《西園寺円華》7/7


「なっ!」
 俺は咄嗟に駈けだしてその拳を止めようとしたが一発目は間に合わなかった。固い拳はそのままのスピードで西園寺円華のこめかみをいなす。柔い体は容易く振られた。手すりにしがみつくように倒れこむ彼女はそれでもお腹だけは守っていた。もう一発と振り上げた男の手を俺は掴んで抑えこむ。自分のものより大きなそれは動きをぎこちなくさせるので精いっぱいだった。
「は、早く逃げろ!」
 お腹を抱えながらしゃがみこむ西園寺円華と目が合った。青だか赤だか紫だかわからない痣が、整った顔に無惨に咲いていた。痛そうに眉間に皺を寄せているが、逃げる気配はない。
「早く!」
「え、え、だって、逃げるったって」
「部屋に逃げて鍵をかけろ!」
「だめだよ、そんなことしたらテツくんが」
「いいから早く! 赤ん坊ごと殺されたいのか!」
 彼女は目を見開いた。弾かれたように立ち上がり、おぼつかない足取りで開かれたドアの奥へ逃げこむ。
 萩生が小さく「待って」と踏みだすのが見えた。でも、西園寺円華は気づかずに、不安げに暴れる男を一瞥しながら部屋のドアを閉める。チェーンかなにかをセットする音が聞こえたので、俺は男から離れた。
「て、んめえ……くそ! おい! 開けろ! 円華!」
 男はドアを叩いた。何度も何度も執拗に。
 応答がないことに舌打ちをすると、俺と萩生を睨みつける。
「誰か知んねえが、なにしてくれんだ、この!」
 拳を振り上げて殴りかかろうとする。俺と萩生はすぐさま逃げだし、アパートの階段を駆けるように降りた。怒声と共に後ろから足音が近づいてくるので止まることはできなかった。乱暴な存在感は俺にとっても萩生にとっても恐怖の対象で、まるで運動会のリレーみたいに全力疾走で逃げた。
 男はしばらく追ってきた。でも、走りすぎて心臓が痺れてきたころには、背後には男の姿はなかった。
 俺たちは膝に手をついて息を整える。こんなに走ったのは久しぶりだ。氷室のときも走ったが、ここまで必死じゃなかった。今回ばかりは身の危険を感じた。なんせ相手は恋人に暴力を振るうような人間なのだ。
 そう、暴力を振るわれていた。西園寺円華は些細なことで、大事な顔を殴られたのだ。
 思えば、あの時間帯にあんな寒い格好、しかも裸足で廊下に立っていたのはおかしなことだった。おそらくあの男に閉めだされていたのだ。だから萩生に恋人の話を持ちだされたとき苦しげな表情を見せた。部屋から出てきた男にもういいでしょ?≠ニ縋りついたのだ。モーション前からお腹を庇っていたあたり、ああいう暴力や扱いは日常的に行われているものだと推測できる。そして彼女はそんな相手と一緒に住み、子供をつくり、結婚しようとしている。
「まったく、なんなんだよ」
 呼吸運動に逆らうように俺は悪態をついた。
 アパートからかなり離れてしまったせいでここがどのあたりなのかもわからない。ただ、なんとなく見慣れた建物が遠くに見えたので、迷子になったわけではないだろう。携帯の充電もまだ残っている。GPS機能を使えばこれからの移動に困ることはなかった。
 隣でへばりかけている萩生に視線を遣る。
「萩生、大丈夫か」
 返事はない。呼吸を整えようとする声だけがあった。
 俯いて髪を垂らしているせいで表情は読めない。どんな顔をしているにせよ、俺の言う言葉は決まっていた。
「復讐できなかったぞ。どうするんだ」
 西園寺円華への復讐は、失敗した。
 あのDV男はきっと今ごろ部屋に戻っているはずだ。最後の彼女の様子を見るかぎり、あの男を閉めだしたままにする、なんてことはきっとないだろう。彼女は容易くあの男を部屋にあげる。だってそうだ。恋人なんだから。ずっとそうやってきたんだから。そこからは、俺たちの知ったことじゃない。今までの二人のことを知らなかったように。
「お前、あそこに戻れるのか。戻って西園寺円華に復讐できるのか」
 ある意味では、西園寺円華への復讐は別の形で完了するのかもしれなかった。あのままじゃ本当に赤ん坊は死んでしまう。西園寺円華は庇っていたけど、行為がエスカレートしてしまえばそれまでのように思えた。だが彼女は赤ん坊を大事にしていた。そんな彼女が赤ん坊を殺すかもしれない人間と生活を共にするはずがない。となると、あの男は最早、萩生の味方でもなんでもない。顔が割れて危険度の増した、彼女専用の用心棒だ。
 あんな男に萩生が敵うとは思えない。
 そしてもちろんのこと、俺だって微妙だ。
「お前が決めろ、お前はこれから、どうするんだ」
 萩生の呼吸が落ちついていくのがわかった。有酸素運動により多大な負担をかけていた体がゆっくりと弛緩していく。
 萩生は俯いたままだった。膝に手をつき背中を丸めたままの体勢で、弱々しく口を開く。
「…………いい」
 じっとして動かない姿を俺は見つめる。
 呼吸よりも不確かめいた音が、響きも持たず散っていく。
「もう、いい」
 しばらくのあいだ萩生は動かなかった。それ以上なにも言わなかったし、俺も話しかけようとは思わなかった。第一なにを言えばいいかもわからない。この俺が、一体どんな言葉を、萩生にかけることができたというのだろう。現状では押し黙る他なかった。静寂に痛みは走らない。むしろ、自分の声で萩生を震わせることのほうがよっぽどのことだった。
 かくして萩生めぐみの復讐は幕を閉じる。
 五十嵐顕児にも、氷室繊太郎にも、西園寺円華にも、誰にも果たすことなく。



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