《氷室繊太郎》4/6


 氷室が動きだしたのは、その十五分後のことだった。
 沈黙の十五分を打ち破るように、俺は「行くか」と囁くように言う。
 伝票を持ってレジに向かい、会計をする氷室の数テンポ後を、俺と萩生は慎重に歩む。氷室が店を出たときに俺はレジに会計をしに行った。きっと見失うことが怖かったのだろう――支払いは俺がする約束をしていたこともあり、萩生は俺を待たずに氷室の後を追った。俺は財布から千円札を二枚出して、おつりを受け取ってすぐに店を出る。電灯の薄い暗がりから萩生の背中を探した。店から出て十数メートル先に、萩生と目標の氷室を見つける。俺は萩生の斜め後ろに位置をとる。バールは隠すように背後で持った。
「尾けれるか」
 ひそやかな声で萩生に言う。
「多分。バレてないと思いますよ」
「人目のつかない場所に入ってからだ。いきなり襲いかかるなよ」
「わかってます」
 俺と萩生はそのまま氷室の後を追った。適度な距離を保ちながら。足音に気を遣うように。
 氷室の足がどこに向かっているのかはわからなかった。あの頃は猫を被っているエセ優等生なだけあって、身なりや態度にもその潔白さ≠ンたいなものが滲みでていた。しかし、今はそれとはかなり違う格好で、雰囲気で、なんとなくただごとではないものに近づいているような不穏感だけがあった。こんな時間に出歩くなんておかしい。いや、そんなの俺たちにも言えることだけど、俺たちには氷室をバールで殴りつけ復讐を遂げるためという大義名分があるのだ。理由が明確である点ではこちらの勝利だが、俺たちのほうが不穏でおかしいのはもうどうしようもなかった。
「にしても、本当にあいつ、なにやってるんだろうな」
 俺の呟きに、萩生は淡泊な声で返す。
「さあ」
「こんな夜遅くに、しかも一人で出歩いてるなんてなんかおかしくないか? 顔もよく見れば青白いし」
「知らない。殴れば血行もよくなりますよ」
 適当返してんじゃねえ。
 物騒な発想の持ち主になってしまったなと思う。
 いじめられっこから復讐魔へ。華麗なる転身だ。
「それに……だんだん薄暗い場所に向かっていってるように見えるぞ」
「好都合です」萩生は続ける。「飛んで火にいるクズ氷室」
 もうなにも言うまい。
 俺たちはただ歩きつづけた。
 ただ、やはり、氷室がわざと人のいないような通りを選んでいるような気がするのが引っかかった。
 数年ぶりの知人が自分の予測できない動きを見せるとこうも臆病になるのか。この先に行きたくないような気持ちでそのあとを尾ける。
 しばらくすると、いよいよ氷室は一人になった。乾いた人工物の蔓延する空間に、ぽつんとその影が伸びている。氷室と俺と萩生の三人のみ、人通りはまさしく無に等しい。タイミングとしては今が絶好の機会だろう。
 工事現場がチラつく通りは明かりに乏しく、橙色の電灯一本だけしかなかった。その光の下に来て、氷室は足を止める。俺たちに気づいたのかと肝を冷やしたかどうやらそうでもないらしい。
興 奮に、萩生の吐息が荒くなるのがわかった。
 五十嵐を前にした時のような恐怖の色はもうない。五十嵐に復讐できなかったのがよっぽど悔しかったのだろう。もう二度とあんなことはしないと、臆したりなんて絶対にしないと、全身全霊で叫んでいる。 
「……バールを」
 寄越せと言うのだろう。俺のほうを見向きもしないで差し出された手は、数の少ない単語の響きよりもずっと雄弁だった。
 今度こそ、やるのか。
 五十嵐のときにはできなかったことを、氷室で果たすのか。
 それはどれほど恐ろしいことなのだろう。どんな復讐なのだろう。そのか弱い両腕でこの武器を振り下ろす様は、どれほど醜悪で寂しいものなのだろう。
「早く」
 噛みしめるような声で催促をする萩生に躊躇いを覚えた。けれど俺にそんな資格はないし、こうして着いてきているのに今さら善人ぶったってどうしようもない。
 俺は持っていたバールを萩生に握らせようとして――そこで「待て」と動きを止める。
 萩生は眉間に皺を寄せた。
「誰か来る」俺はまた背後にバールを隠した。「氷室とすれ違う。相手が通過して通りを去ってからだ」
 氷室の前方十メートルほど。俺たちと対面するように向こう側から歩いてくる人影に、萩生は警戒の色を見せた。相手は嘘くさいハットを被っていてコートのせいで体のシルエットはよくわからない。背丈も曖昧で男とも女とも取れる。手ぶらのように見えてその足取りは慎重。まるでなにかを隠しているかのようだった。氷室は気づいていないみたいにぼんやりと佇んだままだ。
 そいつが氷室とすれ違う、と思った瞬間、氷室の手がにゅっと起き上がる。前方になにかを翳すように手を出して、握っていた手をぎゅっと開いた。なにかが手から落ちていく。それをすれ違った相手が器用に受け取り、胸元から細長い封筒を氷室に渡した。
 やりとりは一瞬だったように思われる。洗練された動作。琢磨された動き。
二秒とない時間の瞬きのなかで行われたその応酬のピリオドは、すれ違った相手の足音だった。やりとりが終わった途端に興奮気味になる足音。氷室は飄々とした態度で受け取った封筒を軽く開ける。暗くてよくわからないけど、ニヤリと笑ったように見えた。相手は俺たちをも通りすぎ、夜の街に消えていく。
 ……これ、やばいやつじゃないのか。
 俗に言うドラッグとかの取り引き現場じゃないのか。
 俺は萩生の顔を見遣る。表情は特に変わりなく、至って恨みがましげ。俺が悟った内容にいまいち反応を示さない。わかってはいるとは、思う。けれどそれは氷室への憎しみを増長させただけなのだろう。
 もう一度視線を氷室のほうに向けた。封筒に軽く指先を突っこんで、中身を引き抜く。歩みを止めないおかげでこの距離からでもわかる。一万円札の束だった。
 はい、きました。もういやだ。もしかしたら、もしかしなくても、とんでもなくやばい現場に居合わせてしまったのだ。
 これ以上関わるのはもうごめんだ。今回ばかりはそう思った。そう思わざるをえなかった。五十嵐のときとはわけが違う。これは、どうにも、逸脱しすぎている。
「おーい、そこの二人」
 だが、それ以上のアクシデントがここで起きた。
 氷室が呼びかけるように声をあげたのだ。それもおそらく俺たちに。
 俺も萩生も息を呑んで立ち止まる。
 氷室の声には緊張も動揺もなくて、あくまで自然体だ。俺たちとは大違い。腐るほど熟した余裕の態度が小生意気なほど様になっている。俺が抱くのは窮屈な恐怖だった。
「アハ。ずっと尾けてきてたでしょ」氷室は軽く肩を竦める。「バレバレだったよ?」
 俺たちに向き直る氷室に萩生はビクッと肩を震わせた。
氷室はそんな俺たちにだんだんと歩み寄ってくる。大股気味の、飄々とした歩きかただった。
 尾行していることに気づかれていたのか。それは一体いつからだろう。まさかファミレスにいたときから、ということはあるまい。ファミレスのなかでは一度も氷室とは目が合わなかった。いつ気づかれたにしても結構大胆にヤバい状況であるに変わりはない。復讐しに来たのはこっちなのに、怯えるべくはあっちのはずなのに、思いがけないものを見てしまったせいで半端な優越感は簡単に吹き飛んだ。
 氷室は俺たちの二メートルほど手前で止まる。目を細めて、首を傾げながら言った。
「っかしいな、一度取り引きした相手は忘れない自信があったのに。見ない顔だな……客じゃないの? いや、でも、なんか見たことある気もするし……」
 そこで氷室はクンと鼻をひくつかせた。なにかを嗅ぐような動作。俺が萩生と再会したときの感覚を、こいつも味わっているのかもしれない。
 眉間のあたりに皺を刻ませ、確かめるように萩生の顔を覗きこむ。
「……こりゃ驚いたよ」目を見開いて口角を吊り上げる。「あんた、萩生めぐみだろ。女子高に行った、あの」
 萩生は緩慢な動きで薄く口を開く。なにか言いたげだ。ただ、緊張と混乱と恐怖により、言葉は音を持てないでいる。舌にもつれて空気中に放てないなにかは拳の中に収束しその指に力をこめた。
「僕のこと覚えてる? 氷室繊太郎。んまあ、覚えてようと覚えてなかろうとどっちでもいいや。こっちの男はなに? 彼氏? なんかアレだね、萩生さんにも彼氏ができるとか、なんていうかほら、独創的。アハ」
 引き攣ったような笑いかたをする氷室はどこか冷めた目で俺のことを見つめた。値踏みをするような、それでいて見下すような、毒のある視線。心底不快で腹立たしいのに相手に妙な恐怖感を抱かせ服従させてしまう。
 こういうおぞましいところが俺は苦手だった。
「ていうかさ、今のヤツみたよね?」
「今のって」俺は萩生の代わりに答える。「あのやりとりか?」
「うん。多分わかってると思うから言っちゃうけど、クスリね」
 一万円札の束が入った封筒をスーツの内ポケットにしまう。氷室は封筒を入れたところを外側からやんわりと撫でながら、馬鹿みたいに陽気な表情で言った。
「アハ、黙っといてね。ていうか、あんたらもやる? 特に萩生さん、まだ薄幸そうな顔してる。変わんないね、あんた。中学のときもそんな顔してた。ずっと俯いててさ。いつだったか、女子トイレの個室に閉じこめられてホースで水ぶっかけられたことあったよね、教室に着替えのジャージ取りに帰ったとき僕が大丈夫? 下着透けてるよ?≠チて言ったらもっと俯いてさ。あのあと、えっ? どうしたの? 隣のクラスの五十嵐とかに絡まれてたじゃん? 隣のクラスまで虐めてもらいにいったのかと思った」
 中学時代から時を経てもなお、氷室繊太郎はクズ野郎だった。少なくとも、萩生はそう思ったはずだ。
 萩生の体温が上昇していくのがわかる。羞恥であり怒りであり、憎しみだ。喉の痛そうな顔をして歯を食いしばった。俯き気味の横顔はほのかに朱が散っていた。
「……おぼ、覚えてる」
 高ぶりを必死に抑えこむような上擦った声で、萩生は言った。滴が頬を伝うことはなかったけれど、俺には涙声に聞こえた。
「あっ……あたしが、先生に、いじめられてるって、相談したら、君は学級会でとりあげて、それはいじめじゃありませんって、みんなもそれに賛成して、先生も、あたしの思いこみで自意識過剰で自作自演だって、そう、言ったの。水かけられたのも、飼育小屋に閉じこめられたのも、体操服切り刻まれたのも、椅子捨てられたのも、全部ただの思いこみだって、そう言ったの……」
 萩生は唇を噛みしめながらゆるゆると首を振る。春風に巻かれる髪が肩を滑り落ちて、首元からじわじわと灰色の影を作った。
「覚えてる。氷室繊太郎。忘れたことは一度もない」
「へ、そっか。アハ、でも、どっちでもいいや」
 萩生の言葉を軽薄に流す。同じ土俵には絶対に立たない。きっと今でも氷室のなかでは、自分が上で萩生は下だ。一度着いた強者弱者のイメージはそう簡単には拭えない。縛りを掻い潜って意趣返しに来ている萩生はよくやっているほうだ。普通ならもっと臆して顔も見てられないだろうに。



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