《五十嵐顕児》5/6


 かぶりを振るように五十嵐に向き直ると、今度は五十嵐が明後日の方向を向いていた。萩生と同じく俯き気味で、まるで眩しいものを避けるみたいな眼差しの後ろ向きさ。それが萩生を怯えているようにも見えて、俺は不思議な感覚にとらわれた。
 そういえば、玄関でこいつが萩生を見たときの反応もこんなふうだった。見るに耐えないというふうに直視するのを避けて、視界にも入れようとしなかった。小学生のころに下品なくらい流行った萩生めぐみバイ菌ごっこ≠フ続きをしているわけでもなし、萩生を避ける理由などないはずだ。むしろ、久しぶりに萩生に会おうものならあのころの正義感を鮮度そのままに振りかざして、罵詈雑言を浴びせるものだと思っていた。
でも五十嵐はそんなことをしない。
 むしろ心を入れ換えて、神にでも祈るような悲痛な口元で懸命に歯を食いしばっている。
――まさかこいつ、萩生に対して罪悪感を抱いているのか?
 玄関での表情といい今の態度といい、思いつくのはそれくらいのものだ。あのときは小学生だったが今はもう成人している。子供のころの残虐性に羞恥を覚えるには十分すぎる時が経った。今更あのときのことを後悔していようと、なんら不思議はないのだ。
「五十嵐お前……」
 言葉を続けようとして、寸でにそれを躊躇った。
 五十嵐がいじめたことを後悔していると知ったら、萩生はどう思うのだろう。
 復讐の決意は揺らぐだろうか。怒りが行き場を失うだろうか。もしくはそんなものは火に油を注ぐような行為で、ふざけるなと言って憤慨するだろうか。
 俺には予測できなかった。誰にもできない。この場にいる誰もが、萩生が何年も溜めてきた憎悪を知らない。どれだけ持て余して生きてきたのか、わかることは多分一生ない。
きっと理解していないのは萩生も同じことだろう。萩生自身も今自分がどんな顔をしているのかは、わかるはずがないのだから。
「さ、最近空気の入れ替えしたのはいつだよ」
 俺は逃げた。今の状況を直視することから逃げた。
 しょうがないと許してほしい。俺一人がどうこうするには感情との壁が分厚すぎたのだ。
「……お前は俺の母親かよ」五十嵐は顔を顰めて言った。「そんなの今は関係ないだろ」
「にしたってこの空気の腐り具合は異常だ。自分でも気にならないのか?」
「知るか。ずっと家にいるから気づかねえし」
「ずっとって?」
「ずっとだよ……だからなんだ?」
 俺は喉を濁らせる。リビングをぐるりと見回した。
 リビングには生活感がない。テレビを見た痕跡も食事をした痕跡もない。足元に積み重ねられた雑誌の類が捨て置かれているように鎮座しているだけで、インテリア系の家具はなにもなかった。
 おかしいと思った。俺はもう一度五十嵐に問いかける。
「お前、もしかして普段は部屋に籠ってるのか?」
「……そうだけど?」
「リビングには?」
「大体部屋だ、食事も部屋に持ちこんでる。あとはトイレに行くくらい」
「大学の友達と遊んだりしないのか?」
「お前には関係ないっつってんだろ」
「最後に外を出たのはいつだ? 玄関の靴、やけに埃を被ってるようだったが」
「だから関係ないっつってんだろ!」
「ひきこもり?」
 男同士のかけあいに女物の、鶴のような一声がかかる。けれどそれにはめでたさもなにもなく、悪魔的な玉音を響かせているようなものだった。五十嵐にとっては毒の言葉なのだろう。萩生の呟きを聞いた途端に赤いのか青いのかよくわからない無様な顔色を見せはじめた。
「ずっと部屋から出てないの? 電気も点けずに? まさかずっと、そうやって生きてきたの?」
 萩生の声に嬉々はなかった。長年の敵を精神的に追いつめているであろうに、萩生の吐き出す言葉の一つ一つはぞっとするほどに冷たかった。
「なんで、なんでひきこもってるの。気持ち悪いよ。小学校のころの自分、覚えてる? いまみたいなひとじゃなかったでしょ。部屋にこもって、なにしてるの? こんな、リビングまで」
 萩生が足元の雑誌のタワーを一瞥すると、五十嵐は耐えられないと叫ぶかのように顔を俯かせながら逸らした。五十嵐に一体なにがあったのかはわからないが、どう考えてもこれはデリケートな部分にあたるだろう。それだけに、こうもずけずけと口を入れ暴こうとする萩生が、俺にはまるで悪魔のように思えた。
「君、あたしに昔なにしたか覚えてる? あたしは覚えてるよ、忘れたことなんてなかった。だからここに来たの。そういうこと。そういうことだよ。馬鹿みたいじゃん。こんなところにいちゃってさ。ここで君が死のうが誰も気づかない。空しくない? 親に迷惑かけてるなとか思わない? 自分が嫌になったりしない? こんなところ見たくない、気持ち悪い、信じられない、これ以上気持ち悪い気分にさせないで」
「だから、やめろって言ってるだろ!」
「君はやめろなんて言ってないし、あたしが言ったときもやめてくれなかった!」
 萩生は叫んだ。
 心臓を突き刺すような、悲痛な叫びだった。
 俯いている。灰色の影を落とすせいで表情はよく見えない。
「……やめてくれなかったんだよ」
 萩生は立ち上がる。呼吸が荒いわけでもないのに、興奮気味に肩は息をしている。
それから乱暴に雑誌の山を蹴り上げた。鈍い音を立てて崩れていく。
 崩れたのはタワーだけじゃない。今の今まで萩生が大事に抱えてきた、背徳と桎梏に溢れるなにかだ。もう二度と戻らないだろう。自分を苛んだ男がこうも落ちぶれて、埃を被って生きている。俺でもショックを受けたんだ。萩生からしてみれば相当だったに違いない。



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