《氷室繊太郎》3/6


 萩生は咀嚼していたグリーンカレーをごくんと飲みこんで、氷水の入ったグラスに口をつける。白い喉が潤いに震えるのを見つめながら、俺は返答の時を待った。飲んだ分軽くなったグラスをテーブルに置き、淡々とした表情で萩生は告げる。
「願書を出すのに失敗しました」
 一瞬、なにを言われたのか、わからなかった。
 だがそれも一瞬だ。次の瞬きのうちに俺は覚醒し、正気を取り戻す。ゆるゆると首を振って額を押さえた。
 出願の失敗を苦に自殺。
 なるほど新しい。
 受験で落ちまくって絶望した、でないあたりが冴えている。
「お前馬鹿だろ」
 ただし馬鹿だ。もう口に出すしかない。こいつは馬鹿だ。
 なんで数年に及ぶいじめにも耐えて今現在も浪人生活を送っているお前が、たかだか大学への願書を出すのに失敗したくらいで復讐と自殺を計画しようと思うんだ。そもそも願書を出すのに失敗もなにもあるのか。そこも込みで馬鹿だ。
「確かにこのシーズンは大学受験のラストスパートで、このタイミングで願書を出すってことは本命とか最後のツテとかなのかもしれないが、にしてもそれだけで自殺するか? 滑り止めくらい考えてあるだろ。これまで頑張ってきたんならこれからも頑張れよ。諦めるな。最悪もう一年浪人して来年に期待だ。なんで落ちてもないのにそこまで自分を追いつめるんだ」
 たったそれだけのことで俺はここまで振り回されてやったのか。
 そう思うと憎しみが止まらない。
 俺は自分でも熱血すぎるほどの言葉を萩生に浴びせる。返事など待たなかった。
「お前浪人二年目だろ。二年も三年もそんなに変わらない。出願に失敗して受験できなくなったんならまた次に攻めろ。いま死んだら絶対に後悔するぞ」
 萩生の表情がみるみるうちに変わっていく。少し強張ったような、けれどどこか青ざめた表情で、ぎゅっと手を握っていた。
「そのカレーを食べ終わったら帰るぞ。大丈夫だ。いまならまだ間に合う。結局、五十嵐にも復讐はできなかたんだ。ここで諦めて素直に家に帰れば、お前はまだ傷つかずに、普通の人生を送れるんだよ」
 さらに言葉を続けようとしたとき、饒舌に目覚めた俺の口は、萩生の手によって塞がれる。乱暴な手つきだった。テーブルに乗り出してきた萩生の顔がぐいっと間近に迫ってくる。独特な萩生の香りが鼻孔を突いた。俺が無理にその手をほどこうとすると「黙って」という緊張気味の声が囁くように鼓膜を揺らした。
 俺は思わず静止する。
 俺の話聞いてるかと問いかけたくなったが、先程からの萩生の態度でそれも容易く封じられる。
 やけに大人しくしているなと思ったがどうやらそうではないらしい。大人しくしていたのではなく、固まっていたのだ。驚きにより身動きを取れずにいたというほうが正しい。
「あそこに、いるんです」
 さっきからずっと、萩生の目線は俺のほうを向いていなかった。反応に期待ができないのも当たり前だ。聞く耳持たずというよりも耳ごと縛られていたに違いない。おどろおどろしい感情で強く見開かれた瞳は、俺たちの座るテーブルからいくつ分か離れたテーブルの一席を、執拗に見つめつづけている。
「あそこに、いるんですよ。あの、氷室繊太郎が」






 久しぶりに見たその顔は窶れているように見えた。脱色した髪と珍しいをしたスーツがなにやら違和感を覚える。本当に氷室なのかと目を疑ったが、痩せた頬の上の双眸やどことなく滲む昔の面影が、あの男を氷室であると確信させた。
 中学生だったあどけなさは消え、どこか浮世離れした雰囲気を持つようになった。際立った清潔感の代わりに頭角を見せはじめたゆとりを感じさせる仕種は、異性に好まれそうな魅力とも言えるだろう。
「すごい偶然だな」
「むしろ運命ですよ」
 熱の入った声で萩生は言った。武器のバールを探しているのか眼が不安定にふらつく。
 俺はバールを隠すようにして「待て待て」と言った。
「ここは店内だ」
「関係ないです」
「警察のお世話になりたいのか」
「どうせ死ぬ。関係ないです」
「だからお前な、いまならまだ間に合うんだぞ、別に死ななくても」
「死ななきゃ、無理なんです」噛みつくように萩生は言う。「簡単に言わないで。貴方にはきっとわからない。もう私は限界なんです。もう生きていけない。もう立ち直れなくなったんですよ。もう、もう」
 数年にも及ぶいじめさえ耐え抜き、二度も受験に失敗して、そして三度目のいまでついに瓦解した。
 なんとか保っていた精神が、崩壊した。
 どうしていま、ではない。積もりに積もったいま、なのだ。
 どれほど強いメンタルの持ち主でも壊れるのは一瞬だ。傷ついた心を誤魔化すのに疲れた途端、この世のすべてが嫌になる。大きい小さいに関係ない。少なくとも萩生は、復讐と自殺をいっぺんに考えるほど、まいってしまっている。もう立ち直れなくなった。そりゃそうだ。受験の圧力だけが彼女を苛んでいるわけじゃないのだ。そんなこと、いじめをやっていた俺が一番に知っていることだろうに。
 出願に失敗した程度でなんだなんて、熱くなっていた自分のほうが馬鹿みたいに思えてくる。
 俺は萩生を、なんだと思っていたんだろう。
「……だとしても、今ここでやるのはだめだ」
 俺は萩生を制する。とりあえず落ちつけと席に着くよう促した。
「ここには店員も、少ないけど他の客もいる。ここで下手に暴れても、お前、どうせ止められるぞ」
 残念ながら萩生には押さえつけられた手を振りほどけるぐらいの力はない。あくまで普通の女の子なのだ。女の子というには歳もギリギリな年代になってしまったが、非力であるのに変わりはない。
「せめて店を出るのを待とう。様子を見るんだ。あいつの後を追って俺たちも出ればいい。一人になったときに暴れ散らかしてやればいいだろ。俺もちゃんと、見張るから」
 萩生は冷静になったのか、数秒後に「わかりました」と低く呟いた。まだ食べ終えていなかったグリーンカレーに再び口をつける。
 思いがけず献身的に行動している自分に吐き気がしてくる。今さらなにをいいひとぶっているんだか。にしてもやはり礼の一つもない萩生に少しの落胆を覚え、半ばやけくそで残りのハヤシライスをかっ食らった。
「……嘘でしょ」
「どうした萩生」
 グリーンカレーの乗ったスプーンを持つ手を止め、萩生はありえないものを見るような目で氷室のほうを睨みつける。
「氷室、イカスミパスタ食べてます」
「……それが、どうした」
「あんなもの食べてどうする気なんですか」
「お前イカスミパスタにどんな険悪抱いてるんだ」
「助平さんは食べたことあるんですか?」
「ないけど」
 俺もチラリと氷室の席を見た。萩生の言ったとおり氷室はイカスミパスタを食べていた。迷いのない手つきでパスタをフォークに絡めとっていく。それを口に捻じりこむ様を見て、萩生は「おえっ」と顔を顰める。
「あんなグロテスクなものを食べてるなんて」
「そこまで言うか……まあ俺も、これ以上胃袋を黒くしてどうするつもりかとかは思うけど」
「助平さんもなかなか言いますね」



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