《五十嵐顕児》2/6


 車の振動で前髪や肩が小刻みに揺れている。けれど人間らしい動作は殆どないので呼吸しているのか一瞬怪しくなった。すぐに痒そうな瞬きをしたので疑念は晴れたが、やはりその瞬き以外、萩生は自ら動くことをしなかった。まるで体力を温存しているみたいに、精神統一でもしているみたいに、なにかを我慢してあとで爆発させてやろうと企むみたいに、萩生は必要最低限の動きしかしなかった。
 まだ復讐や自殺を馬鹿馬鹿しいと思っている。けれどこんなところまでついてきてしまった俺にそんなことを言う資格もないだろう。おまけにアドバイスまでして、これじゃどっちが馬鹿かわかりゃしない。俺が望んだことのはずなのに、まるで操り人形にでもされたかのような気分だ。なんでこうなることを望んだのか。好奇心か、出歯亀か、懺悔か、贖罪か。なんにしろ厄介な道を選んでしまった。後悔するわけじゃないが自分自身がいたたまれなくなっていくのを感じてしまう。
 有機質な音は自分の呼吸しかなくて、なんだかとてもおぞましくなった。






 そこは普通の家だった。
 学生の一人暮らしにしては大きいほうの、けれど決して贅沢ともいえない普通の家。
 今朝の朝刊はそのまま玄関のポストの中でぶらさがっていて、家の住人が大雑把な性格であるのが見てとれる。二階建ての窓の奥はカーテンで閉ざされていてなにも見えない。屋根はあたりさわりのない色をしていて風に晒され薄く剥げていた。ベランダには質素な換気扇、積まれた空のプランター、仕事のない物干し竿が寂しそうに並んでいる。土と雨の二重攻撃を受けた壁は煤けた雪崩れ模様を帯びていた。
「なんか殺風景だな」
「見知らぬ家はどこでも殺風景に見えるもんじゃないですか」
「にしてもだよ、そこ」俺は玄関のあたりを指差した。「蜘蛛の巣張ってるし」
「じゃあ助平さんは家の前に蜘蛛の巣を見つけたらそれを掃除するんですか?」
「え? そりゃあ……あ? ああー……」
 俺の言葉が鈍くなっていくのを萩生は平淡に受けとめた。
「しないですよね」
「まあ、触りたくないしな」俺は控えめに肯定する。「でも木の棒とか箒で除去する場合だってあるだろ? 母親なんかはそういうのうるさいだろうし」
「五十嵐は一人暮らしですよ?」
「……そうか」
「そうですよ」
「なら、そうか」
「そうですよ」
 そんなわけあるか。
 俺は振り払えない疑念をそのままに、もう一度この五十嵐宅を見回した。カーテンは閉め切っている、あくまで予想だけど、しばらく窓の開閉をしていないんじゃないだろうか。ドアの鍵穴が妙にきれいなのも引っかかる。ううん、と考えこんでいると、萩生の姿がどこかへ消えているのに気づいた。
「おい、萩生?」
 返事がない、ただの屍のようだ。ならその屍はどこ行った。
 あたりを見回すもどこにもいない。来た道を戻りかけたそのとき、嫌な予感が頭をよぎった。ありえないと頭をぶんぶん振ったがあの萩生めぐみなら、いまの萩生めぐみなら、やりかねない。
「……萩生、どこだ」
「こっちです」
 ほらきた。冗談じゃない。さっきの返事、敷地内から聞こえてきたぞ。
 お邪魔します、と俺は家の敷地を跨ぐ。
 玄関は目の前にあるからまだ家の中に入っていないとはいえ、これは立派な不法侵入じゃないのか。庭とも言えない青緑の草地、狭い通路の奥の荒れた空間に、俺は一階のベランダを見た。ついでに萩生の姿も見た。それも壁面にへばりついて家によじ登ろうとしている格好の。
「一応聞くぞ。なにやってる」
「マドモアゼル・忍者めぐみ」
「ちょっと気に入ってるだろお前。じゃなくて、それ思いっきり不審者だぞ。普通に玄関から入ろうと思わないのか」
「もう寝てる時間帯ですよ、部屋の明かりも見えないし。どうせ五十嵐は呼びだしに出てくれないんだからこうやったほうが早いじゃないですか。常識的に考えて」
「常識的に考えて全然早そうに見えないんだが。ナメクジみたいになってるぞ」
「ちょっと助平さん、手伝ってください。多分この排水管に掴まれば二階の窓に届くと思うんです」
 よたよたとおぼつかない動作で壁に縋る萩生の姿はこの上なくシュールだった。こんなまぬけな絵面を今まで見たことがない。もたついているのが見ただけでわかる。全然上手くなくて、このぶんだと二階に到達するには一生かかるだろう。馬鹿にするわけじゃないが、こいつ馬鹿だ。
「二階からの侵入は諦めろ、萩生上物理的に無理だ」
「なら貴方が登ってください」
「そっちはもっと諦めろ。ただでさえ危ない橋を渡ろうとしてる俺に決定打叩きだせってのか」
「石橋は叩いて渡るものです」
「俺は石橋を叩き壊す主義なんだよ」
 とにかくだ。
 このまま萩生が勝手によじよじしているのはいいが、買ったバールでベランダの窓ガラスを破壊すればいいという発想にいつ至るかわからない。今でだってギリギリの行為に及んでいるのに、窓ガラスまで割ったら後戻りできる確率はグッと低くなる。
 俺はその凶行を回避すべく萩生から距離を取った。通路へと引っこんで、再度玄関の前に立つ。腕時計で時間を確認した。
「十一時二十二分、か」
 微妙だな。起きてるやつは起きてるだろうし、寝てるやつはとっくに寝てる。俺はまだギリギリ起きていて歯磨きをしている時間帯だ。五十嵐宅の明かりは完全に消えているし、これは寝ているタイプだろう。
 というか、俺はそれ以上の推測を、実はしていた。
 それは五十嵐顕児はこの家にはいない≠ニいう仮定だった。



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