《氷室繊太郎》1/6


 少し、昔のことを思い出した。俺と萩生がまだ幼き小学児童だったころだ。
 安っぽい生地のごわごわしたジャンパースカートや曖昧な丈の半ズボンが入り乱れるように並んでいる。取り囲んでいると言ったほうが正確だろう。クラスの女子も男子もみんな、一人の少女に対して偏狭な正義を吐いていた。
――お前の持ってきた給食なんて汚くて食べられない。
 給食制の小学校だったため、四時間目の授業が終わると給食班が食堂まで給食を取りに行くのだ。当時の萩生は大おかずを運ぶ当番で、皿によそうのも萩生の役目だった。そのころ担任の先生は緊急の呼び出しのため教室にはいなかったはずだ。でないとここまで苛烈なことを、教室でできるわけがない。
 もちろん誰が持ってこようと給食は給食だ。食べれなくなるほど汚れるなんてことはあるわけがない。でも萩生をいじめていた人間は、自分の触れるものに萩生が接触するのを極端に嫌がった。萩生菌。汚い汚いと、まるでそこに確かなヘドロがあるかのように徹底的に拒絶した。濁った色の藻を身に着け、独特の匂いを漂わせる河川底質が、人間と同等の扱いを受けるほうがどうかしている。
 萩生はずっと俯いていた。クラスメイトの全員に責められていて、顔を上げれるはずがなかったのだ。でも萩生を追いつめるクラスメイトはそれすらも気に食わないみたいに声を荒げる。
――責任とれよ。
 そう言ったのは五十嵐だった。お山の大将だった五十嵐はつい最近覚えたコムズカシイ言葉をひけらかすみたいに言った。その表情は、自分がどれだけ物知りでありどれだけその聞き慣れない語句を使いこなしているのかを自慢するかのような厭らし顔だった。上背もあり、日に焼けた浅黒い色をした肌は小学生ながらに威圧的で、萩生を縮こまらせるには十分だった。
 五十嵐は萩生が持ってきた給食の容器をがっしりと掴む。なにをするつもりかと狼狽えていた萩生の頭に大おかずの茶色が降り注いだのは瞬く間のできごとだった。適度に熱されていたそれを被った萩生は悲鳴を上げる。萩生以外は笑った。慌てふためいて転んでしまう萩生に、もっと笑った。
 容器全部のおかずを頭から被ってしまったせいで、萩生は全身茶色塗れだ。服も肌もどろりと染まっていて、こびりつくように乾いていく。給食を被った萩生を、女子は更に汚い汚いと侮蔑した。五十嵐は容器を元あった場所において、制裁だ、とまたコムズカシイ言葉を使う。取り巻きの男子グループは喉からせり上がるような声でその言葉を反復した。
 これのどこが制裁≠ネのだ。
 成熟しきらない小学生の、狂信的な偏執と尊大な自己防衛からくる履き違えた暴力だ。
 真の制裁とはそんなものではない。真の制裁とは、そうやって笑いながら器用にこなすような生易しいものではないのだ。どういうものを制裁と――復讐というのか、いまの俺にならはっきりとわかる。今となってはカレーだったかなんだったかも思い出せないあの茶色い泥を頭から被るべきなのは、萩生めぐみであるはずがないのだ。
「ここにしようか」
「そうですね」
 結局目をつけたのはお手頃なファミレスで、二十四時間体制で運営しているところだった。
 暖色の明るい光に包まれた空間は落ち着きがあり、アップテンポなジャズ風の音楽がシーリングファンに乗ってテーブルの上へと降り注ぐ。時間が時間なだけに賑わっているという印象は受けないが、それなりに耳にする店のネームバリューとハキハキした店員の態度は、味に安心感を与えるには十分だった。
 ポップなメニュー表を広げて俺は言う。
「俺はこの特製ハヤシライスにする。お前は?」
「グリーンカレーの温玉のせ」
 適当に注文をしてメニューをホルダーに入れる。出されたばかりの水の入ったグラスが氷にパキリと罅をいれた。
「助平さん、ハヤシライスとカレーの違いって知ってます?」
「……スパイスが入ってるか入ってないかとかか?」
「そんな感じですね。ハッシュドビーフをお米にかけたのがハヤシライスみたいです」
「へえ」
「でも、ハッシュドビーフって言われて、それがどんなものか想像できます?」
「確かにあんまりピンとこないな。ビーフがハッシュされてるのはわかる」
 俺の返答に萩生はなにも返さなかった。
 いや、まあ、ツッコミを貰えるとは思ってなかったけど、無視をされるのはヘコむな。
「あたし、ハヤシライスは嫌いです」唐突なセリフだった。「昔、五十嵐にぶっかけられてから、とても嫌いになった」
 俺はテーブルに肘をついて顎を乗せる。体重移動の関係で数センチほど萩生に近づく形になった。萩生はもうかなり落ち着いて熱も冷めているようだけど、恨みまで冷めることはきっとないんだろう。
「復讐できなかったのがそんなに嫌か」
「当たり前でしょう? 完膚なきまでに潰してやるつもりだったのに、あれはもうただのゴミです」
 ゴミを潰しても面白くないと言って、萩生はグラスの水に口をつける。
 そんなお前の目こそゴミだ。復讐だのなんだのに囚われて悲劇を謳っている。世の中は理不尽だらけでいじめのそのうちの一つだ。この地球上には七十億人以上の人間がいて、それほど稀有でもない確率で差別を受ける。七十億分のどれだけかはそれを受け入れて耐えているのに、お前は未だに引きずってこんな馬鹿げたことをしているのか。汚らわしい。恥を知れ。
 なんて、数時間前の俺だったら心の中で吐き捨てていたことだろう。
「でも、よかったんじゃないか? あんなやつを殴ることで、お前の手が汚れるよりは」
 だが今俺が目の前の萩生に直接言い放った言葉はそんなものとは違う、ドラマでもよくある耳が小っ恥ずかしくなるような綺麗事だった。
 自分でも笑いたくなるけど、少しぐらいは優しくしてやるつもりだったのだ。
 けれど、萩生は眇めるように俺に言う。
「どうせ貴方は、復讐なんてって、思ってるんでしょ」
 だからそんなことが言えるんだと責めるような目。萩生は切り捨てるように俺から目を逸らして、窓の外へと視線を移す。
「あたしはね、最低でも、あのみすぼらしい頭の先からハヤシライスをぶちまけることくらいは許されるはずだったんですよ」
 それだけじゃない。その屈辱的な様を写真に撮って、彼を知る人間全員にばらまいて、それが世界一正しいことみたいに笑ってやることも、萩生はしてやりたかったに違いない。
「だから、この鬱憤は次の相手で晴らすしかない」
 俺にクイーンナイトは似合わないらしい。もうなにを言っても反抗するだろうから、俺は受け流し半分で「次の復讐相手?」と、聞かずとも簡単に予想できる事柄をあえて問い尋ねた。
「氷室繊太郎」
「へえ」
「という猫かぶりのゲス野郎」
 一段と恨みがこもってるなあ。
 そう思いながらも、氷室繊太郎という男のことをこれほど的確に表現した言い回しはないと、感嘆もした。一見おとなしそうな腹黒少年。猫かぶりのゲス野郎。この言葉がそうオーバーとも言えないくらい、氷室はアクドイやつだったのだ。
 氷室は当時、学年でも名の知れた男子生徒だった。
 それも所謂優等生≠ニいうポジショニングで。
 クラスでは学級委員を務め、スクールカースト上位の者も彼には一目置き、叩きだす成績は軒並み優秀、サッカー部に所属しており試合にもスタメンとして出場、気さくな態度と清潔感のある笑顔に定評のある、好感の塊のような男だった。教師からの信頼も厚く、読書感想文や百人一首大会などでたびたび受賞されたり学校代表として選ばれたりと、まあおっかないくらいに完璧な人間。そんな完璧な人間が萩生めぐみをいじめ抜いた統率者というのだから、神は残酷であり、しかしちゃんと理解しているとも言える。完全に完璧な人間なんてこの世にありはしないという、典型的な事例だ。
 確かに氷室は完璧だったが実のところの内面は結構よろしくなかった。もちろん上手く隠していたし、ちょっとしたあくどさこみで彼は人気があったとも言えるが、にしても彼の臓器はイカ墨に染まったかのような漆黒を讃えている。学校全体に萩生めぐみ迫害ムードをごく自然に推し進めていった技量と度胸は、野生時代を生き抜いてきた屈強な肉食獣さながらだ。



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