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 あれだけ大仰な台詞を言っておいて次の朝普通に登校してきたなんてもうとんでもなくかっこわるかった。かっこわるいっていうか、もう、穴があったら入りたい。
 ぎこちなく目を合わせてきた俺を、呆然とする結川の代わりにたくさんの星たちが迎えてくれた。ぶわりの噴きだしたそれらを軽く払っていると、状況を理解した結川は「おはよう」と笑った。詮索しないでいてくれるのは非常にありがたい。流石の結川だ。俺も「おはよう」と返して、いつものように話しこんだ。
 雨利も雨利で、何人かのクラスメイトに「お前あの日どこ行ってたんだよ」と聞かれていた。いくらぷらぷらしているやつとはいえ、急に俺と二人揃って授業をバックレれば、そりゃあ気にもなるだろう。俺が周りの立場でもなにやってんだよくらいには思ったかもしれない。しかし、清々しいくらいの飄々とした態度で雨利は「お空」と答えたため、特に信用されることなく易々と流れた。なんていい性格してるんだ。簡単に都合のつくニクイやつだった。
 結局、俺がずっと雨利に抱いていた危機感とはなんだったのか。
 雨利に会うたびに感じていたなにかが起こりそうな予感。そのなにかとはきっと、今までに起こった全部なのかもしれない。そしてそれは思い返してみれば、とてもいいものだったはずだ。
 ちなみに、あれ以来結川の次に話す存在となった雨利だが、意外なことに俺の姉とも仲良くなったらしい。
 一体どうなっているんだ。
 雨利にとって那贄亜羽は那贄亜莉の過保護だった姉≠ナしかなく、また姉にとっても雨利鏡麻はどうやら弟と一緒に学校を抜け出したらしい友人らしき男子生徒≠ナしかない。お互い気まずくない関係ではないだろうに、廊下ですれ違うたびに軽い会釈程度の挨拶なんかをしていると、ついに正々堂々と会話する機会を得て、その際けっこう意気投合したようだ。つまらないくっつきかただがなにやら異様な組み合わせだった。食卓でナチュラルに「そういえば雨利くんから聞いたけど、あんたこの前クラスメイトの男の子ともめたんだって?」とあいつの名前が出てくるんだから最初は驚いたものである。
「もめたんじゃなくて、あれは相手が厭味な言いかたしてきたから」
「そのあたりも雨利くんから聞いたけどさ、亜莉の言いかたも悪かったよ。もっと気遣いとかできないの? 結川花ろんちゃんが可哀想だよ」
「なんで亜羽ちゃんにそんなこと言われなきゃいけないのさ。それにもう終わったことだろ」
「あーあ、そうやってまた投げ出す! もう知らないんだから」
「こっちだってもう知らない」
 姉とこんな言い合いをするのは新鮮だ。いきなり口論をしだすナカヨシコヨシだった姉弟に、両親はひどく動揺しているようだった。
 あの日以来、俺と姉はよく喧嘩をするようになった。俺の素行は姉にとっては許しがたいものらしく、しょうがないなあと見逃すことのなくなったあの日からは、毎日が口論の連続だった。まさか姉の口がこんなに悪いものだとは思ってみなかった。俺も俺で思っていたことを簡単に口に出すようになってしまったのだから、お互いにエンジンは全開だ。ロケットと共に砕けていったブレーキの回収を視野に入れるほど、日に日に悪化していっている。とはいえ、俺が「しょうがないなあ」と折れることで大抵はうまくまとまるのだが。
 こんなふうに。
「ねえねえお願ぁい、これ買ってー」
「しょうがないなあ」
 いや、違う。こんなふうじゃない。
 出してくる引き出しを間違えた。これはおそらく昨日見たドラマの……ともかくだ。
 少なくとも冗談を言いあえるほどには関係は美しく正された。
 ここ数年を振り返ってみれば大きな進歩だった。
 結川はいつか俺に「那贄くんってちょっとだけ器用になったよね」と言った。
 第三者の目からしてもそんなふうに映るらしい。いい傾向で、いい兆候だと思う。心の棘がどんどん取れて丸くなっていくのは俺としてもなによりだった。
「そういえば、亜莉。あの日は結局どこに行ってたの?」
 姉は事あるごとに俺と雨利の冒険譚を聞きたがった。
「ええ、めんどくさいな」
「MSCの民間シャトルに乗ったんでしょ? 知ってるんだから。どうやるの。どうやったの」
「ほとんど雨利がお膳立てしてくれたようなもんだから、あんまり覚えてないんだよ」
「如月駅はどうだった?」
「綺麗だった」
 二人並んで洗面所で歯を磨いていると大抵この話になる。そのたびに口の中に溜まった泡を飲みこみそうになるのでいい加減にしてほしかった。俺の気持ちもよそに姉の好奇心や興味はつきない。巷で流行りの都市伝説の詳細を知ろうと、うんざりするくらい粘着質だった。
「あっ。ブッチギった分の授業の板書は取れてるんだよね?」
「うんまあ」
「もしかして結川花ろんちゃん?」
「おそろしいことに違うんだ」
 俺が神妙な顔で言うと、姉は首を傾げていた。
 欠席した授業の分のノートを結川に写させてもらおうとしたとき「那贄の分は僕が取ってあるよ」と言ってルーズリーフを何枚か差し出してきたやつがいた。なんとびっくり、我らが男子学級委員の春飼姉多そのひとだった。
 以前俺が勝手に大恥を掻いたこともあり、わがままな苦手意識を抱いていたこともあって、ずっと避けてきた相手。春飼も春飼でずっと俺を気にしたふうに視線を遣ってくることもあったが、その悉くを俺は無視していた。そんな縁も所縁もありすぎて対処に困る相手が、まさかのまさか、俺のために二重に板書を取ってくれていたのだ。これには相当驚いた。
 あの記憶が消えないかぎり、俺は春飼とはうまくやれないと思う。
 だがこいつは善意の塊だ。
 結川とまったく同じ。哀れみなんて一切なしで、俺と関わりを持とうとしてくれる。
 その甘温さに居心地が悪くて、俺は校外学習の電車の中で、思い切って春飼に聞いてみた。
「お前はなんでそんなにいいやつなんだ?」
「そんなにいいやつじゃないよ」
 他のグループメンバーが話しこんでいるあいだにこっそりと問いかけたのだが、返ってきたのは呆れたような否定だった。気持ちを表情に滲ませることがないからわかりにくかったけど、声は心境をありありと伝えてくる。春飼のことをよく知らない俺でも呆れてることがわかるくらいにはその声には色が浮かんでいた。
 しかしだ。
 いくら学級委員とはいえ、あの対応は異例すぎる。
 先生に頼まれでもしたのだろうか。だったとしても、こんな面倒なことを引き受けるなんてこいつも変わってるな、なんて思っていたら「那贄、変わったよね」と春飼に言われた。まあ元から変わってたけど、なんて付け足されたのだから反応としてはなんだそれはだ。
「那贄だけだよ。僕の名前を聞いてお姉さんがいるのか?≠チてふってこなかったの」
「ああ……春飼姉多≠セもんな」
「大抵は聞かれるんだ。雨利に至ってはへえ、何人?≠セった」
 あいつだってわかってても腹立つな。
 あいつだってわかってるから腹立つのか?
 まだ春飼に対して後ろ暗い感情がないわけではないが、名前のことが話題に上がったあとの会話はスムーズだった。俺も俺で亜莉≠ネんて名前を頂戴しているわけだが、これには運命のいたずらが作用したという理由があるのだ。俺が生まれる前は女の子だと思っていたらしく、そのとき考えた名前の名残なのだという。そのエピソードを話せば予想以上に楽しんでくれたようで、春飼の奏でる足音はいつもよりも弾んでいた。


  


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