《比来栖陽汰》4/5


「ごめん」
 気づいたら俺はそう言っていた。表情も変えずに萩生は返す。
「言わなくていいですよ。言わなくていいように、復讐することにしたんだから」
「でも、悪かった。本当にごめん」
「本当は自分が助かりたいだけのくせに」
 上がっていない口角から漏れた笑い声。俺に認めさせるように首を傾げた。
「あたしも自分が助かりたくていろいろ計画したんだもんわかりますよ。重っ苦しい感情が胸から取れるのって本当に気持ちいいですよね」
「気持ちよくても傷は残ったままだ」一拍置いてから俺は続ける。「お前を見捨てて、助けなくて、傷つけてごめん」
 萩生はゆったりと目を細めた。どこか目尻に諦観の影が差している。
 俺のほうをじっと見ながら数歩だけ後ろ歩きをした。そんなことを、足場を減らすようなことをしたら、ふわっと落ちてしまう。
 俺が一歩踏みだそうとすると萩生は「来ないで」と強く囁いた。その暗い目は近寄れば飛び降りる≠ニ叫んでやまなかった。訴えるような眼差しに俺の足は食い止められる。
 萩生は風に靡く髪を鬱陶しそうに耳にかけた。
「あたしが貴方に復讐するのは、あたしをいじめたからじゃない」
 そこで俺は「えっ?」と声を漏らした。
 驚いた。いきなりなにを言いだすんだと思った。
 俺は萩生のいじめられる原因を作った張本人だ。無垢な少女を見捨てて苛んだ犯人だ。だからこそ今こんな思いをしているのだと、萩生のそばにいるのだと、そう思っていた。
「じゃあ、なんで……俺は一体なにをして、お前を傷つけたんだ?」
 覆される推測に聞かずにはいられなかった。
 萩生は瞬きをしたあと、口を開く。
「……ある日、下駄箱のなかにお菓子が入っていました。カラフルな包み紙のお菓子。下駄箱の中に毎日入れられていて、それがあたしの心の支えでした。まるであたしを励ましてくれてるみたいでとても嬉しかった。この学校にもまだ、あたしの味方がいるってそう思えたから。一度も可哀想って思ってもらえないまま、友達にまで無視されたあたしに、唯一優しくしてくれたのがそのお菓子だったんです。あたしはそのひとが誰か知りたくて冒険しました。別に見つけだすだけで、仲良くしようとか思ってたわけじゃないんです。ただ本当に自分を思ってくれる誰かがいるってことを確かめたかっただけで。だからあたしは、ある日こっそり隠れて、自分の下駄箱を見張ってたんです。いつもお菓子を入れてくれるのが誰なのか、知りたくて。ただ一度、ありがとうと言いたくて……」
 いつも本当にありがとう。貴方のおかげであたしは頑張れる。このお菓子があたしの希望なの。ただそれを伝えたかったんだ。助けてくれて、ありがとう。
「でも」
 萩生のせり上がってくるような思いが泣きながら俺の胸を噛んだ。血が出たのは俺じゃない。致命傷を負ったのが誰なのかなんて、もうわかりきっている。

「――そこにいたのは、貴方だった」

 萩生は唇を噛んでいた。ゆるりと二度首を振る。
「知ってる。あたしの……あたしの下駄箱の中にお菓子を入れていたのは、貴方だった。あたしが、それまでずっと、希望だと思い続けてきたものは、よりにもよって」
 よりにもよって、なんで俺はそれをしてしまったんだ。なんで萩生は知ろうとしたんだ。なんでそんなものに希望を感じたんだ。なんで俺は気づかなかったんだ。
 自責の感情が水のように流れこむ。
 だってこれじゃあ、俺は本当に最低だ。
 的外れな同情心だの傲慢な罪悪感だの、そんな達観してみせたって、ただの自己満足には違いない。励ますつもりはなかったなんて驕った文句を一体どの口が言うのだ。保険をかけるみたいな下衆い考えが透いて見えて、本当に自分をぶん殴りたい。結果的には一番最悪な方法で萩生を傷つけた。見捨てたくせに、いじめてるくせに、隠れた優しさを振りかざし、後ろ足で突き落とした。希望を植えたのも根こそぎ摘み取ったのも俺なのだ。幻想の裏切りなんて、そんな生易しいものじゃない。
 お菓子を入れていたのが俺だと知ったとき、萩生はどれほど苦しんだだろう。
「でも、毎日毎日置かれてあるお菓子に、頼らずにはいられなかった。馬鹿みたいでしょ? どうせ貴方が入れたものだってわかってるのに、一度抱いた幸福はなかなか捨てられない。だからあたしはずっと、それを求めていました。その甘さを。依存と言ってもいい。それがないと、生きていけないくらい」
 ああ、そうか。
 今やっとわかった。
 萩生めぐみが、今日死ぬ理由。復讐と自殺をいっぺんに終わらせなきゃいけない理由。今夜が明けるまでに片をつけたかった理由。
 俺はポケットの中にある蕩けたチョコレートの包み紙を、ぎゅっと握る。
「あのお菓子が、販売中止になったからか」
 大学への願書を出すのに失敗した――そんな不幸を慰めるものが、もうなくなってしまったのだ。中学を卒業して、俺と離れて、もう下駄箱にお菓子を入れられることがなくなっても、つらいことがあった日はそれを買っていたと言う。きっと今日もいつものように、そのお菓子を買おうと思っていたんだろう。そうやって一日を乗り切ろうとしたんだろう。けれど店頭にそれはなかった。不幸を耐えて一日を終えれるだけの希望は姿を消した。どれだけ探し回ったって、もうどこにも。
「萩生」
 俺はすっかり形の変わってしまった残骸のようなチョコレートを、ポケットの中から出して見せた。カラフルな包み紙は茶色く濁り、中にあった金平糖やラムネが浮かびあがっている。食指の動かないそんなお菓子に、萩生は目を見開いた。
 唇が震えている。切なさがそのまま輝くような小さな微笑み。数時間も萩生のそばにいたけど、笑顔と言える笑顔を萩生が見せたことはそうなかった。やっと見れた笑顔が、こんなときなんて。
 激しい衝動を押さえつけるように萩生は俯く。肩は震えていた。それからゆっくりと顔を上げて、吹っ切れたみたいな穏やかさで俺に言う。
「それなりに楽しかったですよ。まるで友達になれたみたいで、久しぶりの感覚だった」
「……まるで最後の言葉みたいだ」
 萩生はなにも返さない。
 そりゃあそうだ、これが最後の言葉なんだから。
 恨み言を言われるよりはずっといいのかもしれない。
 けど、最後をここ≠ノしたくない俺がいる。



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