《萩生めぐみ》3/5


 にしても、思い出深い人間に再会したならなにか感じるものなのだと思っていたが、彼女はそんなことちっともないらしい。俺が自分をいじめていた男子生徒であることに気づきもしないし、そもそも名前や顔を覚えているかも怪しい。いやな記憶というのは案外簡単に忘れられるもので、自分の所有するエピソードとして脳に刻まれるだけだ。なにがあったかは覚えていてもその詳細を覚えていないことなんてざらにある。もしかすると、俺がいじめたという記憶すら、萩生めぐみのなかではもう既に存在していないのかもしれない。
「ですから、こうして尋ねているんです。貴方の名前はなんですか?」
 かといって、この質問に答えるのはリスクが高すぎる気もする。俺の名前を覚えていないのならそれはそれでよろしいのだが、覚えられていたならば俺の身すら危険だ。いまなにをしでかすかわからない彼女にとって、そういう危険性の高いワードを頭に入れてほしくなかった。俺は少しだけ考えるふりをして、神妙な顔つきで返す。
「お前みたいな怪しいやつに個人情報をバラすようなことするわけないだろ」
「そうですか」
 案外簡単にひいたことに俺は肩透かしを喰らった。
 俺の気も知らない萩生めぐみはぼんやりとした顔であちらこちらを眺めまわしている。
 完全に俺から興味をなくしたのか、もうそれ以上の言葉を紡がない。そのことが何故か腹立たしくて俺はテーブルの下で貧乏ゆすりをする。なんて恥ずかしいやつだと思われるかもしれないが、これは俺のミジンコよりも壮大なプライドが許さなかった。見苦しさの沼に沈むのも躊躇わない、この話題を終わらせることのほうが永遠の澱みだ。俺はダサさ全開で自ら口を開く。
「イニシャルはHだ」
「わかりました。では助平さんで」
「そんなわかりかたはするな」
 名前をあててほしいわけでも勘づいてほしいわけでもないのだが、さすがにこういう扱いをされると気分が悪い。昔いじめた人間にいじめ返されているみたいで、どうにもやりすごせないのだ。自己中心的でエゴイストで、そう言われても当然だとは思うが、感情というものはコントロールが効かないのだからしかたがない。俺は自分の正当性を心中でしかと提示する。
「えっと……萩生」
「呼び捨てですか」
「いきなり死ぬ死ぬ言ってきたやつがそんなどうでもいいことを気にするな。それで、お前は本当に自殺する気なのか?」
「はい」即答だった。「しますよ、今夜中に」
 なるべくバーテンに聞こえないよう小声で尋ねた俺に、そんなことは意にも解さない態度ではっきりと言った萩生。まるで遅れをとってしまったかのような、そんな気持ちになった。それがたまらなく悔しくて、俺は表情を変える筋肉を意地で氷結させる。
「でもその前に復讐してやるんです。今まであたしをいじめてきた、酷いひとたちに」
「……それは、何人くらい」
「三人。聞いてどうするんですか?」
 俺はその質問には答えなかった。答えないまま質問を続ける。
「そいつらはお前になにをしたんだ?」
「一人は、小学生のころにいじめてきたひとたちの主犯。もう一人は、中学のときにいじめてきたひとたちの主犯。最後の一人は、高校でいじめてきたひとたちの主犯です」
 お前、いじめられすぎだろ。
「……お前も、大学生くらいだろ? 大学ではいじめられたりしなかったのか」
「浪人生です」
 しかも馬鹿かよ。救いようがないな。
 俺は内心で安堵した。さっき確認した通り、萩生は三人に復讐をするつもりらしい。そしてその人間を推測するに、俺は対象として含まれていない。
 俺は小学、中学のころのいじめ玉のうちの一人だったが主犯ではなかった。主犯はたしか五十嵐顕児とかいうドッジボール好きの大柄少年だった気がする。中学校も萩生と同じなのだが、これもたしか氷室繊太郎とかいう一見おとなしそうな腹黒少年だったはずだ。高校は違うのでわからないが、萩生は遠くの女子高へ通っていたと噂で聞いた。俺がオカマじゃないかぎりとてもお近づきに離れない。つまり俺は萩生の復讐の施し相手ではないのだ。
「なにをするつもりだ?」
「いろんなことを。思いつく限りのいやなことを、口にするにもおぞましいようなひどいことを、いっとう不幸だと思うようなことを、してやろうと思います」
 萩生は躊躇いのない、歪なくらいまっすぐな言葉で、己の憎悪を吐きだした。
 昔いじめた人間が、こんな有様になっているのをどのように感じるか、どうか想像していただきたい。まだ自分が善悪もつかない純真そのもののころ、児童特有の残酷を振り回して傷つけた哀れな少女が、いまもその古傷を抱えてぼろぼろになっている。そして彼女は胸に大きな氷を植えつけ復讐や自殺を計画しているのだ。こんな滑稽な運命を目撃して、俺がなにを痛感するのか。懺悔? 同情? いや、違う。そんな天使みたいな生温い、ドラマチックなお優しい感情じゃない。そんなものよりも、それよりも、自分の心を支配したむくつけき感情はまだそんなことを引きずっていたのか=\―だった。
 それどころか、俺の知るかぎり以降も苛まれ続けた彼女に俺は正しかった=Aやっぱりみんなそう思うんだ≠ニ、安堵の心境すら抱いている。彼女と数年ぶりに再会したいまになっても、まだ俺は彼女を見下して虐げていた。それも、言葉に出さない卑怯な部分で。
「でもお前、それならなんでここに来たんだ? 復讐なり自殺なりすればよかったのに……ここに来たってことはそれを止めてほしかったってことか?」
「まさか。そんな馬鹿みたいなことしませんよ。私はただここの人に、目撃者になってもらいたいんです。今から私は復讐をして、そして死にます。それが明日か明後日か、もしかしたら一週間後か、なにかしらのニュースにでもなったりしたときは、貴方たちが証言してほしいんです。あの女性は復讐して死ぬと言っていました、そんなふうに。もし復讐がただの暴力事件として扱われたとき、復讐した相手は、一方的に暴力を振るわれたと言いかねない。そんなのってないじゃないですか。死人に口なし。私は死後に最後のいじめを受けて、ただの危ない犯罪者として語り継がれてしまう。それを防ぐために、私はここに来たんです」
 わりと考えて行動しているらしい。ちょっと現実的でない発想ではあるが、手回しとしては及第点。決して悪い手ではないだろう。しかし、計画が緻密だからこそままごとのようにも感じられて、俺は未だ彼女の心中を計り知れてはいなかった。
「つまり、これであたしの要件は終わりです」
 萩生はそこで席を立った。椅子の足が床に引きずられる音が鳴り、萩生は右手でひらひらと前髪を整える。
 そこで彼女は初めて俺のほうへ顔を向けた。まだあのころの面影が残る顔。ずっとブスだと言って蔑んで、俯かせ続けていた顔が、怯えることもせずにただ自分だけを見つめていた。
「あとのこと、よろしくお願いしますね。さよなら」
 けれど彼女はそれだけだ。飾らない、感動的でもない、ただの小さな終わりだけを告げる単調な挨拶。
 これで用は終わったと、お前にはなんの関係もないと、もう知らないと、意識もせずに確かにそう告げていた。こいつにとってもう後にも先にも復讐と死しかない。それだけが全てでそれだけが絶対だ。そしてそのなかに俺はいない。昔いじめた俺のことなんて、主犯でない俺のことなんて覚えてもいない。悔しさよりも空しさみたいなものが募って、どういうわけか胸がすうすうとした。爽やかなわけでもないその吹き抜けは抱えていても嫌なだけだ。



<</>>



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -