《比来栖陽汰》5/5


 覆せないことなんてわかっていたし期待はしてなかった。それでも心変わりがあればいいのにと静かに縋っていた。
 そんなことはありえないと打ちのめされる。当たり前だ。萩生にとっての希望は俺のあげたお菓子だ。俺ではない。渡し主が俺だとわかった時点で、萩生のなかでの幻想は完璧に打ち砕かれていた。そしてその唯一の希望はどろりと溶けてしまっている。俺なんかが萩生を生かせるわけがない。
 夜明けにはまだ早いだろうが新聞配達の時間はいまごろだ。でも、自転車を漕ぐ音もポストに投函される音も、なにも頭に入ってこない。入ってくるのは、萩生と自分の呼吸音だけだった。
 瞳で牽制をしながら、萩生は一歩後ずさる。
 あと二歩ほども歩けば容易くこの屋上から身は投げ出されるだろう。そして落ちる先は硬い地面で、俺が手を伸ばす間もなく萩生は死ぬ。
 終焉は瞬く間だ。ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもなく、デッドエンドを迎えようとしている。全てを終わらせることで報われようとしている、そんなどうしようもない存在に、俺は近づくこともできない。
――きっかけ≠ェ。
 きっかけが欲しい。
 なんでもいいから、その命を救うためのなにかが欲しい。
 俺の言葉にはそんな力もなく。
 彼女の希望は消えてしまった。
 いったいどんな奇跡が起きれば、このエンドロールを止められるんだ。
「あっ――――」
 まるで迎えが来たかのように、萩生の体はゆらりと傾いた。反射で踏みだす俺に背を向けるようにして、呆気なく空中に投げ出される。浮いた踵と残された爪先がクロスする。萩生は目を閉じていた。
 死ぬ。
 そう直感したとき――起こったのは一つの不運≠セった。
 ほとんど宙に委ねていた萩生の体は絶妙な角度で静止する。身を乗り出したままガクンとつんのめった状態だ。なにが起きたかわからず萩生は混乱で風を掻いていた。
 服が、引っかかっている。
 落ちる寸前で、剥きだしになった鉄の棒に萩生の服が引っかかったのだ。
 地面を強く蹴る。息を吹き返した衝動が、俺を萩生のもとへ駆け寄らせた。
 ごめん、萩生。
 これが、お前に対する最後のいじめだ。
 俺はお前を虐げる。
 じたばたともがく萩生の服は今にも棒から取れそうで、でもそれが外れるよりも、俺が萩生を迎えにいくほうが早かった。中途半端なままの体を強引に剥ぐ。萩生は俺の胸や肩を押して必死に抵抗するも、一度両腕を押さえこんでしまえばこっちのものだった。原始的な呻き声を上げて死を渇望したが、身を投げ出される前に俺はその体を抱きしめる。華奢な存在を押さえこみ、そのまま背中から倒れこんだ。もう萩生が暴れることはなかった。
 萩生が落ちたのは地面ではなく俺の腕の中だった。
 それでもきっと、どこよりも地獄であったことだろう。
 心臓は本人よりも酸素を欲しているらしく、首元をくすぐる萩生の吐息はひどく小刻みだった。俺の服をぎゅっと握りしめる拳は震えている。狂いそうなくらいの感情がその体を走り抜けているのがわかった。一日我慢した絶望が、その身を食い破ろうとしているのかもしれない。
「……あっ、ああ」
 聞いているこっちが悲しくなるほど、水浸しな声だった。
「あ、ああっ、ぁ、あああっ!」
 首に生温かい滴が伝う。俺の腕の中で萩生は懸命に泣いていた。
「あああっ、うっ、あああ、あっ、うあああああああああっ! あぁ、ああっ! ああぁあぁあああああああああああっ!」
 叫ぶように泣く萩生の声は天を突きあげる。星の彼方にも遥か地底にも届きそうで、今までに聞いたどんなものよりも残酷に、俺の心に響いた。それでも確かに高揚している。鼻孔を突く刺激性の強い匂いが、萩生が生きていることを知らしめる。こんなときまでなんて不運なやつなんだろう。もしかしたら萩生は、神様にまでいじめられているのかもしれない。
 口から掠れたなにかが漏れる。萩生とは正反対の性質を持つそれ。
 抑える気なんてこれっぽっちもない。投げ出されるまでに、そう時間はかからなかった。
 俺は笑った。
 腹の底から笑ってやった。
 小刻みなリズムが喉を通り、感情に任され鳴り渡った。萩生の泣き声と俺の笑い声が二重奏のように高らかに響く。この調べに物語があるなら、萩生にとっては悲劇で、俺にとっては喜劇だ。物語はクライマックス。ここが山場で見せどころ。エンドロールはまだ早い。俺はここで、萩生に終わりを迎えさせる気はさらさらない。
 笑い声のまま、俺は叫ぶように萩生に言った。
「痛快だろ萩生! ははははっ、なあ! おま、お前、そうだろ! 五十嵐なんてずっと家に籠ってて、あんなところで腐ってやがるんだ! 気づいてたか! あいつ、お前を見た瞬間、罪悪感バリバリの顔してたんだぞ! 傑作だろうが! お前をいじめたことずっと苦しんでたんだよ! ざまあみろじゃないか! 氷室なんて、いいとこの坊ちゃんみたいな顔してたくせに、今じゃあのザマなんだ! 危ないことばっかして! きっと一生穏やかには生きてけない! どうせ最後はあいつもクスリ漬けっていうオチだろうな! 西園寺円華にしたってそうだよ、なあ! お前をいじめた報いだよ! 彼氏にDVされて、しかも、離れられないんだ! とんでもない馬鹿だよ! みんな、揃いも揃って、全っ然幸せじゃないんだ! 俺だって、俺だってな! 今日一日不幸でしかなかった! お前が死にそうになったときも、嫌で嫌で嫌で嫌でたまらなかった! 笑えるだろ! お前をいじめたやつは全員、誰も幸せじゃなかったんだ! いい気味だよ! 罰が当たったんだ! いじめなんてする最低最悪な人間は、誰一人も幸せになれない!」
 お前だけを不幸になんて絶対させない。むしろ、お前が不幸であっていいわけがない。
「大丈夫、大丈夫だよ、あいつらがお前を笑った分だけ、お前も笑ってやればいいから、お前も幸せになればいいから、今までが大きな深い谷で、つらくて嫌なことばかりだったかもしれないけど、ここからなんだよ、お前の幸せはここからだ、やっとなんだ……大丈夫、だから」
 復讐したいって思いも。
 死にたいって思いも。
 どうかここへ置いていってくれ。
「あのときは、助けて、やれなかったけど。復讐も、死ぬのも、助けてやれなかったけど。でもせめて……せめて生きることくらいは助けてやるから、幸せになることくらいは助けてやるから。だから、」
 だから、生きろよ。
 打ちつけたままの冷たい背中に汗が伝った。いつの間にか視界は薄らぼやけていて少し情けない。でも、仰向けの視界は壮大だ。だんだんと夜空の明度が高くなっていくのがわかる。
 俺の言葉は萩生のもとへ届いたのだろうか。
 すっかり嗚咽だけになっていたが、まだ目からは涙がこぼれ落ちている。腕の中で動かなくなった萩生の肩は俺と同じくらい冷えていた。それでも体の中心が温かいのは、迸るものがあるからか。
 この日、萩生めぐみはなにかを殺した。だけどそうすることで得られるものはきっとある。
 運悪くなにも果たせなかったエンドロールは、ゆったりとしたテンポで流れていく。
 もうすぐ夜明けだ。
 救われない一日が、やっと終わる。



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