《氷室繊太郎》6/6


 バールで殴られた男の唸り声に背を押されるように、俺も萩生もその場を去っていく。萩生の足取りは重くて、重いというよりは躊躇いがちで、その場からたっぷりと離れるのには時間がかかった。
 バタバタと走る足音が夜の空気に響く。
 髪を振り乱しながら走ったおかげで萩生は貞子みたいになっていた。服装のおかげでカジュアルなことになってはいるが、カジュアルな貞子というのもそれはそれでサイコを感じる。軽妙洒脱なホラーだ。正体を知っている俺ですら臆してしまう。俺自らがそれを整えるのも憚られたので「髪すんごいことになってるぞ」と控えめに提言しておいた。
 萩生は従順な態度でその髪を整える。
 しかし、整えていた手がついにはぐしゃりと髪を掴む。それからガシガシと引っ張り上げ、髪の毛を抜き取るような、そんな動作をした。キューティクルを死滅させるような乱雑な手つきに俺は怪訝の顔をする。とはいえ、萩生の心情を察するに、そう時間はかからなかったけど。
 氷室の言うままにその場を去り、俺たちが行きついたのは閑静な公園のすぐそばだった。
「……そこに自販機があるから、なんか買ってくる。飲みたいものは?」
 萩生は答えない。なんでもいいのだと勝手に判断し、俺は萩生から離れた。
 黄色いガードパイプに、座るというよりは凭れかかるような体勢で、萩生は大人しくなっている。この大人しさは危うい大人しさだ。自分用のホットコーヒーと萩生用のホットレモンの二つを買って、俺は萩生のもとへと走って戻る。温かい缶を受け取るときの萩生の手は冷たそうだった。色白な指先は不健康な赤に染まり、動かすのに時間がかかっている。俺は急かすことなく萩生がちゃんとそれを受け取るのを待った。
 萩生は不器用そうにプルタブを開けるもホットレモンに口はつけない。俺はコーヒーのプルタブを開けて少しずつその温かい苦味を流しこむ。
「バール、持ってかれちゃったな」
 手ぶらな両手を交互に見て、俺はそう言った。
 ここまで持ってきたバールはどさくさに紛れて氷室のものになってしまったのだ。元はと言えば萩生が手を離したことに原因があるのだが、あの状況で掴んでいられるほうが不思議である。俺が萩生でも驚いてしまったはずだ。
「……もう一度、氷室を探すか?」
 暗に深追いはしないほうがいいと萩生に囁きかける。氷室は思った以上に危険なやつになっていた。あのちょっと狂気的な笑いかたがまだ耳に残っている。間違っても、あんな笑いかたをするやつじゃなかったのに。確かに狡猾なやつではあったが社会的に見てみれば極めて善良な立場に甘んじているはずだった。高みの見物で他人を罵るようなやつなのだ。少なくとも自ら犯罪に手を汚すような人間じゃない。人聞きの悪い言いかたをするなら、あんな地に堕ちた状況を謳歌しているとは、思ってもみなかった。
 氷室が危険人物だ、ということだけが理由じゃない。どう考えても、いまから氷室を見つけ出してボコボコにするのは不可能な気がした。家にいない、仕事場にもいない、ましてや実家にもいない。追手から逃げ回っている氷室を見つけ出し、氷室自身に渡してしまったバールで復讐を遂げるのは現実的じゃない。もしできたとしても萩生のこだわる今夜中≠フことではないだろう。
 五十嵐と同じく、萩生は氷室までもを、取り逃がしたということだ。
「……い」
「い?」
「痛い」萩生が片手で喉元をぐっと締めつける。「痒い。また、もう、また」
 まるで絞殺するような勢いで自分の首を掴む萩生。やめるように言ったが萩生は俺の言葉なんか聞こえてないみたいだった。ただ体を捩ったり足をばたつかせたりして湧き上がるなにかを抑えこんでいる。
 萩生は一口も飲んでいない缶を放り捨てた。甘い匂いの飛沫を描き、それはカラコロと場外へ逃げていく。萩生はフリーになった手で心臓のあたりを掻き毟った。服を力強く引っ掻く爪は今にも割れそうだった。
 五十嵐のときと同じだ。怒りによるストレスを耐えるのに、萩生は必至になっている。
 野性的な呻き声を発しながら、萩生はふらふらと公園のなかへ入っていく。来ていた上着を脱いで力強く地面に叩きつけた。頭に血が上っているのか理性の欠片も見えない。憎たらしそうに顔を上げたかと思うと、全力全速力をこめてその上着を踏みつける。
 何度も何度も、その上着を踏みつけた。
 掠れた鬨の声が公園に反響する。
 執拗なくらいに踏みつけて、ついには荒っぽく蹴りあげた。
 氷室にしてやりたかったみたいに。激しく強い恨みをこめて。
 足蹴に晒された上着は汚くなっていた。荒っぽい息を整えるように、萩生は夜空を仰ぐ。そよそよと髪が靡いていた。淡い色のニットはタイトなシルエットだったのか、上着を着ていたときよりも幾分か華奢で細く見える。肩を上下させる姿には、まだ静かなる怒りが炎のように見え隠れしていた。
 整えきらない調子で萩生はぼんやりと口を開く。
「思っちゃうんですよ」汗を掻いていたのか萩生は顎のあたりをぐいっと拭った。「もしかしたら、この世には自分しか、まともなやつはいないんじゃないかって」
 呆れながらも、もしかしたら本当にそうなのかもしれないなと思いながら、俺はじっと萩生の姿を見つめた。
「なんで、五十嵐も、氷室も、あんなに…………ああ、もう!」
 萩生は上着をもう一度蹴り上げる。
 宙を舞って砂を被り地面に着地したころには萩生も尻もちをついていた。さっきまで自分でいじめ倒していた上着を拾いあげて、ゆっくりと立ち上がる。洗濯物を干すときみたいにパンパンとはためかせて砂を払った。それからは細かな手つきで細部の汚れを落としていく。
「無様ですか」
「なにがだ」
「復讐しようとして、取り乱して、武器も盗られて、結局は失敗しちゃって、自分の上着なんかに八つ当たりしてるあたしは、無様ですか」
「そんなことない」
 決めつけるような萩生の言葉は問いかけのない断定的な響きで、俺は即座に否定したが、すぐに自分の返答に吐き気がしてきた。
 もちろん無様だなんて思ってない。でも、萩生をこんなにした根本は自分にある。若気の至りで、幼さゆえの罪で、かつて萩生めぐみを虐げたのはどこのどいつだ。たまたま復讐の相手に選ばれなかっただけで、この俺、比来栖陽汰だっていじめた張本人じゃないか。
 俺はいじめを肯定する。そう、今も当然する。人間は誰かを虐げずにはいられなくて、俺もその甘美な罠に嵌ったうちの一人だ。萩生を貶めることで快楽を得ていた変態だ。再会した萩生が復讐を企てていたことを知り、心の中で蔑み馬鹿にしたのはついさっきのことなのだ。何度も何度もこの口は萩生を窘めた。躍起になる萩生に呆れをこぼし、興奮する萩生を宥め、落胆しきっていた彼女を上手く浮上させようと唆し、今度は励まそうとしているのか。
 吐き気がする。
 いつの間にか彼女の心境に寄り添うようになっている自分に、心底吐き気がする。
「……そうですか」
 萩生は上着を羽織る。衛生面を考えるとまだまだ砂埃は除去し足りないだろうが、時間がない。萩生にはまだ復讐しなければならない人間が一人、残っているのだ。上着でたわんだ髪を出して公園を出ようとする。俺もコーヒーを持ったまま萩生に続いた。
 さっきの会話の続きであることは容易に理解できた――萩生は吐き捨てるように小さく呟く。
「どうせ嘘なんでしょうけど」
 俺はなにも返さなかった。
 本当に、吐き気がする。



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