜん緊迫した。
 哀王はランドリーワゴンに引っかかった細いロープを見つめながらに言う。
「……言葉遊びをしようか」
 あまりに突飛な発言だった。どういう意図があるのか測りかねたイヴは、気まぐれにあたりを注視する。一方の哀王は「アナグラムは得意か?」とオズワルドへと尋ね、にやりと、けれど下品な感じもなく笑った。そこには、人肌の最低温度の、冷酷だけがあった。哀王はすぐさまアナグラムを出題する。
「たとえば―――唾を吐かれクビ、、、、、、、
 アナグラムとは、言葉を並べ替えることにより、別の意味の言葉として成立させる遊びだ。言葉の字数階乗の並び替えが可能であり、回答する側よりもむしろ出題する側のほうが機転を要する。しかし、哀王が出題したということは、彼のなかで答えは用意されている。
 イヴはキャスターの音を聞きながら、ぼんやりと組み替えた。数瞬ほどのあいだで組み替え終えたので、すぐさまオズワルドに叫ぶ。
「逃げろ、オズワルド!」
 それは、哀王がワゴンのロープを引っ掴んだのと、同時のことだった。
 イヴの言葉を受けて、オズワルドは迷いもなくその場を走り去る。哀王は舌を打ちながらロープを諦め、オズワルドの後を追った。そして、その彼の背中をイヴが追う。区画整理された亜終点では、地の利は哀王にあった。どれだけオズワルドが逃げようと、その一点は揺るぎない。イヴはどうやってオズワルドを逃がそうかと思案する。
 そのとき、前を走るオズワルドが、きょろきょろとあたりを見回しているのがわかった。ついに彼女が見つけたのは、キャスターつきのパイプ棚。オズワルドはそれを思いっきり押し倒して、障害物を作る。それに哀王は引っかかり、見事に足止めを食らった。よし、とイヴの口角は吊り上がる。棚から落ちたエンジンの破片を踏み潰して、イヴはオズワルドを追った。
 追走はオズワルド、イヴ、哀王の順になる。
 貨物倉庫を模したエリアまで行くと、大きな棚の羅列に膨大な段ボールが押しこまれてあった。どんどん奥へと突き進んだオズワルドは、棚の陰に紛れこませ、身を潜めようとしていた。
 イヴは顔を濁らせる。一時的に身を隠せたとしても、この場合、それは賢明な判断とは言えなかった。この空間は一個の建物となるよう、壁枠をかたどっている。イヴの見立てでは、出入り口は入ってきた一箇所のみ。そして、その扉から哀王が入ってくる。袋の鼠。最後には追いつめられて終わりだ。
 追いついた哀王は、イヴには目もくれず、棚の群れからなる通路を一つずつ確認しながら、奥へ奥へと進んでいく。イヴもその後を追うが、哀王はあまりに手慣れていた。棚を掴みながら一秒未満で視線を巡らせ、次の棚へと移動していく。ガシャンガシャンという荒っぽい音が奥へ響いていくのを、イヴは焦る気持ちで聞くしかなかった。
 とうとう一番奥の列まで進んだ哀王の足が止まる。イヴも足を止め、しかし、眉を顰める。オズワルドがいないのだ。ここまでくまなく確認してきたのに、どこにもその姿は見えなかった。
 イヴも哀王も混乱していたけれど、すぐに彼女の所在を理解する。首が痛くなるほど仰いだ棚の上を、見慣れたシルエットが危なげに飛び移っていくのが見えたのだ――― オズワルドだった。
 段ボールを蹴散らして棚の天辺てっぺんにまで登りつめていたオズワルドが、棚とから棚へと跳びながら、出入り口のほうへと走っていく。それを追うように、二人は引き返した。
 哀王は、棚を鳴らしながら移動していたために、オズワルドの挙動に気がつかなかった。イヴにしたところで、オズワルドは棚の陰に身を隠していたのではなく、その棚を登ろうとしていたのだと見抜けなかった。双方の裏を掻いたことも知らないで、オズワルドは棚と棚とのあいだをテンポよく飛び越えていく。
 出入り口から一番手前の棚まで戻ったオズワルドは、ありったけの段ボールを地面に落とした。それをクッション代わりにして、棚から飛び降りて着地する。尻もちをついた足で立ちあがり、再び駆けだした。
 貨物倉庫を出て、オズワルドはまだ先を走る。けれど、年端もいかぬ少女の体力などたかが知れており、速度は落ちてきていた。
 肩で息をするオズワルドは走った先に鉄骨のタワーを見つけ、手をかけ足をかけ登っていく。タワーのはりにはワイヤーロープに吊るされたフックがぶら下がっていた。オズワルドはそのフックに足をかけ、体重を預ける。ワイヤーロープをしかと掴んだ途端、タワーの鉄柱を強く蹴った。その反動で、ワイヤーロープは、フックに乗るオズワルドごと、振り子のように大きく揺れる。
 後を追う哀王は「まさか、」と息を漏らした。オズワルドはその声すらも振り払うように、振幅が一番大きくなったところで、フックから跳躍する。
 それは追手を引き離すための滑空。
 砲弾が放たれたような飛翔だった。
 見るかぎりではふわふわと、けれど明らかな勢いをもって、オズワルドは宙を舞った。しかし、イヴがその光景を見たのは瞬く間で、オズワルドは、大きく張られた天幕の上へと落ちていった。体重に耐えきれなかった天幕は、わずかに弾んだあと、支柱ごと潰れる。オズワルドはまぬけな受け身で着地した。ぼてぼての足取りで立ち上がり、さらなる逃走を続ける。
「……ははっ」
 イヴは笑った。思わず口からこぼれでた、小さな吐息だった。
 ただ頭がわるいのとはわけが違う。十六の娘のまともな感覚ではない。ぶっ壊れている。イヴは戦慄すると同時に感動していた。きっと彼女なら、ロープ一本さえあれば、空を泳ぐ鯨からでも、なんの躊躇いもなく飛び降りられるのだろうと思った。
 体力で詰まっていたはずの、オズワルドと哀王の差は、さきほどの大跳躍により完全に開いた。哀王の背後を追うイヴも同様だった。なんとかオズワルドに追いつこうとスピードを上げる。
 オズワルドが降り立ったのは露店のエリアだ。濁った色の布が、テントのようにロープで吊り上げられている。その天幕の影を潜るように、オズワルドは走っていた。きょろきょろと視線を彷徨さまよわせ、あるとき足を止める。息を整えながら、ある露店へと近づいていった。台の上には、先刻見かけたライフルの群れ。オズワルドはそのうちの一丁のライフルを掴みあげる。
 鈍く茶光ちゃびかりする、底碪式レバーアクションスモールボアライフル。弾倉に弾が充填されてあることを確認したオズワルドは、銃把グリップ先台フォアエンドを握り、哀王やイヴのいるほうを見据える。左足だけを前に、半身になるように翻し、突きだした腰の上に、ライフルを掴んだ左手の肘を乗せた。
 オズワルドのその完璧な姿勢に、イヴは目を見開く。
 インラインスタンスで肘を腰に乗せるヒップレスト姿勢――― ライフル射撃競技にて、立射のときに用いる、静的射撃体勢だ。
 交互に響いた発砲とリロードのリズミカルな音。すると、たちまち、天幕として四つ角をロープで吊るされていた、大きな布の一枚が、イヴと哀王に覆い被さった。布角に結ばれていたロープが切れるように、オズワルドが打ち抜いたのだ。落ちてきた天幕が追手に覆い被さることを狙って。
 オズワルドはその場を後にして走り去る。イヴと哀王は手足をばたばたと動かすことで、なんとかその布の罠から逃れることができた。二人はオズワルドの後を追う。
 布の罠にもがいていたときはそれで頭がいっぱいだったが、クリアになった視界のおかげで、イヴは自ずと思考することができた。オズワルドはライフル射撃競技者の構えを取っていた。そして、哀王にライフルを見せてもらったときの反応。上流階級の道楽として父親か誰かが嗜んでいたのだろうと思っていたけれど、実のところ、それはオズワルド本人だったのだ。
 オズワルドを追っていたイヴは、気がつくと、閑散としたエリアにまで移動していた。まるで廃墟だ。建物が丸ごと捨て置かれたかのように、形の良いコンクリートへんがあたりに並べられている。窓枠らしき壁からは、埃の積もった金属が見える。壁面の上部には、緑色の腐食を帯びた木材と有刺鉄線、工事現場にあるようなリフチングマグネットが無造作に生えていた。
「オズワルド」
 イヴが声をかけても、オズワルドは振り向かない。逃げるのに夢中になっているため、イヴの声が聞こえていないのだ。ライフルを携えたまま、ただただ懸命に走っている。
 オズワルドは体を丸め、瓦礫の隙間から建物の中へと入っていった。カンカンカンと、金属製の梯子かなにかを登っていく足音が響く。その音も次第に小さくなっていき、イヴは項垂うなだれるように肩を落とした。
 逃げろとは言ったものの、まさかここまでやるなんて、思ってもみなかったのだ。彼女の本気を見くびっていた。自分すら彼女を見失ってしまったことに、最早、笑みしか出てこない。それも力ない笑みだった。
「出てきてくれ、オズワルド」
 声を張り上げるようにして、イヴは言った。
 ここは砂漠でも海上でもない。声は反響して、またイヴの耳へと返ってくるだけだ。響きのやんだ静寂。カンカンコン、と石の転がる音がした。イヴはそちらへと向き直り、落ち着いた声音で囁きかける。
「もう逃げなくてもいいから」
 返事はない。姿も見せない。
「……俺から逃げろとは言ってないよ」
 ぽつんとした呟きだ。
 ちゃんちゃらおかしい逃亡劇に疲弊した、呆れの声でもあった。
 イヴがため息をついたとき、ごそっと視線を遣ったほうから人影が現れる。
 五メートルほど上方の瓦礫の窓から、オズワルドが見下ろしていた。
「だけど、誰から逃げればいいかや、いつまで逃げればいいかは、言われなかったわ」
 頓知じみた言い訳をオズワルドはしたので、イヴは肩を竦める。それから、オズワルドのほうへと両手を伸ばし、穏やかに腕の中を晒した。
「おいで。哀王と仲直りをしよう」
「あたしたち、喧嘩してたの?」
「端的に言うと……仲間にならないか、という誘いを哀王から持ちかけられている。ただ、お前と哀王の仲には懸念が多い。現状がこのざまだ」
「謝ったけど、許してくれなかったもんね」
「だけど、欲しいんだろう。仲間が」イヴは眇めながら苦笑した。「俺も助けてやるから降りてこい。いい加減に、腕が疲れた。頼む」
 オズワルドは笑った。そして、エアライフルも置き去りに、身一つでその場から飛び降りたのだった。華奢な体がイヴの腕の中に揚々と飛びこんでくる。その勢いのまま、二人揃って地面へと崩れ落ちた。
 彼女の体を抱きしめながら、イヴは少しだけ体をよじる。苦しさに耐えかね、退くように言えば、オズワルドはいそいそとイヴから離れた。そのオズワルドの背後で、哀王が近づいてくるのを、イヴは見た。しかし、反応が遅れた。
 哀王は、己へと振り向かせるように、オズワルドの胸ぐらを掴みあげた。瞬刻、彼女の顔へと拳を抉りこむ。彼女の体は横薙ぎになり、再び地面へと叩きつけられた。イヴが強く息を呑んだ代わりに、哀王は言った。

馬鹿は首を吊れ、、、、、、、

 オズワルドを殴りつけた哀王の拳には、真っ赤な血が滲んでいる。彼のものではない。地に伏したオズワルドにイヴが目を遣る。口を切ったのか、鼻血が出ているのか、殴られた顔を押さえる彼女の指からは同じ赤が漏れていた。
「アナグラムの答えだ。馬鹿」
 吐き捨てる哀王の声はいっとう冷えていた。
 オズワルドは両手で顔を押さえたまま、地に伏せっている。ショックで肩は強張りながら、小刻みに震えていた。吐息する声で茫然と「血の味がする」とこぼす。そんなオズワルドに、哀王はなく言葉を吐きつづけた。
「お前のようなガキは嫌いだ。虫唾が走る。反吐が出る。お前のようなわからず屋がいるから、俺は、俺は」
 我も忘れるほど熱く冷めきっている哀王に、イヴは眉を顰めた。哀王が監獄送りになったのは、わからず屋な人間が足を引っ張ったからだ、というのを思い出す。昔の彼になにがあったのか、イヴの知るところではないが、部下とオズワルドを彼が重ねていることには容易に気づけた。
 組み替えたアナグラムに不吉を覚えたこと、また、あのときの哀王の視線の先も鑑みたことで、イヴはオズワルドを逃がす選択をした。それは己の杞憂ではなかったことを思い知る。哀王のあれは、オズワルドに対する呪いだったのだから。
 哀王は、いまだにうずくまったままのオズワルドに近づいていく。仲直りの手を差しだすなどとは、イヴも思っていない。なればこそ、決断は一瞬だった。
 イヴはオズワルドを庇うように、哀王の前に立ちはだかる。
 ポケットから威嚇用のバタフライナイフ、、、、、、、、、、、、を取り出して、哀王へと向けた。
 立ち止まる哀王に、イヴは努めて静謐せいひつな声で囁く。
「落ち着け……オズワルドは、お前の部下じゃない」
 仲直りなんて生温い。この状態では、オズワルドがなにを言ったところで、哀王には響かない。哀王はオズワルドを見ていないのだ。オズワルド越しに、過去の己の屈辱を見ている。
 イヴの言葉に哀王はなにも返さなかったが、いくつかの間を置いて、「お前は何故そんなやつといるんだ」と口を開く。哀王の問いかけに、イヴは「仲間だからだ」と返した。
「そんなやつがか? たしかに馬鹿と鋏は使いようと言うが、お前の手にさえ余るだろう」
「……俺は、仲間を使う、、つもりはないんだ」
 そんなイヴの言葉さえ、哀王は鼻で笑った。
「俺だって使わないさ。仲間なら、、、、
 イヴは悟った。哀王の誘いは、はなから己のみへ囁いたものだったのだろうと。哀王の秤は有益かそうでないかだ。だからこそ、眼鏡に適わなかったオズワルドを唾棄し、言外に捨てろと己をそそのかしている。見捨てた彼らにとって哀王は仲間ではなかったとオズワルドは指摘したけれど、むしろ、哀王のほうがその部下たちを仲間として見ていなかったのではないかと、イヴは思った。
「答えを聞こうか」哀王はイヴに告げる。「俺の手を取るだろう、イヴ」
 イヴは思いを馳せた。哀王と行動を共にするメリット。先の展望。哀王と手を組んだ先にある可能性を予感する。予感できるだけの人間だった。それらを見越したうえで、しかし――― イヴは首を横に振ったのだった。
「……先約があるから。運命だと言って、俺の手を取った相手が」
 オズワルドと哀王ならば、天秤にかけるまでもない。哀王の手を取るほうが、イヴにとっては有益だ。哀王が己を有益だと見込んだように。けれど、益で人を選ぶと、益で見放される。哀王を見ていれば、よくわかる。イヴはもう二度と失望したくはなかったのだ。
「いまの俺は、運命だと言われたほうが、信じられるんだ」
 哀王に言いきったイヴの後ろで、もぞり、とオズワルドの起きあがる音がした。このときはじめて哀王は怯んだような様子を見せた。けれど、次第に呆れたような表情へと変貌する。そんな哀王がどうにも不可思議で、ただならぬことに、イヴは気がついた。まさかと思い、オズワルドへと振り返る。
 オズワルドは目の下を引っ張りながら、舌を突き出していた。鼻血を無理に拭ったせいで、濡れた赤があちこちにこびりついた、汚らしい顔だ。しかし、それも気にせず、ついにオズワルドは舌を震わせる嘲笑ラズベリーを贈った。哀王への意趣返しのつもりなのだ。殺伐とした空気が一気に弛緩するような、たわけた態度だった。そんなオズワルドを見下ろしながら、哀王すらも肩を落とす。そして、ため息と共に漏らした。
「……運命で別れることもあるだろうに、馬鹿なことだ」
 暢気な彼女のふるまいに救われたような、けれど手に負えないような心境になって、たちまち、我が身の愚かさをイヴは悟った。それでも、己が選んだのは、彼ではなくこの娘だった。
 いつまでも哀王を煽るまぬけな姿に、イヴは「オズワルド」とたしなめる。オズワルドは表情を解いて、イヴを見る。
「哀王に言うことがあるんじゃなかったか」
 イヴにそう責められて、オズワルドは一度目を逸らす。しかし、すぐに哀王を見上げ、まっすぐに目を見て告げた。
「貴方を傷つけてしまってごめんなさい」
 哀王は目を見開かせた。ややあってから、「いや」と目を逸らす。すっかり平静を取り戻していた。イヴは安堵するも、オズワルドは止まらなかった。
いや、、って? 次は貴方の番だよ?」
 オズワルドがなにを求めているのかを察せないイヴと哀王ではなかった。そっと口元を手で押さえたイヴの隣で、哀王は筆舌に尽くしがたい表情をする。けれど、逡巡、割り切ったように吐息して、オズワルドに向き直った。
「殴って、悪かった」
「反省してる?」
「……している」
「すごくすまない?」
「……すまない」
「いいよ。もうしないでね」
 オズワルドは「これで仲直り」と手を差しだす。いよいよイヴはこらえきれなくなって、声に出して笑った。そんなイヴに戸惑いながらも、オズワルドはふよふよと笑う。イヴは笑いの合間に「なんで俺が笑ってるのか、わかってないくせに」とこぼした。
「楽しいことがあったとか? ほら、ごはんがおいしかったじゃない。あれに比べたら、舟の中のはやっぱり腐ってると思うわ」
「あはは、実際腐ってるから」
「えっ」
「あっ」



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