《五十嵐顕児》6/6


 視界の端で華奢な拳が握られた。指が手の甲を突き破りそうだった。
「ざまあみろ。ここで惨めに生きてればいい」
 萩生は荒い足取りでリビングを出る。薄暗い廊下を歩いて玄関で素早く靴を履いた。俺は萩生の後を追うためリビングを出ようとして、ちらりと五十嵐を一瞥する。なにを言う気にもなれなかった。
 傘に紛れるようにあるバールを見て、そこに置いていたことを思い出す。出るときに忘れないよう先に傘立てから抜き取った。玄関のドアを開けた途端に夜風に運ばれてきた新鮮な空気が肺に押し寄せてきて、五十嵐家にいるよりかは随分と心地よかった。
 月明かりが住宅街の屋根を縁取っている。俺と萩生の影も伸びていた。少し前を行く萩生に追いついて、その隣に並ぶ。萩生の足は逃げるように速かった。
「復讐は?」
「萎えた」
 震える声だった。怒りか、悲しみか。やるせないという思いがあるのは間違いないだろう。食いしばった歯の隙間から囁くように萩生は言葉を続ける。
「全身が痒い。気持ち悪い。耳が痛い、それと喉も」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない!」ヒステリックに叫んだ。「頭がおかしくなりそうだ!」
 もう十分おかしいよ、って言ったらもっと叫ぶんだろうな。
 近所迷惑になりそうだったので先へ進むことを促したが、それが更に癪に障ったのか萩生の態度はますます悪くなった。全身が尖ってヤマアラシのようだ。触れたら燃えつきる、氷の炎のようだ。
「あんなやつを殴ったって、あたしはちっとも報われない。もう、もうだめだ。逃げられた、それも永遠に。あんな卑怯で姑息な手で!」
「じゃあどうするんだ?」
「どうしようもない! もうだめなの! あ、あたしはもう二度とあいつの顔なんて見たくない。もうだめだ、今日しかないのに、こんなところまで来たのに、やっぱり今日は人生で最悪の日だ……」
 つらつらと、円周率を唱えるような口調。けれど語尾の強さは心もとなく、見ているこっちが不安になる。このまま世界を閉ざしてしまうようなそんな危うさがあった。
 相当まいってしまっている。
 ゆるゆると振りかぶりながら早足に五十嵐から遠のいていく萩生は、アレルギーでも起こしたみたいに両腕をカリカリと摩っていた。顔は俯かせたままだ。揺れる前髪から覗く眼差しは充血したみたいに朱い。取り乱したせいで、かろうじて俺に対して施していた丁寧語が見るも無残に剥がれていた。
 萩生の頭の中には言葉にならない感情の炎がその身を焦がすように燃えているだけだった。
 俺は萩生の肩を掴む。振り向かせて、向こう見ずな足を止めた。
「落ちつけ」
 その顔を覗きこむ。
 見なければよかったというような、とんでもない表情をしていた。
「……五十嵐がだめでも次がある。思い出せ。お前のする復讐は一つだけじゃない。まだいるんだろ? お前をいじめ抜いた悪逆非道な人間が。そいつらにうんと復讐してやるんじゃないのか。まだ終わってない。今日しかないんだからしっかりしろ」
 萩生は揉み砕くように唇を噛み締めた。そろそろ裂けて血が出るんじゃないかというところで、閉ざしていた口はやんわりと開く。
 無意識程度の深呼吸。
 萩生は俺の手からゆっくりと離れて自分の心臓のあたりをぎゅっと掴んだ。
 最後にもう一つ息をつく。まだ興奮の冷めきらない表情でまっすぐに俺を見据えた。
「わかってます、そんなこと」
 なけなしの丁寧言葉は元通り。
 落としたものを拾いあげるように、萩生は冷静さを取り戻していく。
「ちょっと取り乱しただけ。もう大丈夫です」
「そりゃあよかったよ」
「五十嵐のことなんて放っておいてご飯を食べに行きましょう。お腹がすいてなにもできそうにない」
「え? ああ、そうだな。ファミレスでも探すか」
 俺はすぐに携帯を取り出して近くに食事ができそうなところがないかを探した。
 数分後、携帯から目を剥がしたころには、萩生はすっかり元通りに戻っていた。



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