《比来栖陽汰》1/5


 あ。
 さっき足の甲を弾いたのは、落としてしまった消しゴムだ。
 その日の四年三組の教室は少しだけ騒がしくて、均等に並ぶ生徒たちの頭がこそこそとお互いにくっつきあう、内緒話のパレードだった。突然舞いこんだ自習の時間に行儀よく自習している生徒は十人もいない。教卓に置かれた藁半紙のプリントの魅力のなさは、社会の時間に見せられた戦争の映画のそれ以上だった。やることのなかった俺は真面目な十人以下の一人で、綺麗な長方形のマスの中に、適当な答えを埋めていた。
 何問目かで答えを誤ったことに気づき、筆箱から消しゴムを探す。なかった。
 一瞬誰かが勝手に取ったのだと勘違ったが、ついさっき自分の足に小さな点のような感触があったのを思い出す。ガタゴトと椅子を動かし視線を漂わせていると、前の席の女子の椅子のちょうど真下に、見慣れた消しゴムが転がりこんでいるのがわかる。
 そんなところにいたのかと思う反面、どうしようかと思い悩んだ。
 いきなり彼女の椅子の下に入りこんだら妙な勘違いをされるかもしれない。変態と思われて囃されるのは目が眩むほど嫌だ。どうしても避けたいことだった。
 目の前の少女に話しかければいいのはわかっている。けど、それもなるべくしたくない。
 事は荒立てぬまま、穏便なままに済ませたい。
 誰も自分のことなんか見ていないのを確認する。クラスのリーダーである五十嵐も、ませた女子も、みんなおしゃべりに夢中になっていた。
 よし、今だ!
 と、意気ごんで椅子から降りようとした瞬間、前の席の女子が振り向いた。
 急なことにびっくりして、大仰に肩を震わせる。
――どうしたの。
 ほとんど口きかない彼女の声は、緊張していた。
 そりゃそうだ。ただでさえ相手は自分なのだ。元来気の弱い彼女が強張るのも無理はない。
 か細い声を出すまでに随分と間があった。直前まで話しかけるのを悩んだんだろう。だったら話しかけなければいいものを。話しかけられれば、こっちまで迷惑なのだ。
――別に、なんでもないから。
 ぶっきらぼうにそう返す。我ながら意地の悪い響きをしていた。
 すると彼女はその丸い目をやんわりと細めて、椅子の下へと視線を移した。それからゆっくりとした動きで椅子の下に腕を回し、苦戦するような声を上げて、数秒後、また視界へと姿を見せる。
――これだよね。
 彼女は消しゴムを掲げてみせた。
 想像していたよりも気さくな話しかたをする。まだ十歳ほどの少女にしてはひどく蠱惑的な笑みで、その小さな存在をクラゲのように揺らす。
――返せよ。
 普段勇気の出せない彼女のいたずらだと思った。
 俺は眉間に皺を寄せて、そう強く言った。
――はい。
 しかし、消しゴムは存外容易く手元に返ってきた。
俺はぽかんと口を開けて、彼女の目を見つめる。きれいな黒目にはおかしな表情の俺がいた。
――あ、あ。
 お礼を言わないわけにはいかなくなった。
 でも、どうしても意地っ張りなその口は、感謝の単語を宙に放つのを頑なに拒む。
 みょうちくりんな音を紡いだだけで、十秒ほどが経った。
 少女は不思議そうに、でも少しだけ気まずそうに、上目遣いに俺を見たあと、なにも言わずに前を向く。靡いた髪からはふわりと、紅潮するほど強い匂いが流れるように香った。
 手の平の消しゴムをぎゅっと握りしめて、目の前の行儀のよい頭をじっと見つめる。
 向き直った彼女は振り向いたりしない。さっきのことなんて忘れたみたいに、配布されたプリントを埋めていく。
 幼い心では持て余すしかない不快感はなにかと綯交ぜになっていた。なにかとはなにか。きっと薄暗い感情だ。羞恥とか、罪悪感とか、チョコと一緒に食べるくらいがちょうどいいくらいの苦いやつ。この瞬間にも二人の子供にとっては大変なことが起きていたのに、なにも知らぬまま、俺は俯く。
 その日確かに変わってしまった。
 この教室どころか、俺の世界が。
「……行きたいところがあります」
 そしてあれから十年ほどが経ち、あの日と同じ形の頭が俺の目の前を歩いている。萩生は振り向くことなく進んでいく。再会したとき放ったみたいな無鉄砲な響きが最後の仕上げを告げていた。
「幸いなことに、そう遠くない。もうすぐ、着きますから」
「着くってどこに」
「行けばわかりますよ」
 真っ暗な朝に白けた息が漂う。疲れてるみたいな響きの声から漏れる少量の靄は、一瞬のうちに消えていった。俺の口からも同じものが漏れている。生憎音ではなくただの吐く息と共に。
 ここからは緩やかな徒歩で目的地に向かうようだ。詳細は教えてくれなかったが行けばわかるとのこと。そう言うからには俺も知っている場所なのだろう。観光名所とか、有名なところなのかもしれない。

 きっとそこで、萩生は自殺をする。

 そしてこれは、きっとだけどきっと≠カゃない。出会ったときから言っていた。今夜死ぬと。それ以外なにもない。今日一日萩生めぐみは二つの目的のためだけに生きていたのだ。復讐は不発に終わって、ならあと残していることといったら死ぬことだけだ。
 これ以上生きていくことは辛すぎるから。
 そりゃあ辛いんだろうな、と俺は確信する。
 いじめられて、その仇討ちすら満足にできなくて。
 目の前を平然と歩きながら、それでも限りなく押し潰されそうになっている萩生。
 怖くないのか。俺はそう小さく呟いた。
「なにがですか」
 萩生の耳は敏かった。呟きを拾いあげた萩生は俺に返した。
「死ぬことが」
「まだわかりません」
「なんで」
「いざ自殺しようと思ったら足が竦むかもしれない。けど、これからも生きなきゃいけないくらいなら、怖くても死にたい」
 突き放すみたいに言う萩生に俺は勢い怯んだ。
 とぼとぼと歩いていくのはそのまま、もう一度口を開く。
「迷惑がかかるとか、思ったことは?」
「誰に」
「ほら」俺に、なんて口が裂けても言えなかった。「親とか」
 萩生の死を一番悼む存在が両親であるのは明白だ。
 それなのに萩生は足を止めなかった。



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