《五十嵐顕児》3/6
ここには住んでいるかもしれないが、出入りはあまりしていないように思う。彼女の家に同棲している、海外に留学している、もしくは実家に帰っている――そのあたりの理由で。大学生なのだから友達の家にお泊りだの、はたまた地方へ旅行だの、しようと思えば何日だって家を空けることができる。しかも五十嵐はクラスの中心人物のような取り巻きの多いやつだったのだ。そういう理由に事欠かない。
インターホンを鳴らしたところで出てくると思えない。その意見には賛成できる。けれど、だからといっていま萩生がやっているような侵入作戦にはとてもじゃないが賛成できない。それならダメ元で呼び出してみたほうが精神衛生上よろしいというものだ。
自分でも軽々しいくらいの手つきで、電子ベルのボタンを押した。
『……モシモシ、五十嵐です』
口から心臓吐くかと思った。
ボタンを押した数秒後、同年代の男によくあるような声が鬱陶しそうに返事をした。小学校のころの五十嵐の声なんてもう覚えてないが、そういえばこんな声をしていたようにも思われる。変声期前の少年の甲高い声に大学生の声を当てはめるのもおかしなものだが、萩生と再会したときに感じたセピアを、その声にも見出した。
『……どなたですか?』
おっといけない、返事をするのを忘れていた。とはいってもなんと返せばいいのやら。まさか本当に出るとは思ってなかったからなにも考えていなかった。どうしよう、適当に新聞の配達員とか言ってごまかしてやろうか、もしくは宗教の勧誘をほのめかせてぶち切りを促そうか。
きっといろんな手があっただろうに、最終的に俺が弾きだした答えは滑稽極まりないものだった。
「どうもお久しぶり、比来栖です」
なに馬鹿正直に答えてんだよ、俺。
自分自身を心の中で呪いながら気まずい表情を浮かべる。
『……は? ピクルス=H お前、まさか、あのピクルス≠ゥ?』
そうだよ、ピクルスくんだよ。
ていうかそのあだ名まだ有効期限切れてなかったのか。
五十嵐の言ったピクルスとは俺の愛称である。愛称というかタチの悪いニックネームだ。名字の音がピクルスに似ていることから、あのころはよくそんなふうに呼ばれていた。
「元気にしてたか? 五十嵐」
『いや、待て、は? なんでお前が俺の家に来るんだ? じゃなくて、なんで一人暮らししてること知ってるんだよ。どうしてこの場所が……いやその前に! お前いま何時だと思ってるんだ! 十一時半だぞ!』
インターホンの蜂の巣ごしに戸惑いの怒声が響いてくる。どうしたものかと思っていると『まあ、いい。待ってろ』と音信の切れる音がした。
え。まさかこっちに来るのか。
俺が焦っていると、さっきまで壁によじ登ろうとしていた萩生がとことことこっちに戻ってくる。あのへたれ具合を見るにかなり頑張ったようだが結果は見事惨敗といったところだろう。ざまあなかった。だが今はそれどころじゃない。
呼び出しに応じた五十嵐、こっちに来る萩生。
やばい。なにがやばいかよくわからないがこれは非常にやばい。
「お、おい、萩生、ロッククライミングは諦めたのか?」
「あたしにゴキブリのモノマネは似合いませんでした」
「いけるって、お前なら人間界最強のゴキブリになれるよ」
「それ遠回しっていうか結構大胆に貶してますよね」
いやいやまさか、とごまかしているとドアの奥から物音が聞こえてくる。
やばい。そろそろ五十嵐が来る。
萩生はそれに気づいていないようだが限りなくこちらに近づいてくる。これはもう素敵な再会は間違いないだろう。そしてその再会の瞬間にデストロイなことになる。俺はごくんと唾を飲みこんだ。
永遠にあると感じられたその瞬間は、いとも容易く訪れる。チェーンかなにかを解除する音が聞こえたと思ったら、あっという間にドアが開いた。萩生はびくっと肩を揺らして目を見開く。しかしそれは、五十嵐とて同じことだった。
「――萩生めぐみ?」
数年ぶりとなる彼の瞳に浮かんだのは、強者には似合わないくらいの隔絶的な怯えだった。
そして、その声を聞いた萩生の顔色は蒼白に変わる。
唇が震えていた。目は興奮に見開かれていた。肩は強張って首は竦む。手の平はなにかを掴もうとするように泳いでいて、それは不気味な浮遊だった。だがどうにも掴みかかるような気迫が見えない。むしろ今すぐ逃げ出してしまいそうな、臆病な息遣いを萩生はしていた。
そうか。
こいつ怖いんだ、五十嵐のことが。
いや、というよりも、傷つけることが怖くなってるんだ。
元々そんな加虐趣味のあるやつでもない。いじめる側とは無縁な、それこそ虫も殺せないような人間だ。そんなやつがいくら憎いとはいえ、復讐とはいえ、誰かに暴力をふるえるなんてこと、できやしなかったんだ。
いまの萩生は炙ったビー玉みたいなものだ。急速に冷やされて、どうすることも出来ずにヒビが入っていく。ここまで来たんだ、憤りや憎しみはそれほど強いのだろう。けれどいざ本人の前に立つとトラウマがフラッシュバックして、そして今から自分がしようとしていることに恐怖と不可能を覚えるのだ。
「……なん、で」
なんでじゃない、五十嵐。こいつはお前に復讐しにきたんだ。
萩生の手は衝動的に武器を求めている。今もぴくぴくとピラニアみたいに浮遊して、手に入れたバールを探っている。もちろんそれは俺が持っていて、萩生のその努力は報われない。たとえ報われたとしてもそれを掴んで撲りかかれるかは怪しいところだった。
俺たち三人は玄関先で固まる。緊張だとか困惑だとかが混ぜこぜになった空気が一面を張った。
「……アー」その空気を塗り替えたのは、五十嵐だった。「寒いだろ、とにかく、中、入れよ」
喉に張りついたような硬い声で五十嵐は言う。どう返すのがいいかと悩む暇もなく、萩生は促されたままに「お邪魔します」と侵入した。
おい、まじかよ。いそいそと靴を脱ぎだす萩生に声をかけるが、こいつもこいつでパニックを起こしているらしい。なんの応答もなかった。俺は萩生に続いて家の中に入る。
「あ、傘はそこに置いとけよ」
「え?」
なにを言っているのか数秒ほど頭を捻ったが、すぐに俺の持つバールのことを言っているのだと悟る。夜の暗さのせいで五十嵐にはこれが傘に見えるらしい。俺は適当に返答したあと、指定された傘入れにそれを突っこんだ。
ドアを閉めた途端、不快感指数の高い空気がすぐに鼻孔を突いた。空気が籠っている。どこか重くて、それに埃っぽい。新鮮さが感じられなくて、まるで掃除機の中身が家中を飽和してるみたいだった。息苦しい。家のものが全て心中している。電気もつけられないこの空間は、それだけで世俗から脱却したように思えた。
ミシミシと軋む廊下を、五十嵐を先頭に歩き続ける。萩生は五十嵐から少しだけ距離を取って、鼻をつまみながら「くさい」と言う。
ごもっとも。
この家からも、もっと言うなら五十嵐からも、清潔感のある匂いがしない。どこか酸っぱくて、おまけにどろりと目にくるのだ。ようやっと廊下を抜けてリビングらしき部屋のドアを開けたと思ったら、そこはさっきよりもかぐわしかった。薄暗いなか、目の前の萩生が後ずさって俺の胸元に頭をぶつける。