《氷室繊太郎》5/6


「アハ。で、僕のこと尾けてた理由。なに? もしかして警察にでもなってたりする? 捜査中、みたいな。アハ。まあ萩生さんに務まるとはさ、うん、思えないけど」
 こいつは本当に人を見下すことがよく似合う。天性の才能なのかもしれない。見下しているのに下品な感じも厭らしさもない。腹が立つというよりも、近寄りたくないと思わせるなにかがある。そのなにかに、中学時代の少年少女は惹かれ、萩生は苛まれたのだ。
俺は氷室とはそれほど係わりがあったわけではない。氷室からいじめを受けたことはないが、俺は惹かれはしなかった。
「ね? そっちの彼も。なんか言ってくださいよ」
 氷室は俺のことまでも馬鹿にするように眺める。
 こんな目を、中学時代の萩生はずっと受けていたのか。
 そう思うと自分のことを棚に上げた感情が心を焼いていく。
「っていうか、あれ? それなに? なに持ってんの?」
 氷室が俺の隠し持つバールに気がついた。俺はバールを遠ざけるように体から離す。
 すると萩生は俺のほうに手を突き出してきた。突き出すという言いかたには語弊がある。突き出すほどの力もないほど、頼りない腕の上げかた。すがるようなやんわりとした動きで萩生は俺に求めた。
 言葉はなかった。
 ただ抑えこむような息遣いが小さく催促をしている。
 そいつを寄越せ。そう、お前が持っているその武器だ。今だ。今やるんだ。目の前にいる男に復讐をする。だから早くそれを寄越せ。
 五十嵐を逃した萩生の、氷室への渇望は尋常ではなかった。それはきっと氷室にも伝わっていることだろう。誰がどう見たって萩生の様子がおかしいのは一目瞭然だ。言葉も目も交わさないのに圧倒的に感じ取れる。
 俺はゆっくりと、持っていたバールを萩生へと渡す。萩生は確かにそれを掴んだ。
「……こりゃあたまげた」
 氷室は目を見開いていた。眉は心外そうに垂れ下がるが、口角は愉快そうに吊り上がる。
「まさか萩生さん、そいつで僕のことをぶん殴りにきたの?」
 萩生は答えない。強くバールを握って一歩ずつ氷室に近づく。
「僕が優しく声をかけてあげた≠アと、まだ根に持ってたんだ? アハ。嘘でしょ、しつこすぎ。もう何年も経ってるっていうのに、健気だな。しかも、こんな、真夜中に尾けてくるなんて」
 まるで狂ってるみたいに笑う氷室。焦った様子は微塵もない。焦っているのはきっと萩生のほうだ。上下に震える肩がその証拠だろう。俺は背後から近づく足音にも気づかず二人の動向に食い入った。
「もう、もう、なにも聞きたくない」
 萩生は食いしばるような声で呟く。左手でもバールを支え、腰のあたりまで落としこめる。自然と低くなる姿勢は威嚇する虎のようだった。
「氷室繊太郎。貴方を殴り潰すことで、あたしはやっと報われるの」
 萩生はバールを思いっきり振り上げる。
 その瞬間、意外な方向から、鈍い音と悲鳴が上がった。
 振り上げたバールが背後にいた人間の脳天を直撃したようだった。ぐわんぐわんと響く反動と短く漏れた見知らぬ悲鳴に、萩生は「えっ?」と振り返る。
 そこには見るからに柄の悪そうな男が頭を押さえ蹲っていた。三十代くらいの男だ。オールバックに撫でつけた髪はパリパリと電灯に照らされている。
 氷室はにやにやとその様子を眺めていた。漲る暴力心を罪悪感で吸収されてしまった萩生も、もちろん俺も、状況についていけずにあたふたと目配せながらその男の様子を尋ねる。
「あ、あの、大丈夫ですか。すごい音しましたけど」
「すみませんが、暫くあっち行っててください。でないと貴方まで怪我しますよ」
 ただの通行人に対して重大な非礼をしてしまった。大事にならないうちに処理しなければ。
 そう思っての行動だったが、どうにも様子がおかしい。蹲った男は「氷室テメエ……変な用心棒雇いやがって」と痛み以外のなにかで震えている。それは一体なにか。この震えは見たことがあった。それもつい最近だ。俺が見たのは女物だけど、そう変わりはしない。この震えは紛れもなく、怒りからくるものだ。
「勝手にクスリ奪っただけじゃなく、この俺にまで手ぇ出しやがったな……」
 ゆらりと立ち上がる男の顔は怖かった。萩生など「ひっ」とあからさまな怯えを見せていたくらいだ。
 男はバールを持っている萩生に掴みかかろうとする。しかしすんでのところで、そのバールはまた男の顔に沈む。今度は萩生ではない。氷室だ。萩生の手に覆い被さるようにバールを掴み直し、思いっきり男へと振り下ろしたのだ。萩生は拒むように手を離す。バールは氷室の手に収まった。顔を押さえて悶絶する男を尻目に、氷室は淡々と告げる。
「アハ、二人とも、早く逃げたほうがいいかも」
「えっと……」
「状況見てわかんない? このひと、追ってる。僕、追われてる。組織裏切って。アハ」
 その言葉だけで十分だった。嫌な匂いがプンプンした。
 同じく大まかを汲み取ったであろう萩生も呆気にとられている。
 氷室は「ああ、そうそう」と言って俺のほうを向いた。
「思い出したんだけど、アハ、あんた、あのピクルス≠ュん」
 五十嵐も覚えていた俺のあだ名を言って、氷室はおかしそうに首を傾げる。萩生には聞こえていないのか、それともそのニックネーム自体を忘れているのか、特に反応は示さなかった。
「びっくりだよね、うん、まさか萩生さんと一緒にいるなんて。発想が、アハ、斬新」
 そう言い残したかと思うと氷室は去っていった。



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