《五十嵐顕児》1/6


「電車ってゆりかごみたいですよね、なんだか眠くなってきました」
 ふわあ、とあくびをした萩生は手すりの棒に頭を預けた。
 電車に乗った途端、真っ先に椅子に座った萩生。それほど人もいないし別にかまわないのだが、子供っぽいというか未発達というか、そういうところに呆れてしまった。俺も座ろうと思ったのだが萩生の隣に座るのも憚られて、結局は萩生の目の前の吊り革に身を委ねるだけとなった。バールを杖代わりにするとそれなりに体は安定する。おかげで発車時の振動に耐えることができた。
「まあ中学生ならそろそろ寝てる時間だしな」
「まだ回らなきゃいけないところがあるんですけど……一日が二十七時間ぐらいあればいいのにな」
「あんまり高望みはしない主義なのか? 俺なら四十時間ぐらいほしいね」
「そんなにあっても疲れるだけじゃないですか」
 ふよふよとした声音で萩生は返した。目は完全に臥せってしまっている。これは下手をすれば寝こむだろうな。まだ口は動いているようだから当分は大丈夫だろうが。
「おい、萩生。寝るなよ」
「寝ませんよ。ていうか助平さん、また呼び捨て」
「マドモアゼル・萩生とでも呼んでほしいのか?」
「なんでおフランス……」
「嫌ならお前だって呼び捨てにすればいいだろ」
「助平」
「やめろ、俺が悪かった」
 目を閉じたまま、萩生はにんまりと口角を吊りあげる。まるで悪戯が成功した自慢げな子供のようだった。
 別の車両から年配のサラリーマンがやってきた。真っ黒いベルトに白いシャツの腹がでっぷりと乗った恰幅のいい男だった。その男は萩生の隣に腰を下ろしてどっとかまえるように後ろに凭れかかる。ケータイを弄っているためこちらを見てはいないようだが、萩生は男の存在に気づいていた。何者かが自分の隣に座った気配がしたのだろう、目をちろりと開けると顔を濁らせる。
 萩生はそのまま立ち上がった。俺は驚いてひょいと身を捩じらせるが、危なく萩生にぶつかりそうになった。一度停止して、俺をよけるようにしながら萩生は席を移動した。サラリーマンからよほど離れた端のほうの席だ。俺もそれに続いて萩生の目の前に陣取る。萩生は顔を歪ませて寒そうに体を抱く。俺は不審に思って「大丈夫か?」と尋ねた。
「……大丈夫」
「お前って」顔を寄せて小声で囁く。「男っていうか……苦手なのか?」
「苦手っていうか、まあ、苦手なんですけど」
 ガムでも噛んでるみたいに歯切れの悪い言いかたをする。ぎゅっと目の周りに皺を寄せた萩生は見るからに辛そうだと思った。
 見知らぬ男性をここまで気持ち悪がるのは異常だ。普段なら無礼すぎるだろうと諌めたがこの尋常でない拒絶反応に俺はなにも言えなくなる。
 せめて気分がよくなるものはないかと服のポケットなんかを漁った。こういうときにぴったりのチョコレートがあるのだが生憎持ち合わせていないし、本日より発売停止になったためこれから持ち歩くこともない。いや、厳密に言えば持ち合わせてはいるのだが、それは悲惨なほどにどろりととけていたのだ。こんなものを差し出されて喜ぶやつなんてまずいないだろう。意識の端にしまっておく。それとなくぱたぱたと探していると、ズボンのポケットにそれらしい包み紙の感触を見つけた。
「おい萩生、お菓子はいるか?」
「えっ」驚いたのか一オクターブも声を跳ねあげた。「あ、あるんですか?」
「ああ。なにがいい? ラムネとアメがいくつかポケットにあるんだ」
 俺がそう言うと萩生は少しだけ視線を下ろした。俺のポケットを見つめているのかと思ったがそうじゃないらしい。ぼんやりとした様子で、心なしか表情が情けなかった。どうやら落胆している。落胆されるようなことをした覚えもないので俺はムッとなる。
「助平さん、女子みたい」
「は?」
「お菓子を持ち歩くなんて女子みたい」
「ケンカ売ってんのか」
「お菓子でなんでも解決するって思ってるあたりも女子みたい」
「あーわかったよ、ハイハイ、悪かったなあお菓子なんて持ち出して」
「誰もいらないなんて言ってません」
 不貞腐れて投げやりになっていたところで萩生はそう言った。
「なら最初から素直に欲しいって言えばよかったんだ」
「別に欲しくないとは言ってません、助平さんが短気なだけですよ」
「かわいくないやつ」
「どうせあたしはブスですから」
 ブス。それは、何年も前に俺が萩生に言ったことだった。俺だけじゃなく、みんながみんなそう言って罵っていた。いまの萩生はにこりとも笑わないが、さして顔の造形がへたくそなわけでもない。もしいじめのせいで自分のことをブサイクだと勘違いしているのなら、それは嘆かわしいことだった。
「で、お前はなにが欲しいんだ?」
「ラムネがいいです」
「ほらよ」
 俺はポケットからラムネを出した。両端の絞られたセロファンの包み紙は薄緑色の半透明だ。萩生は受け取ると即座にそれを引っ張って開く。まるでドラッグかなにかのような甘い香りが顔を出した。いくつか入っているそれのうちの一粒を俺に寄越して「お礼です」と萩生は言った。それ、元々は俺のなんだけどな。
「こういうの食べてると」萩生は残りのラムネを一気に口に入れる。「なんか余計にお腹すいてきますね」
「ラムネやアメじゃ腹は膨れないしな」
「あたし晩ごはんまだなんですよ」
「俺もだよ」
「死ぬ前に、なにか食べましょう。味の濃いものがいいです」
 死ぬ前に食事、か。まあお腹のすいた状態で死ぬのも嫌だろうしな。
「駅について、近くになにか店があったら入るか」
「あ、さきに五十嵐のところへ行かせてください。食前の運動です」
「お前すごい物騒なことサラッと言うよな……」
「もう着きますね」
 車両内のアナウンスに目的地の名が出る。
萩生はのそりと立ち上がって、ドアの前で止まった。
「気分悪いのはもう大丈夫か?」
「大丈夫。今から復讐できるのかと思うと、嬉しくてたまらない」
「おっかないな」俺は言った。「五十嵐顕児の詳細な住所はわかるのか?」
「なんとなく、だいたいの調べはついてます」
「そうか」
「助平さん、ケータイ持ってますよね? もし迷子になったら出番です」
「GPS使えってか。お前のケータイは?」
「三人の家を調べてるあいだに充電きれちゃったんですよ」
 どれだけ切羽詰まってたんだよ。
 やっぱりこいつ、何日もかけて計画してたわけじゃないらしい。即興くさいというか、妙に手間取ってる感があるのがその証拠だ。調べてるあいだに電池がきれて、そしてそこから充電もしていない――短期間での計画。簡単に予測できる無謀さだった。
 ドアがスチームパンクな音と共に開かれる。風がふんわりと下から吹いて、萩生のスカートや俺の前髪を鬱陶しく揺らす。カーテンのようにゆったりと元に戻る。俺たちは電車を降りた。
 夜空が随分と濃くなったように感じられる。海に近いからかもしれない。青い輪郭を持つ真っ白い電灯がホームを照らしていた。山のシルエット漆色で空に融けこんであちこちがぼやけている。階段を下りて改札を出る。駅の外の空気は寒かった。見渡すかぎり、は流石に言いすぎとしても、少なくとも田舎らしくなにもない。一応コンビニは見つけたので覚えておく。他に胃を満たせそうな店がなかったときここに来ればおにぎりぐらいは買えるだろう。
 俺は萩生のあとについてずんずんと進んでいった。
「どれぐらいでそいつの家につくんだ?」
「車で十五分、走ってそれなり、歩いて随分」
「具体的には」
「五キロくらいですかね」
「五キロ?」俺はげんなりとした。「歩きだと一時間はかかるぞ」
「タクシーにしますか?」
「お金に余裕はあるのか? このあとも回らなきゃいけないところがあるんだろ? 晩飯ぐらいならおごってやるからそこは省いて考えてもいいぞ」
「んー、まあ不可能ではないです。五十嵐が終わったあとに行く氷室繊太郎の家も案外遠くないですし」
 結局はタクシーで行くことになった。
 萩生は適当にタクシーをつかまえて、それらしい住所を運転手に囁く。
 十五分だと言っていたが、どうやらもう少しかかるらしい。腕時計の針は九十度よりも鈍い角度を刻んでいた。後部座席に座る俺と萩生はずっと無言だった。俺と萩生は何年も会っていなかったし、萩生からしてみれば俺は初対面になるだろう。そんな相手と気さくに話せるのもおかしいが、今までわりと話が弾んでいたからかこの状態は窮屈に感じられた。
 暇を持て余した俺は萩生にばれないように視線を遣る。萩生は俺に気づかずに、窓に頭を預けて遠くの前方を渺茫していた。



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