《西園寺円華》5/7


 辛抱強く待ったほうだろう。
 俺の従順な眼差しに答えるように、萩生はぽつりと呟いた。
「……登校しろって」
「え?」
「ノーパンで登校しろって、言われたんです」
 俺は顔を引き攣らせた。いきなりのことでかなり驚いてしまったのだ。
 このタイミングでなんて爆弾発言をしてくれるんだ。
 一瞬いかがわしい妄想を逞しくさせてしまったことに謝りたくなったが、そのあとすぐあることに気づく。
「言われたって、誰に」
「西園寺さん」
 そのとき俺は、女子高のいじめの壮絶さを改めて知った。
 暴力はなかったと萩生が言っていたので、物を隠すとか陰口を叩くとかそのあたりだろうと勝手に思っていた。女子高という甘美な響きに不穏を感じ取っていたとはいえ、俺はまだ純朴なイメージを拭いきれていなかったようだ。まさかそんなことを言われていたなんて考えもしなかった。萩生の口から飛び出ただけでもこの有様なのに、それが美人のいじめっ子から聞かされたなら、俺はきっと打ちのめされていただろう。いくらなんでもこれはエグい。女子はこういう精神的な暴力で誰かを苛むのか。それを言われたとき萩生はどんな思いだったのか、考えるだけで眩暈がする。
「……やったのか?」萩生の無言を肯定と受け取った。「な、なんで」
「やらなきゃ、体育の着替えのときに隠し撮りしたあたしの動画をネットにあげるって」
 俺は思わず息を呑んだ。
 そんな俺にかまうことなく萩生は淡々と続ける。
「朝イチで確認するからって言われて、よくよく考えれば学校につく前に公衆トイレにでも入って脱いで行けばきっとバレなかったのに、そのときは怖くて頭が回らなくて、あたしは馬鹿正直に言われたとおりの状態≠ナ登校したんです」
 出だしの萩生の発言のインパクトがすごくて忘れていたが、俺はその前に、萩生に男が苦手なのかと尋ねたのだ。そしてしばらくの沈黙の後のこの流れ。嫌な予感がざわりと広がる。
「でも……そういうときにかぎって、運悪く、痴漢にあっちゃったりするんですよね」
 俺は思わず口元を押さえた。
 顔の筋肉が強張っていくのを抑えられない。
 心に行き場のない嫌悪感が溜まっていくのがわかった。すっとぼけられたらどれだけよかっただろう。そんなAVみたいな展開があっていいのかなんて場違いなジョークをかましてやれば、いま淡々としている萩生の呆れくらいは頂戴できるかもしれない。でも、冷え冷えとした傷を未だ隠し持っているはずの相手に、そんな不躾で不遜なこと、とてもじゃないができなかった。
「触られて……周りの人が気づいて助けてくれたのはいいんですけど、その痴漢の男が、あたしが穿いてないの、バラしちゃって」
 当事者でない俺だって、言葉だけでその状況がまざまざと浮かぶ。そいつがバラしたっていうことは、その場にいた全員に知られたわけで。当然、親にも知られたわけで。最悪、学校側にも知られて。
「今でも思います」萩生はぼんやりと続ける。「動画をあげられるのとあんな思いをするのと、どっちが恥ずかしかったんだろうって」
 想像以上だった。こんな話聞くんじゃなかったと思うくらい、胸糞悪いものだった。青黒い温度がどろどろと胃にたまって、水を吸った雑巾のように重くなる。心臓をごっそりと落してしまったような気分だった。手足は緊張して湿度が高くなっていく。
 萩生が感じたのは羞恥心だけじゃなかったはずだ。もっと重く濃厚で、掻き毟りたくなるほど痒くて、息を忘れるほど苛烈な、せり上がるような激情。
 正気でいられる萩生がいっそ悍ましかった。
 ちょっと突けば薄い膜から毒沼の漏れだす生き物みたいだ。俺が思っていたよりもずっと、萩生は危なげだった。今さら目の前の彼女が繊細なもののように感じられる。この小さな体にどれほどの暗い感情を溜めこんでいたんだろうか。もちろん、俺なんかが苦悩していいことじゃないんだけど。
「それで、トラウマに?」
「トラウマっていうか、もう全然だめで、でもそれだけです。相手が中年の男だったから、似たような背格好のひとに近づきたくないんですよ」
 俺の顔を萩生が見つめる。自然と強張った。俺はどんな顔をしているんだろう。その顔を、萩生はどんな気持ちで見ているんだろう。
「男だけじゃない。女も、そんなもんです。男子のいないところじゃ聞かせられないようなことしてるんですよ」
「……そのあと、その西園寺円華ってやつはどうしたんだ?」
 怖いもの見たさか。慰めたいからか。俺の口はそう紡いでいた。
 いまの今までこっちを見ていた萩生がふいとそっぽを向く。
「あたし、登校拒否したので知りません。どうしてたとか、想像するだけで頭が痛くなる」
 俺は押し黙った。
 なにも言えなくて、沈黙がやけに重い。
 こんなことをされたら、そりゃあ仕返しせずにはいられない。何年も何年も抱えこんで、それをぶちまけずにはいられない。俺が萩生の立場でもきっとそうしただろう。いまはただ目の前の彼女に、絶望的に同情した。
 その後は登校拒否したと萩生は言ったがきっと正解だったに違いない。西園寺円華の目論見以上のセクシャリティーな尾ひれを自ら纏ってくれた萩生は、腐った思春期にとって恰好の餌食となったことだろう。好奇の目に晒されるのは免れないしいじめの激化の火種にもなったはずだ。登校拒否をしても大学を目指せるだけの勉強は積んできているのだから、やはり萩生の選択に間違いはなかった。
「今も本当は少しだけ頭が痛い。あの女は今なにをしてるんだろう」
 萩生は目の前のアパートを見上げた。
 薄いベージュの壁面を持つ小さな集合住宅はどこもかしこも真っ暗で、住民がとうに夢の中なのを如実に表していた。L字型に羅列する部屋は縦に三つずつ並んでいる。赤く酸化している手すりはところどころ剥げたり亀裂が入ったりしていた。見た感じボロいのだ。家賃はそんなに高くはないだろう。部屋ごとの壁も薄そうだしなんとなく無防備に見える。
「ここに西園寺円華がいるのか」
「はい」
「彼氏と同棲してるんだったよな」
「はい。西園寺さんの名義で借りてるらしいんで、探すのに手間は取らないと思います」
 もし把握してなかったら一部屋一部屋確認していく羽目になってたのか。しかもこんな早朝ともとれる深夜にインターホンは鳴らせない。西園寺円華のいる部屋を探すのは大変手のかかる作業だったことだろう。
「でも、その部屋に入れるのか?」
「ピンポン連打します」
「誰が出るか。彼氏も目覚ますだろ」
「じゃあそこで助平さんの出番ですよ。取り押さえておいてください」
「いやだよ」
 俺の断りを聞く間もなく、萩生はアパートの階段のほうへ歩いていった。
 階段はアルミっぽい色をしていて、一歩登るだけで鈍く反響する。結構な音だった。そのまま登っていく萩生の音と新しく加わった俺の音で、相当度の騒音が轟いた。これはちょっと申し訳ない。鳴らないように気をつけたが体重が変わるわけでもなし、気休めにしかならなかった。
 どの部屋かわからない俺は萩生のあとについていくだけだった。
 萩生は迷いない足取りだ。二階に到達すると部屋の番号を見て回る。目線と過ぎていく歩みから、まだ目的の部屋を見つけられていないのがわかる。鉄柵の嵌められた窓はやっぱりどこも真っ暗だ。軽いいびきも聞こえてきて、今の時間帯が起きているには違和感のあるときなのを知る。
 俺は腕時計をそっと見遣る。
 もう午前三時をすぎ、長針がもう一度真上に来るのもそう遠くはない。
 俺も萩生も眠気を訴えたことはなかったが、妙に気だるさがあるのは否めない。こんな時間になってもまだ元気よく動き回っているんだ。疲れているのは明らかだった。
 そういえば、いつになったら俺は帰るんだろう。
 俺の帰るタイミングはいつなんだろう。
 この復讐が終わってからか。それとも、萩生が死んでから?
 見届けなければならないのか。
 萩生が自殺する様を。
 今まで考えないようにしてきたものに偶然俺は触れる。それは俺の手をじっとりと湿らすのに十分なはたらきを持っていた。



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