《西園寺円華》6/7


 ちょうど曲がり角を折れようとした萩生を見る。数分後、数十分後、数時間後、この細い体は冷たい死体になる。それがたまらなく怖かった。今こうして歩いてることさえ不気味に感じた。
「……え?」
 そのときだ。角を曲がった萩生が足を止めた。
 不思議そうな、ちょっと不穏な声で驚きを響かせる。
 俺も角を曲がり、同じく足を止めた。部屋の並ぶ廊下に、一人の女が佇んでいたのだ。
 歳は俺たちと同じかそこら。コケティッシュな髪型で遠目から見ても女の子女の子しているのがわかる。各パーツのはっきりとした顔立ちは、芸能人と肩を並べるほどじゃないにしても美人と言って許される部類だ。背丈は萩生とほとんど変わらない。薄着をしている分、その女のほうが細くは見えるけど。
 そう、その女はとてつもない薄着だった。暖かくなってきたとはいえまだ三月だ。夜の気温は冬と同じくらい低いし、パーカーを羽織ってもまだ足りないくらいだろう。
 しかしその女はなにも羽織ってなかった。サイケな化粧品柄の冬用パジャマを上下一枚着ているだけで、靴はおろか靴下すら履いていない。肩を竦めて袖を伸ばし、手を縮こまらせる姿は閉めだされた子供のようだった。
「西園寺さん?」
 萩生のほうを見ていた女は目を見開いた。上擦った声で「えっ? えっ? 萩生さん?」と体ごと首を傾げる。
 この女が西園寺円華だったのか。
 部屋を訪ねる前にぱったり出くわしてしまった復讐相手に俺は反応に窮した。
 西園寺円華はぺたぺたという裸足特有の音を鳴らしながら少しずつ近づいてくる。
「きゃ〜萩生さん? 久しぶりぃ、えぇえ髪伸びたの? あん、似合ってるね〜」
 ふわふわと間延びした喋りかた。聞こえが柔らかなので社交的に見えるし、頭の弱そうな舌足らずな声だって、大人びた顔からくる近寄りがたさの緩衝材になっている。手をパタパタ振ったり愛嬌のある微笑を浮かべたり、親しげに萩生に話しかける様は五十嵐や氷室なんかとは違った。俺のほうを見て「えっ、えっ? もしかして彼氏? やだ〜萩生さんすっごおい」と口元に手を当てて笑う姿はまさしく友達のようだ。
 これまでとは違う元いじめっ子の反応に俺は戸惑った。
 けど、萩生は西園寺円華の一言一句になにも返さなかった。全ての発言に笑顔を添える彼女とは違い、親しみも愛想もなにもない。悉く無視を極めこんでいる。西園寺円華が俺に名前を聞いたあたりで、斬りこむように口を開いた。
「相変わらずみたいだね、西園寺さん」
 ようやっと口を開いた萩生に「え〜なにが?」と両頬に手を当てて首を傾げる西園寺円華。
 不穏な空気を感じ取って、俺は二人の会話を見張る。
「その服の趣味とか」
「あはは、かわいいでしょ〜これ買うためにあたしペットショップで一日十時間も働いてえ」
「染めまくった髪とか」
「もしかして萩生さんもちょっと染めたあ? 重くなってるしもっと明るくすればいいのに」
「その、ふざけた態度とか」
「ええぇ、それは萩生さんのほうだよお。なんでそんなキャラになってんの狂ってる〜」
 愛嬌のある笑顔は終始萩生に対し親しげだ。しかし、むず痒いぐらい歪んでいる。さっきの会話でなんとなく、高校時代の二人のリズムが読みとれた。
 西園寺円華のいじめはいじめじゃない。本当に遊び≠フ範疇なのだ。からかいだとかと一緒で、むしろそれ以下かもしれない。萩生の言うとおりだった。本当にこのタイプは厄介だ。計算ずくかわからないほど無邪気で、目を塞いでるみたいに汚いものを汚いと思っていない。なにに売っているかわからない媚びが惑わすだけ。彼女の世界に、いじめはないのだ。
「西園寺さん覚えてる? 西園寺さんがあたしの着替え隠し撮りしたの」
「ん、ああ、あれ〜? はは、ごめん、内容覚えてないや」
「それ、あれからどうしました?」
「えっ、えっ、なに、見たい? もしかして見たいの?」楽しそうに噴き出すのを堪えながら言った。「容量おっきくて友達のプリとか消しながら残してたのに、ずっと前彼氏と行った水族館のイルカショーで盛り上がりすぎちゃって、水ポチャしてそのまま? 修理屋さんに出したらデータ飛んじゃって〜もうショック〜みたいな」
「そう。なら、よかった」
 萩生はなにかが宿ったような声で言った。一歩だけ、あちら側へ踏みだす。
「全部終わったあと変に騒がれるのが嫌だったから、消えてたんなら本当によかった」
 西園寺円華は髪をくるくると弄びながら「なんのはなし?」と甘く笑う。
「そういえば西園寺さん、いま同棲してるんだって?」
「えっ? えっ? なんで知ってるの、えっ、なんで、ねえってば」
「しかもお腹に赤ちゃんもいるって。できちゃった婚になるんでしょ?」
「え、ええ〜? そうだけど……」
 ここで初めて西園寺円華が口ごもった。するすると何度も同じ髪の束を手で梳いていく。神経質なくらいのその動作は果てしなく意味がなく思えたし、濁すような音の消えかたに違和感を覚えた。
「そ、そんなことよりっ、聞いてよあのね〜あたし一昨日、お花畑で牛に追いかけられる夢とか見ちゃってえって……ん? ん? えっ、なに? どうしたの萩生さん?」
 一歩一歩近づいてくる萩生に不思議そうな顔をする。語尾を何度も跳ねあげて問う西園寺円華は萩生の異変に気づいていなかった。
 俺は知っている。これから萩生がなにをするのか。
 どうしよう、どうしよう。止めるなら今のうちだ。今、萩生の腕を掴んで、西園寺円華に家に戻って鍵を閉めろと叫べば、これから訪れるであろう惨事を防ぐことができる。防ぐことができるのにどういうわけか、拒むみたいに、足が動かない。
「え〜萩生さんどうしたの? 顔怖いよぉ。これ十三日の金曜日だったらまるっきりジェイソンだって思っちゃうって、あはははは!」
 未だ気の抜けた声で緩い言葉を吐く西園寺円華。萩生が歩みを速めて胸ぐらに掴みかかろうとした瞬間、ある部屋のドアが開いた。
「るっせえんだよ! お前の声がうるさくて寝れねえだろうが!」
 それは西園寺円華の少し後ろの部屋だった。
 そこから出てきた男に俺たち三人の視線が集中する。
 唯一親しげに「テツくん!?」と反応したのは西園寺円華だけだった。でも、親しげだけど、少しの怯えが見える。声も上擦っていて、表情だってぎこちない。西園寺円華は彼に駆け寄った。それから縋るようにドアを掴む。
「ねえ、もういいよね? 寒いよ、中に入れてよ。もう甘口のカレーなんて作らないから、あたし辛口でも我慢できるから、ねえ、お願い」
「はあ? 一晩っつったろ。しかも間違うのこれで二回目だろうが!」
 バンッと荒々しくドアを全開にする男。おそらく西園寺円華の同棲相手――つまり恋人なんだろうけど、どうにも不穏だ。西園寺円華は怖がりながら後退りするが、男は今にも事件でも犯しそうな様子でにじり寄る。
 ぺたぺたという寂しげな足音が耳に溶けていく。その足音が止まったのは手すりに背中が擦れたときだった。夜風に晒されすっかり冷えた体を抱きながら西園寺円華は首を振る。
「ご、ごめん、ごめんなさい、だからお願い、やめて」
 震える腕が徐々に膨らんでいないお腹のほうへと下っていく。
 そのとき俺たちは、男が拳を振り上げるのを見た。



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