《氷室繊太郎》2/6


「そいつがどこにいるのかはわかってるのか?」
「住所は。ただ仕事関係上あまり家にいないらしく、最悪仕事場も調べなければなりません」
 仕事とはバイトのことだろうか。あの優等生が大学も通わずに就職しているのはあまりイメージになかった。むしろ有名大の一つや二つ出て、官僚にでもなって悪事を働いていそうだ。
「そんなことできるのか?」
「簡単ですよ。氷室の実家の電話番号は既に把握しているので、古い友達とか飲み仲間とかを装って、飲みに行く予定だったのに約束の時間になっても来ないので職場まで迎えにいきたい、知っているなら場所を教えてほしい、とかなんとか言えば一発ですよ」
「そんなに上手くいくかな。その実家に氷室が帰ってきてたらどうするんだよ」
「むしろそっちのほうが好都合。実家の住所も調査済みです」
 執念のなせる業だな。
 と、このタイミングで注文したハヤシライスとグリーンカレーがテーブルに届いた。写真で見たときよりも濁った色をしているカレーの上の温玉をスプーンで潰す萩生。俺もハヤシライスにスプーンをつっこんで一口啄んだ。上顎を燃やす熱さにはふはふと口を開閉させるが舌に乗った絶妙な味に満足をする。萩生はスプーンに乗せたあと何度か息で覚ましてから口の中に入れた。表情はさほど変わらないがおそらく不満はないのだろう。それなりに軽やかなスピードで萩生はグリーンカレーを胃袋に収めていった。
 こうして対面してご飯を食べていると、小学生のころの給食を思い出す。班で机を向い合せて食べていたあの頃。男女交互の席だったから対面する相手が異性というあたりも当時と酷似している。ちょうどこんな感じ。お互い黙々と食べて、ときどき思い出したように会話を交わして、けれど視線は不器用なくらい交わらない。でも、今はあのときほど純情を感じないな。感じないというか、感じるような状況じゃない。俺はあくまでも萩生の復讐の立会人だ。最後の晩餐を共にしているだけであって、ここにはこそばゆい居心地の悪さはない。あるものといえばどうなるかわからない顛末への憂いくらいのものだろう。
「給食みたいですね」
 萩生が言った。
 唐突だったけど、俺も同じことを考えていたのだ。驚愕のない適度なタイミングで「そうだな」と返した。
「お前、好きなメニューはあったか?」
「揚げパン」
 香ばしくも甘ったるい匂いで幼心を魅了した、その素朴な存在を思い浮かべる。
「俺も好きだったよ。月に一度あるかないかの」
「春巻きとか、イカリングとかも好きでした」
「懐かしいな……ギョウザも楽しみだった」
「中学に上がって給食からお弁当制になったのは本当に痛かったです」
「どういう意味で?」
「性格が悪いですね。おそらく助平さんの考えてる通りの意味ですよ」
 萩生は表情を変えずに俺にそう返した。
 萩生に対するいじめは中学校に上がっても続いた。むしろ人数が多くなった分激化していたようにも思う。二つの小学校から上がってくる生徒たちは物知らずながらに敏感だ。片方の小学校から上がってきた連中がただ一人を迫害していれば、それほど時間もかからずに気づく。子供の意識は大人よりも右に倣えだ。誰に命令されたわけでもなく、ただ空気を読むことで誰にどういう扱いをすべきなのか、誰がどういう立ち位置なのかを弁えるようになる。おまけに女子のネットワークは恐ろしい。情報の伝達が頗る早く、俺が知る限り、進学して二週間目には、萩生は孤立の地位を得ていたはずだ。同じ出身者の生徒のみならず、別の学校の出身者からも。そんな萩生が一番惨めだったのはおそらく昼休みだろう。給食という否が応でも同じ班のメンバーと食を共にしなければならない制度が廃止され、ランチの形式が自由型になればなるほど、萩生の孤立っぷりは浮き彫りとなる。教室の端で一人弁当を咀嚼している萩生の姿を想像すると、やはり思うところがあった。
「そういうときに話しかけてくるのがあのゲス野郎だった」
 思い出すのも億劫そうな重い声で萩生は言う。握られたスプーンに力がこめられるのが見てとれた。怒りで苦しむ体の力をどうにしかして逃がそうとしているのかもしれない。テーブルの下でもぞりと足を擦り合わせたのがわかった。
「優しい男子生徒の仮面を被ってね、言うんですよ。萩生さん、一人で食べてるの?≠チて」
 俺も覚えている。そう――そういう小憎らしい、一芝居打ったみたいな態度で、氷室は傷口に塩を捻じりこむようなことを平気でやっていた。通りのよい張った声で、どうしたの、可哀想だねって、同情するみたいな言葉を使いながら相手を辱めるのが、やつは腹立たしいほど得意だった。その言葉に周りの男子はますます萩生を囃したてるし、女子にしたってクスクスと厭味に笑う。誰も歪みを感じずに、これこそがクラスを上手く回すための秘訣だとでも思ってるみたいに。そして、そのクズたちのなかには、俺も含まれていた。
「氷室にもバールを使うのか?」
「もちろんです。あの殺意の湧く笑顔を完膚なきまでに殴り潰して、あいつに言ってやるんです」
 あれ、どうしたの? 可哀想だね。
 優越に滲むのを口角が我慢できないのか、萩生の表情は恐ろしく歪んでいた。
 こんなことになるのは無性に哀しいことだと、俺は中学時代の萩生の顔を思い出してみる。
 思い出のなかの頼りなさげな少女は、悲しみの表情で塗り潰されていた。
 萩生はいつもそうだった。誰になにを言われても反抗できなくて――いや――小学時代の経験からだろう、抗うことを放棄していたように思う。彼女がすることといえば耐えることくらいだ。ずっと俯いて、歯を食いしばって、涙を押し堪えて、ひたすらに一日を我慢していた。押し殺していたのは悲しみだけじゃない。教室の中でたった一人、理不尽な目に合わなければならない憎しみと怒りに、どれほど心を削ったことだろう。
 萩生が今みたく我慢しきれていないことも容易に頷ける。今夜ようやっと、自分が持て余した凄惨な感情をぶつけることができるのだ。これ以上のことなんてないだろう。俺が萩生なら大笑いでもしていたかもしれない。
――けれど、萩生は今夜死ぬのだという。
 ここまでの怨念と執着があるのに、復讐に窶せるほどの行動力があるのに、そのエネルギーをこれからの人生に注ぎこむのではなく、終わらせるために使うことを選んだ。
 決定事項だ。
 すべての復讐を遂げれば自殺する。そう出会ったときに言っていた。
「なあ、萩生」
 不躾なことかもしれないが、それももう今さらだ。どうしても問いかけたくなって、俺は萩生に尋ねる。
「それだけ嫌なことがあって、それでもいままで耐えて生きてきたのに、どうして今日お前は死のうと思ったんだ? あっけない終わりが来ればいいのにって、そんなふうに思って過ごさなきゃならない空しい一日にした原因は、一体なんなんだ?」
 死にたくなった。
 もうこの世界は辛すぎて生きてけない。
 馬鹿にした言葉の数々がどれほどのものだったか、まだ俺にはわからない。
 でも、今日の今日まで凌ぐように生きてこれた目の前の女が、死を決意するほど絶望したなにかが、きっと今日あったのだ。
おそらく数時間後には萩生はこの世界から消える。宣言通りのエンドロールを迎えて、決して満たされなかった人生の幕を閉じる。その前に聞いておきたかった。

 今日お前になにがあったんだ。



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