《西園寺円華》4/7


「お菓子、か」
「はい。お菓子です」
「甘いものが好きなのか?」
「お菓子ならなんでもいいってわけじゃないし、昔っからそうだったわけじゃない。最初は、四年生くらいですかね。それぐらいのころ」
 また、タクシーの料金メーターが上がる音がした。その音が区切りを果たすみたいに、萩生の口から過去が語られる。
「昔はあたしにもちゃんとした友達がいたんです。懐かしいなあ。それなりに楽しかった。たしか、あのころのあたしはお菓子みたいなニックネームで呼ばれてて、普通に友達と遊んだりもしてたんですよ。いじめられてはなかったんです。いじめの標的は、あたし以外の子でした。変なあだ名をつけられてからかわれて、いじめって感じではなかったけどからかいがひどくて、そのせいで学校の輪に馴染めてませんでした。でも、ある日突然いじめの標的がその子からあたしに移って、本当のいじめが始まりました。拙い無垢なる加虐心をあたしに向けました。からかいなんてものじゃなかった。陰湿なこともされたし、陰口だって叩かれた。最初は何度も先生に訴えたけど有耶無耶にされました。チクったなって、みんなにはもっと嫌なことをされました。誰もあたしのことを助けてくれませんでした。友達さえいなくなりました。本当になにもかもが突然で、あたしの平和はきれいに崩れ去りました。悲しいなんて、つらいなんてものじゃなかった。あたしは毎日教室の隅で絶望していたんです。

でもある日、下駄箱のなかにお菓子が入っていました。

それはうずら卵みたいな形をしたチョコレートの中に金平糖やキャンディーなんかが入ってる、カラフルな包み紙のお菓子でした。その日以降、それは毎日置かれるようになったんです。放課後になると、下駄箱の中、いじめっ子たちに見つからないよう隠すように置いてあるんですよ。学校のある日は一日も欠かさず。まるであたしを励ましてくれてるみたいに。それが救いでした。先生かも生徒かもわからない。手紙もなにもなかったから誰が置いていってくれたのかはわからなくて、だけどそのお菓子はあたしに希望をくれました。この学校にもまだ、あたしの味方がいる。影であたしのことを応援してくれているひとがいる。負けないでって言ってくれてるみたいで、それだけであたしは無敵になれた。どんなことをされても、どんなことを言われても、下駄箱にそのお菓子が入っているだけで前を向くことができた。あたしはいまでも嫌なことがあった日にはそのお菓子を買って食べてました。めげそうになったときはそのお菓子のことを思い出しました。小さなものだけど、これがあたしの希望です」
 呼吸が震えた。
 心臓が熱くてしかたがない。
 全身が焼けるほどの高揚感に、俺はぎゅっと拳を握る。
 萩生は言った。そんな――口に放りこめば消えてなくなるような、ちっぽけなものが希望だと。誰が置いていったのかもわからないものが、萩生の心を支えていたのだと。
 鼓動はまるで遠慮がなかった。伸縮はいつもより強く大きく。迸るように脈を打って、とてもじゃないが正常にはたらいてくれそうにない。見苦しいほどだらしなかった。
 なんてことだ。あまりにも馬鹿げてる。
 俺の熱に気づかない萩生は知らない。

 そのお菓子を置いていたのが、俺だということを。






 別に励ますつもりはなかった。
 いじめられる萩生を応援する気もなかったし、ましてや救ってやろうなどとは少しも思わなかった。第一この俺だって萩生のいじめ玉の一人だったのだ。萩生に対して明るい感情を持っていなかったことはそれだけでわかるはずだ。別に励ますつもりなんてなかった。ただ的外れな同情心と傲慢な罪悪感がもたらした、考え知らずな行動だった。
 たまたまそれが萩生の希望になっていただけという話だ。
 それだけのことだ。
 でもそれだけのことは俺を揺さぶるには十分で、ひとたまりもなかった。
「ここはあたしが払います」
 目的地で停車した車の中で、萩生は財布を取り出しながら言った。半分呆然としていてそれどころじゃなかった俺は無言でその行為を甘受する。萩生は札束の何枚かを運転手に渡した。運転手はぎこちない態度でそれを受け取り、お釣りを返す。
「助平さん、出ないんですか」
 まだ車から降りていなかった俺に萩生はそう言った。
俺は覚醒したように平静を取り戻し――正しくは取り繕い――なんでもない声で「ああ、いま出る」と返した。頭の中はまだ整理がついていなくて、それでも行動は理性的だった。
 タクシーから出るときに運転手に頭を下げる。いろんな意味をこめてだった。物騒な会話を聞かせてしまったというのが理由の大半を占める。運転手は案の定おっかなびっくりという表情で俺の顔を見て、そしてすぐに目を逸らした。係わってられないと判断したのだろう。それでいい。深追いは危険を伴う。いくら萩生が復讐相手以外眼中にないからといって、それが相手に伝わるとは思えないし、最悪、朝か昼かのニュースであきらかになるはずだ。自分はとんでもない相手を乗せてしまったことを。
 タクシーは颯爽とその場を去る。エンジン音だけが閑静な住宅街に響いた。
 アパートの前に降ろされた俺たちは、遠くなるタクシーを見送りながら顔を見合わせる。
「お前、運転手と目も合わせなかったな」
「合わせる意味あります?」
「精神的に迷惑かけたんだからちょっとくらいは謝罪の意思をみせるべきだよ」
「そんなの知らない」
「子供か」
「あたしは子供。だってまだ大学生でもないんですよ」
「歳ばっかり大人になってな」俺は肩を竦めた。「まあ冗談はさておきだ。前のタクシーの運転手もそうだった。そして今回もだ。金は払うのに目を合わせようとしない。それどころか支払うときは注意さえ払ってた。手とか腕とかに触れないように、馬鹿みたいな慎重な動作だった。もしかして相手が男だったからか? 電車のときも嫌がってたし。ほら、中年の男とか、そんなにだめなのか?」
 萩生は黙ったまま俺を見つめる。平常のスピードで三度瞬きをするほどの時間、萩生はなにも言わなかった。



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