《比来栖陽汰》3/5


 なにも悪いことなどしていなかった。
 それこそたまたまだ。
 運が悪かっただけで。
 本当なら普通の人生を普通の人間のように普通に生きていくはずだった。復讐や自殺を考えるほどのいじめを味わうことも、苦しむこともなかったはずなのに。
「からわれていた男の子は手の平を反すみたくあたしのいじめ玉に加わったんです。からかいのニックネームが、いつの間にか親しみをこめた愛称のように扱われていました。いまじゃ五十嵐と対等に話せるくらい、馴染んでいったんですよ」
 こんな惨めな話をしていていながら一番落ちついているのは、奇しくも萩生そのひとだった。
「でしょ? 《ピクルス》くん」
 そして萩生の話に出てきた男の子とは、苦しくも俺のことだった。






 ピクルス。そう、昔はよくからかわれていた。
 別に俺がなにかやらかしたとかそういうわけじゃない。ただ物珍しい名字だっただけで、聞き慣れない音に敏感な子供たちは、安易にそれで嘲笑った。もしかしたら、周囲の子供からしてみれば見逃せない壮大ななにかが、当時の俺にはあったのかもしれない。けれど中学高校と成長するにつれ、誰もそれを気にならなくなったのだから、そう大したものでもなかったのだろう。いじめなんて、そんなものだ。もちろん名前をからかわれるだけで暴力を振るわれたりはしなかった。だけど、自分ではどうにもできないことで散々に囃したてられるのは、幼心には大変な苦痛であり屈辱だった。目立った嫌がらせもないから先生に言っても適当にあしらわれる。親に泣きついても、宥めすかすような薄情なことしか言われない。そりゃあ、いま考えれば、名字のことでからかれるのだと親に告白したところでなにかが変わったとは到底思えない。でも、解決できないその状況が、俺には味方なんていないのだと思わせた。
 前の席の萩生に消しゴムを拾ってもらった。
 その日から、からかいの対象が俺ではなく萩生になった。
 最初は俺に気があるだの好きだなんだのという、小学生にありがちな馬鹿げた思考回路からだった。当時の女子たちはピクルスなんてまぬけな名前のついた俺のことを遠巻きにしていたし、そんな俺に話しかけた時点でからかいの対象になるのは明白だ。でもそれだけだ。きっとすぐに終わるものだと思っていた。
 ところがどうだ。
 萩生のからかいはエスカレートして、最早いじめと呼べるものにまで発展を遂げていた。
 かつて俺がピクルスとからかわれていたことなんて葬り去られ、全ての標的は萩生ただ一人に絞られたのだ。
 まるで最初からいなかったみたいに、萩生から友達は消えた。全員がいじめ玉に加わった。クラスメイトどころか学年ほとんどの生徒が、先生の大好きな一致団結をして、萩生めぐみを虐げたのだ。そのなかには俺もいた。いままで敵だった相手を味方と呼んだ。自分が苛まれなくなった心地よさに酔って、誰よりも萩生の気持ちがわかるであろう俺が手の平を反した。
「五十嵐たちにいじめられながら貴方のことを恨みました。まあこの件に関して貴方が悪いってわけじゃないですけど。だって気持ちわかりますもん。あたしも、逆の立場なら比来栖くんみたいにしたかもしれない。だからって、靴を隠したり、泥だんごを無理矢理食べさせたり、足を引っかけて転ばせたり、暴力を振るわれてるところを見すごしたりはしないだろうけど」
「ボーイズ・ビィ・アンビシャス。女の子にかまってたら男の子は大成できないんだよ」
「貴方が言うと重みが違いますね」
 そうだな、と俺はへたくそに笑う。
 苦痛も屈辱も味方のいない辛さも、みんなみんな知っていたのに、俺はまたからかわれるのが嫌で、親切をしてくれた萩生を助けなかった。
「比来栖くん、あたしをいじめたあとの人生は、楽しかったですか?」
 萩生はそう言って、壮絶に微笑んだ。
 少し前には簡単に返せていたのに、隠れ蓑を剥かれてしまうと馬鹿正直に喉元は突っかかった。答えたかった。少し前までの答えには足りなかっただけど≠フ感情を付け足して。
 でもそれは声には出せなかった。あまりにも言い訳じみていて、こんな汚いものを聞かせられるわけがない。意地悪な聞きかたをするなんて責めることもできない。自分が一番よく知っている。萩生を虐げながら、俺は確かに肯定したのだ。若気の至りで幼さゆえの罪で人間であれば誰もが通る道。いじめなんて誰だってする――そんなふうに、しょうがないと片づけた。
 こんな非道なことはない。最高級のクズ野郎だ。
 出会ったときのお前を狂ってるなんて言う資格は俺にはなかった。
 お前の言うとおりだよ、萩生。
 この世にはきっとお前以外、まともなやつなんて一人もいない。
「あのね。復讐相手は三人って言ったけど、本当は四人だったんです。その四人目っていうのは、もちろん比来栖くんのことですよ」萩生は続ける。「実を言うと、貴方の復讐ほど楽なものはなかったです。貴方ってば、身の程も弁えてないみたいにすぐに同情するんだもん」
 さぞかし無様だったことだろう。自業自得で勝手に悶えていた、だらしない俺の様は。
 出会ったときから俺を比来栖陽汰だとわかっていたということは、萩生は相当な性悪だ。この夜に味わった居心地の悪い苦味が報復なのだろう。なるほど。これは、とてつもなく重い。
 となるといろいろ見えてくる。バーから出たあと俺が立会人としてついていくことになんの疑問も抱かなかったのは、俺がいろんな感情で押し潰されることをわかっていたからだ。可愛くないことをしてくれる。きっと狙ってやっていたはずだ。全部わかっているようでなんにも知らなかった俺は、萩生の策略にまんまと引っかかった。
「どうでした? 今日一日の気分は」
「俺史上最高に胸糞悪かったよ」
「よかった」
 はっきりとした音だった。あまり感情をこめているわけではなかったけど、俺の耳に届きやすい、厭味としてはストレートすぎる響き。
 さっきからずっと萩生の言葉は毒の種のようだった。投げかけられて、耳からころんころんと落ちていくたびに、心臓に草木を生やしていく。伸びるのは一瞬だ。すぐに枯れて、しがらみのように纏わりつくのだ。胸のあたりが重いと感じるのはきっとそれが原因だ。
「せめて比来栖くんにだけでも復讐が成功して、よかった」
「大成功だよ。おめでとう」
「苦しい?」
「苦しいな」
「辛い?」
「辛いよ」
「死にたい?」
 俺は首を振った。だよね、と萩生は呟いた。
「でも、あたしは死にたいって思うくらい、傷つけられたの」
 いじめられる原因になった比来栖陽汰。
 小学生のころ主犯となった五十嵐顕児。
 中学生のころ主犯となった氷室繊太郎。
 高校生のころ主犯となった西園寺円華。
 みんな悪者だ。復讐が完遂していようとしていまいと、被害者は萩生めぐみただ一人だ。



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