《比来栖陽汰》2/5


「そう、今まで両親にはたくさん迷惑をかけてきた。先生に呼ばれて学校にも行ってもらった、何度も体操服を買いなおしてもらった、せっかく作ってくれた弁当は捨てられて食べてあげられなかった、お金のかかる高校に行かせてもらった、登校拒否して困らせたりした、恥の多い娘だって近所に噂された、大怪我して高い入院費を払わせたりした、二浪したせいでいっぱい無理させた。だから、今日で最後」俺の沈黙に被せるように言う。「本当に、最後」
 声に厚みはない。けれど決断はされていた。
 そうだよな、と心中か肉声かもわからずに呟く。
 それからの会話はなかった。俺も萩生も、会話をしようとは思わなかった。
 歩き続けると確かに見知った区域であることがわかった。行けばわかるとはこういう意味だったのかもしれない。
 一本百円とでかいシールの貼られた自販機、その隣にはハテナマークのガチャガチャが陳列している。たばこ屋のシャッターは閉まっていた。簡素な住宅だとか古きよき商店だとか。タクシーで通ったことのある道も見える。しみじみとはしてられないけどなんとなく安心できた。
 結局十五分ほど歩き続けて、次に萩生が口を開いたのは「ここです」という四文字だけだった。
 目的地だろうか。暗いビルの階段を無遠慮に上がっていく。
 その後に続くも、慣れない階段の幅に何度か躓きそうになった。どうやら住宅と商いの混在したビルらしく、下階は雀荘や美容室だったが上階はマンションっぽいドアがずらりと並んでいた。もしかしてここは萩生の家で帰ろうとしているのかと思ったが、その足はドアの群すら無視して止まらなかった。ずんずんと階段を登っていく。最終的には最上階に辿りついていて、屋上に続くドアの前まで来ていた。
 ああ、転落自殺か。
 萩生がそのドアを開けたときに俺はぼんやりと思った。
 そよ風が髪を掻いていく。萩生はそっとドアから手を離し、俺は閉じられていくドアを手で押さえながら萩生に続く。それなりに広い屋上にはフェンスもなにもない。ただ抉られるように剥きだされた鉄骨と折れ曲がるようにはみ出した歪な金属軸が、屋上の一角から樹木のように生えていた。すごく不気味だけど、今から起こることのほうがよっぽど不気味で、心臓はいよいよ伸縮を激しくする。
「あそこ」
 ふと萩生が指をさす。その方向に視線を遣る。
 このビルからそれなりに離れたそれを見たとき、俺の心臓は一際大きく振動した。
「通っていた小学校です。ここからよく見えるでしょう?」
 そう言いながら、萩生は屋上の端へと進んでいった。俺は突っ立ったまま、その姿を眺めている。
「あそこが見えるところで死のうと思った、ぜーんぶあそこから始まったから」
 今すぐにでも落ちてしまいそうな不安定さなのに、その体はぴくりとも動かない。
 途端振り返って俺を見た。

「ねえ。そうだよね? 《ピクルス》くん」

 一瞬、耳を疑った。
 じわじわと身体の核から熱が広がっていくのがわかる。冷却は早かった。噴きだした汗が嘘みたいに冷たい。ただ俺は、呆然としていた。
「あれ? もしかしてこのあだ名覚えてなかったりします? もう十年も前のことだから。でもあたしは覚えてましたよ。インパクトがすごくて。っていうかあの頃は食べ物系のニックネームが流行ってましたもんね。いい意味でも、悪い意味でも」
 萩生の顔色は変わらなくて、それどころか、今日一日で一番清らかであるように思えた。
 息をすることすら疲労した。俺はやっとの思いで「いつから」と囁く。
「最初から。貴方が比来栖陽汰だって。そうです。あのバーにいたときからですよ。貴方はあたしが名前を言うまで、あたしだってことに気づいてなかったみたいですけど。見て見ぬふり、我関せずって感じでしたよね」
「……じゃあ、お前は、俺の本名を知っていて、ずっと助平さんなんて、呼んでたのか」
「はい。嫌がらせです」
 ちょっとおどけて見せたが、ただの強がりとして流れていった。
 萩生は追いかけるように言葉を吐く。
「でも、流石に覚えててくれたんですね。忘れられるわけないですもんね。あたしも貴方のこと忘れられなかった。五十嵐よりも、氷室よりも、西園寺さんよりも」
「…………」
「あたしは最初いじめられてませんでした。友達もちゃんといて、あたしの世界は平和そのものでした。そのときのいじめの標的は別の子で、名字が変わってるっていう理由でみんなにからかわれてました。ドッジボールのときリンチにあったり、物を勝手に取られたりとかされてたんです。クラスのみんなもからかわれてる子には辛辣で、近くにいると自分まで巻きこまれるからって遠巻きにしていました。ある日その子は授業中に消しゴムを落としてしまいました。確か自習の時間で、みんながわいわい騒いでるときです。あたしはたまたま前の席で、その子の消しゴムを拾ってあげました。それだけ。たったそれだけです。でも、そのときたまたま、五十嵐や女子たちが現場を見ていて、その子を助けただけのことで、そんな些細なことで、その日確かに変わってしまった。あの教室どころか、あたしの世界が」
 そうだ。あの日のことは俺もよく覚えている。
 この記憶こそが――この数時間、萩生と行動を共にすると決めた原因だったのだから。
「その子を助けたあたしはみんなにからかわれました。それがどんどんエスカレートしていって、からかいなんて可愛いものじゃない、いじめにまで発展していきました。友達は、みんないなくなりました。友達だと思ってた子は、笑いながらあたしに悪口を吐くようになりました。味方はいませんでした。誰からもいじめられたんです。助けたはずの、男の子にすら」
 これが、萩生めぐみがいじめられるようになった事の発端だ。
 純朴な笑顔と控えめでおっとりした性格から、当時はぐみちゃん≠ニ評判の良かった少女が、一瞬にして絶望することとなった大きな種。



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