一日目[4/8]

「君はそのラムネの炭酸よりも鋭い。もしかして、君にも風の声が聞こえたのかな」
 私は引き続きまいってしまっていた。
 上から少年が降ってきて、無傷で立ち上がって、おまけに話しかけられたのだ。
 脳みそが追いつかない。
 いきなり話しかけてきたのは型抜きの女王も同じだったが、あのときとはシチュエーションが違う。私の背中は浴衣の奥で驚きの汗で湿っていた。
「おや? ちゃんと聞こえてるかな?」
 彼は困ったように、狐面に覆われていないスッキリした輪郭を人差し指で軽く掻く。
 返事をしたほうがいいんだろうか。でも、なんて答えればいいんだろう。そもそも顔が半分隠れているからとしがわかりにくい。同い年かもしれないし、もっと上かもしれない。どういう態度で切り返せばいいかわからないのだ。あたふたしていると彼は「おーい」と私の目の前で手を振る。慌てた私の口は「聞こえてるよっ」と馴れ馴れしく返していた。
「そう。よかった」蠱惑的な口元が柔らかに笑む。「それで、もう帰るのかい?」
「……えっと、そうだけど」
「どうして? もったいないよ。神夏祭はこれからだろ。まだ去年の神化主による神楽の奉納もふとん太鼓の解放も行われてない。この神社はね、夜になると特に美しくなるんだ。君はこの祭りの半分も楽しんではいないよ」
 狐面の奥に見える目が怖くて、私は思わず顔を逸らす。斜め下をぼんやりと見つめながら「いや、でも」とか細く呟く。
「それに君は、最近越してきた御風氏のお嬢さんだったね。初めての神夏祭なのに、もったいないと思わないかい?」
 私はおずおずと顔を上げる。
 大人のひとならともかく、どうしてこの謎の少年が私のことを知っているんだろう。もしかしてどこかで会ったことがあるのかと思ったが、とんと覚えがない。私はこの祭りに来るまで同い年の子と出会ったことがないし、来てからも同じだ。
 表情から私の心中を察したのか「怪しい者じゃないさ」と語りかけるように言った。
「この二日のあいだなら、僕の耳は誰よりもいいんだ。店主と型抜きの女王が話しているのが聞こえたんだよ」
 彼は狐面にとっての耳のあたりに両手を持ってきて、ぴょこぴょこと折り曲げた。狐というか兎っぽい、と私は思ったが、彼はそのことに気づいていないようだった。
「それで、三度目になってしまうけど……本当に帰るのかい? 飲み始めたばかりのラムネなんて持って。ここで帰ったら、きっと後悔するだろうよ」
 どうして彼はこんなにも私を引き留めるんだろう。
 大してかわいくもない私は、女の子としての魅力も低く、こんなふうにちょっかいをかけられることなどありえないし。むしろその逆で、地味な女の子だからって、なめられているのだろうか。
 だけど彼は、私の不可視の欠点を目聡に見つけ、からかって遊ぶような人間にも見えなかった。こうなると、彼を疑ってかかる私のほうがおかしいような気もしてくる。私は本当に、ここで帰ったら後悔してしまうのかな。
「どう?」
 彼は念押しするように首を傾げる。
 戸惑った。けれど、このタイミングで、私は引っ越してきた人間だと彼が知っているのを思い出し、返答に悩む必要がないことに気づいた。
「私、あの、まだ友達がいないの。一緒に回る子がいないの。だから帰ろうと……」
 見たところ彼も私と同じ学生だ。少なくとも、こんな楽しげな雑踏に溺れながら友人もなしに回るという苦行を、想像できない立場ではないだろう。この町に来たばかりなのだから、理由としても納得がいく。言葉の響きよりもみじめな気分にはならない。
「ああ、そういうことか」
 彼は得心がいったように頷く。
 それじゃあ、と無理にでも別れようとしたとき、彼は私の予想を覆す反応を示した。
「なら僕と一緒に回ろうか。まずは神楽殿だ」
 ぎょっとした。魚の帽子を被っていたらもう二つはぎょ≠ェくっついている。
 彼はなんでもないような素振りで鳥居を潜り、私が辿った表参道を引き返していく。
 私は呆然と立ちつくした。歩いていく彼を振り返る。
 どうしよう――黙って帰るなら、視線の交わらない今のうちだ。このままここにいてもみじめな気持ちになるだけだ。楽しいだなんて素直に受け止められない。でも、どうしよう、自意識過剰でも思いこみでもなく、あの少年はすっかり私と回る気でいるのに。勝手に決められたことだけど、無視するならするで申し訳ない。意気揚々とした背中がどんどん遠のいていく。カラカラと鳴る下駄の音が、憎らしいほど私を急かした。
 私は踵を返して彼を追う。
「ま、待って」彼に追いついてから続ける。「本当に行くの?」
「もちろんさ。大丈夫。最前列は埋まっているだろうけど、神楽殿は大きいから遠くからでも見える。そのあとすぐに幣殿からふとん太鼓が解放されるんだ。この二つを逃しては神夏祭は楽しめない」
 そんなこと聞いてない。
 距離を詰めるために私はせっせと足を動かした。体が弾むたびに手に持ったラムネがこぼれてしまう。手をぺろぺろと舐めれば振り向いた彼が「猫みたい」と笑った。
「飲んでしまったほうがいい。神楽の奉納は人でいっぱいになる。あっ、そこの段差には気をつけて」
 彼は私の足元を気遣って注意をしてくれた。いままでに会った男の子の中で誰よりも紳士的だと思った。行動に見えるよりも、彼の言葉には強制力がまるでなかった。同年代の男の子にあるような粗野っぽさは見られない。ミステリアスな雰囲気。
「ところで、お互いに自己紹介をしてなかったね。君の名前は?」
「……御風すず」
「清らかな名前だ。僕は弧八田こやた。よろしくね、すず」
 此の面は存外馴れ馴れしく、私の名前を呼び捨てにした。
 だから私も、心の中で呼び捨てにするけれど、実際に友達のようにそう呼ぶことはできなかった。



▲▽



 奉納はとっくに始まっていた。
 高尚な不協和を響かせる雅音はどうやら佳境に入ったらしい。緩やかにも関わらず雅さを脱ぎ捨てるほど力強い太鼓の音が鳴った。体の芯や鼓膜を震わせる迫力。
 神楽殿は満員御礼だった。みんなムービーや写真を撮るためにスマートフォンを掲げている。でもそのせいで肝心の殿の中が見えない。私と弧の面は完全に出遅れたのだ。
 音楽を聞くだけじゃつまらない――ため息をつきかけた私の肩を叩き、弧の面は「こっち」と神楽殿から離れた石段を指差した。
 なるほど。石段の上から見ようということか。
 人の波から外れて私たちは石段へと向かう。
 弧の面はジャンプして器用に飛び乗ったが私はできなかった。浴衣の裾が阻むように足の動きを制限し、上手く登れない。そんな私の手を掴んで弧の面はぐいっと引っぱり上げる。勢いのついた体は容易く石段に乗った。私は振り向いて神楽殿を見遣る。
 舞っているのは白い素襖すおうを着た少年だった。
 英紙颯爽とした舞姿だ。此の面が見せたがったのも頷ける。振るわれる鈴木の音が耳から離れない。じんと染み渡っていく。思わず痺れるような神々しさがあった。神楽舞をする少年が、その空気に呑まれていないのがまた見事だった。ギラギラと光沢する紙吹雪、きらびやかな帯のようなたすき、その煌めきに決して紛れたりしない、強い目力。
 でも、気になったのは顔の下半分を覆う仮面だ。初めは神楽舞の道具の一つかと思ったけど、きっと違う。遠目からではただ鼻と口元を覆う仮面にしか見えないが、よく見ればそれが狐の形をしているのがわかる。狐の口元。真横から見れば不自然なほど突き出た鼻の形。まるで此の面の狐面の片割れのようで、私は驚いた。
 雅音と同時に舞も終わる。たくさんの拍手が舞を踊った少年に贈られた。私も此の面も拍手する。実に見事な舞だった。
「毎年、その昨年にふとん太鼓を成敗した神化主が神楽を舞うんだ。去年は第五十八回神化主の天ノ川桐詠。彼女の舞も見事だったよ。ご両親の慶祝もあってか、淡い宵闇の空に大量の流星群が降ってきてね。綺麗だった」
「でも、本当に、すごかった。これだけ人が集まるのもわかるよ」
 私がそう答えると、此の面は「それだけじゃないんだ」と妖しい笑みを浮かべた。
 シャラン――ともう一つ鈴木が鳴く。
 すると、持っていたスマートフォンがバイブした。
 私のものだけではない。その場にあった全ての端末が震動する。いっそおぞましいほどで、私は固まってしまった。けれど、人々の表情は、とてもわくわくしている。
「お待ちかね。あと十秒だ」此の面はけたけたと笑う。「神楽の奉納に人が集まるのは、去年の神化主の舞を見るためだけじゃない。マップを見ればわかると思うけど、この神楽殿は幣殿とけっこう近いんだ。けれど、近すぎない。程よい距離を保っている。そして解放は、神楽の奉納の後、午後七時ジャスト」
 此の面が幣殿の方向を指差した。
 私はそちらをじっと見つめる。
――ふとん太鼓の成敗の開始さ!」
 大きな獣が戸を蹴破ったようなとんでもない音が響いた。メキメキッと木材の繊維を引きちぎり、金属の錠さえも食らいながら、白い紙吹雪を散らしてそれは上空へと躍り出る。
 噂通りの立派な山車だった。彫り物も優美で鮮やかだ。しかし、本来なら何十人もの手で担がれるだろうその太鼓台は、独りでに動いていた。金色の注連縄しめなわや房を暴れさせて凄まじい勢いで滑空する。
 神楽舞を見ていた観客たちは歓声を上げた。中には雄叫びを上げてふとん太鼓が向かった先へ駆けていく者たちもいた。賑わいながらもどこかゆったりとしたテンポだった祭りの雰囲気がガラッと変わる。
 貝笛のようにスマートフォンがバイブした。
 祭り専用アプリを起動すれば、解放されたふとん太鼓の中継が始まっていた。
『いやあ、今年も始まりましたねー』
『やっぱりこの時間になって初めて神夏祭が始まった、って感じがしますよね』
『わかりますー! おっと、申し遅れました。今年のふとん太鼓の実況も、私、第五十回神化主、通称・韋駄天が務めさせていただきます。解説はお馴染みのこの方! 神禍神宮巫女歴四十五年! 通称・おつぼねさんです! よろしくお願いしまーす』
 中継画面には香具師やしを次々に破壊するふとん太鼓が見える。とんでもない騒ぎだ。力任せに突撃して、屋台の骨組みであるパイプやビニールの看板を亡き者にしていた。
 その光景に、私と一緒に画面を覗きこんでいた此の面が口笛を吹く。


戻る 表紙 進む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -