《萩生めぐみ》2/5


 文脈から判断する限りいじめを苦に復讐と自殺を成し遂げるつもりらしいが、そんなの止めたいと思わないし、いっそどうでもいい。俺の知らないどこか物騒なところで清らかでも安らかでもない死を静かに迎えてくれるのが一番だ。いじめられた人間の末路には関心があったがまさかこんなにもおぞましいものだとは思いもしなかった。願わくば明日のニュースに流れてこないことを。俺はゆるゆると首を振って時が経つのを待つ。
「あ、あの……お客様、当店は予約制となっておりまして……お名前のほうを……」
 そこで俺はバーテンに拍手を贈りたくなった。
 念のために言っておくと、この店は予約制などではない。もちろんこの俺も飛び入りで入店したし他の客だってそうだろう。
 つまるところ、ハッタリだ。なかなか唇の動きの澱みを見せない、席にも座らない、この煩わしいお客様に、早々の退出をそれとなく提案したのだ。こんな一度入店したら二度と敷居を跨がせてもらえないような客が過去入店しているとは思えない。バーテンの反応を見てもそうだろう。つまり、あの女は今日が初見であり予約制であることを知らないはずなのだ。これはいい効果を与えられたに違いない。
 いくらなんでもそんなことはどうでもいいので話を聞いてください≠ニは言わないだろうし、精々なにも言わないまま立ち去るくらいしかできないはずだ。少なくともこれは考えうる限りで一番いい手だと思う。頭のキレるやつだぜ憎いねと、口角を歪ませた。
 女はやはり黙りこんでいた。なにも言えずに呆然と立ちつくしている。
 ほら、引っかかったぞ。
 俺もそしておそらくバーテンも心中ではしたり顔をしていた。意地悪い人間だと言われても今ならそれを誇ることができる。こんなわけのわかない、気持ちの悪い、そして死にたがりな面倒くさい人間にはこれぐらいの対処が必要なのだ。一体この女にどんな過去があるのか知らないが、どうか俺たちを巻きこまないでほしい。どんな権限があって大切な時間を虐げているのか、どんな権利があって大切な空間を苛んでいるのか。これほどまでに罪深い人間はそうそういないに違いない。顔には出すことはなかったが内心は清々しい気持ちでいっぱいだ。一人の人間が無様に嘘を信じこんでいる様に心から快感を覚えた。今までのいやな気分がすっと晴れていく。目の前にいる人間の醜態と失態を、俺は心の底から嘲笑った。どこかで味わった感覚に似ていて、それだけが妙に引っかかったけど。
「……この人と、約束をしていました」
 ところがだ。この女、俺を指して連れ宣言をし始めた。
 バーテンは目を見開かせて俺を見遣る。その矢印がなんとなく冷たくて、裏切られたような気分になった。
 すっかり気を害された。俺は眉間に皺を寄せる。とっとと否定してしまうのが一番だと口を開いた。そうだ、それがいい、こんな女など俺は知らない。嘘をつくわけじゃないのだからこれぐらいの非情は許されるだろう。俺はこの女を見捨てることを、自分自身に誓う。
 しかし、俺が空気を震わせるよりもずっと早く、女の舌は言葉を飛び散らせる。音速よりもずっと速い、星の彼方の速さだったかもしれない。その声は俺のセピアをくすぐって、ひどい懐古を呼び覚ました。有無を言わせない、けれど決して謀りのない、俺のそれよりもずっと強いであろう宣誓的な音を、この女は当たり前のようにゆらゆらと吐きだしていく。
「お名前は、萩生めぐみといいます」
 それは耳に吸いこんでいくような名前だった、懐かしさと汚らわしさで体が硬直した。どろりと重くて、女の闇をすべて抱えこんでしまったような気分になった。起こされたばかりのどうしようもないセピアが掠めていく。おぞましいほど骨の根が冷たかった。だけど血潮だけはマグマのように熱い。
 この瞬間から、俺の世界は彼女だけになった。
 もうなにも隔てるものなどない。
 俺の心さえも、彼女に味方した。
 萩生めぐみ。
 それは俺が、昔いじめた少女の名前だった。






 萩生めぐみは全校生徒から汚がられるような、平和な湖の中の黒い藻のような存在だった。黒い藻といっても血を差別されるような肌の色をしているわけでもないし、ほくろで肌色が埋もれているわけでもない。どちらかといえば色白いほうの女の子らしい華奢な柔肌が平均的な体躯を覆っている。顔の造形が乱れているわけでもない。たしかあのころはブスだと蔑まれていたような気もするが、拙い子供はありきたりな事実無根の言葉でしか罵ることを知らない。どこにでもいそうな、どこにでもいていいはずのごく普通の彼女が、何故あのときいじめられていたのか。理由は単純、ただ、運が悪かったのである。
「そういえば、貴方の名前はなんですか」
「……知らない相手の連れだってよく言えたな」
 俺は萩生めぐみを睥睨した。彼女は無表情のまま、俺の隣の席で烏龍茶を飲んだ。
 どうやら彼女は俺が比来栖陽汰であることを知らずに連れだと宣言したらしい。あのまま無下にされる確率のほうが高かっただろうにそうでない可能性に縋るとはとんだ勝負師だ。こうして彼女に勝利の盃をくれてやった俺が言えた義理でもないだろうが。
 この死にたがりの女があの萩生めぐみだと思いなおせば、どういうわけか見かたが変わってくる。ぼんやりとしていた靄のようなビジュアルが途端くっきりとして見えるのだ。
 茶色が抜けてところどころに黒の見える髪だとか、女の子の好きそうな色をした長袖のニットだとか、ずっと勉強でもしてたみたいな黒ずんだペンだこだとか。それはもう鮮烈に、パーツパーツが自己を主張するように目に飛びこんでくる。あのときの薄幸を湛えていた少女がいまもなお暗い肩をしているのは、少なからず俺のなかで思うところがあった。
 至近距離にいるせいか萩生独特の匂いが鼻孔を突くのだが、その感覚に古きよき時代≠思い出した。
 そうだ。そういえば彼女はこんな匂いをしていた。
 彼女に対するいじめを促進させたのもこれだったはずだ。今なら理屈でわかる。彼女の匂いは加虐心を煽るのだ。それは臭いだとかマイナスなものではなく、甘く野性的で罪深い感情を抱かせられる、扇情に据えかねない、独特な匂い。ある程度熟成した者ならともかく純朴な少年少女には嫌悪感しか抱かせないだろう。それを思えば彼女の人生は宿命だったのかもしれない。その点については素直に可哀想だなと思えた。



<</>>



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -