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「なにそれ」
「なにが?」
「全然わかんないよ。なにがしたいの? むしろ、なにか言いたいのは亜莉のほうなんじゃないの?」
「俺はまだ言っちゃだめだ」
「まだって?」
「順番があるから。今の時点じゃ、俺が優勢なんだ。ここからフィフティーフィフティーに戻すには亜羽ちゃんがなにか言わなきゃいけない」
「亜莉の言ってること、さっぱりわかんないよ」
「言って」俺は雨利の言っていたことを思い出していた。「なんでもいいから」
 目を合わせて、軽く笑って、口を開く。
 開いてみれば勝手にそんな言葉が出ていた。
 亜羽ちゃんは目を見開かせる。どこか緊張した面持ち。
 俺だって緊張していた。目を合わせるのは、本当に大変なことだった。こんなことを姉はずっとしてくれていたのかと思うとわがままに胸が痛んだ。
 姉はゆるゆると口を開けて、決して早くはない口調で言葉を紡いでいく。
「――亜莉がそんなこと思ってたなんて……知らなかった」
 最初に漏れたのはそんな言葉だった。
「今まで亜莉に、かまってばっかで。そりゃそうだよね。みんなにからかわれて泣いてた亜莉はもういなくて、亜莉だってだんだん男の子になっていくのに、私はそれに気づかなくて、ずっとずっと、しょうがないなあって。しょうがないのは私のほうだった」
 姉がそんなことを言うのに少しだけ驚いた。
 今まで俺にだけに向けていた台詞を自分に向けている。
「弟離れできないしょうがない姉。私に助けられる泣き虫な弟の幻想を、未だに抱いてる、馬鹿な人間」語尾を跳ね上げる声は湿っていた。「知らなかった。亜莉が嫌がってたなんて。傷ついてるなんて。傷つけてるなんて。私、知らなかった。知らなかったのに……」
 そこで、姉の白い頬に涙が伝う。
 次の言葉に俺は心臓を抉られた。
「ずるいよ……」
 姉は手の甲で涙を拭う。もう俺の目を見てくれなくて、その頭は垂れていた。
「嫌だって言ってくれなかったくせに、言ってくれればよかったのに、なんにも言わないで勝手に私のこと嫌って、私が全部悪いみたいに怒って。嫌だって、やめてって、そう言ってくれさえすれば……亜莉のお願いくらい、しょうがないなあって、叶えてあげられたはずなのに」
 そうだ。俺はずっとなにも言わなかった。なにも言えなくて、そのくせ一丁前に憎しみなんて抱いてる、そんな傲慢なやつだった。姉が怒るのも無理はない。姉を完全に拒絶できない、甘ったれた俺が悪かった。
 身に染みて思う。俺はきっと、姉の肋骨から生まれたのだ。俺は姉の子であり、姉は俺の女王さまだった。だから俺は今まで姉に逆らえなかった。まるでそれが世界一正しいことであるかのようになにもかもを押し殺した。でも、そんな不器用さは毒の詰まった針みたいなものだ。俺も姉も傷つくだけだから、だからもう、今日でやめる。
「――俺がからかわれたときに助けてくれる亜羽ちゃんは、かっこいいヒーローだった」
 姉の嗚咽が止まるのがわかった。
「俺はあのとき亜羽ちゃんが助けてくれるのを待っていた。ヒーローって言ったけど、俺にとって亜羽ちゃんは、本当は誰よりも姉≠セった」
 どういうふうに話せばいいのかわからない。本当にこれであっているのか不安だったけど、沈黙させるのもどうかと思い、俺は足すように言葉を続けていった。
「でもそれと同じくらい、嫌な気持ちがどこかにあった。姉に庇われるどうしようもないやつって思われるのも、亜羽ちゃんが必死になって俺を守ってくれるのも、本当に俺はしょうがないやつなんだって言われてるみたいで、憎しみとかが感情の矢面に立つようになった。嫌で嫌でたまらなくて、本当にうんざりしてたんだ」
「…………」
「でもそれを、俺は言えなかった」
 この瞬間だって躊躇いは生まれてくる。
 こんなひどいこと、言いたくない。

「好きだって気持ちもあるから、俺は言えなかった」

 愛しさ余って憎さ百倍。憎しみをいがかなければならないのは、愛しさがあるからだ。
 俺をいつも庇ってくれたヒーローは姉だったのだ。それがたまらなく嬉しかった。
 その大前提は、なにがあったって消えない。揺るぎはしない。だから全部、姉のせいにした。だって、そうだろ。姉を好きなのは、姉のせいだ。
「亜羽ちゃんになにも言えないから、俺はどんどん卑屈になっていった。亜羽ちゃんのせいにし始めたら、どんどん嫌な感情が増えていって、そしたらどんどん、本当にしょうがないやつになっていって。それも全部、あてつけみたいに、亜羽ちゃんのせいにして。でも、そっちのほうが、もっとしょうがない……って、思った」
 気づけば姉は顔を上げていた。
 透明で、光に当たればきらきらときらめくような涙を滲ませ、最後の一滴を顎へと伝わせる。頬にある筋は乾き始めていた。ちょっとだけ呆然とした顔が予想以上で口元が痒い。
「俺からは、それだけ」俺は気まずくなって首を触る。「亜羽ちゃんは他に、言いたいことない?」
 もう悲痛な表情はしていない。決していい顔色とは言えないけど、目も当てられないってほどじゃない。震えの薄れた声で姉は「えっと」と戸惑いがちに漏らす。
「なんかもう、わけがわかんないんだけど」
「そ、そっか」
「亜莉はもっと怒るもんだと思ってた」
「亜羽ちゃんこそ」
「え、そんなの無理だよ。私、亜莉に本気で怒ったことないじゃん」
「俺だってなかった」
「いや、亜莉は口に出さなかっただけで」
「でもやっと出せたんだ」俺は少しだけ肩の力を抜く。「だから、次、亜羽ちゃんの番」
 姉も肩の力をごっそり抜いて「だからなにそれ」と項垂れた。
 伏せていた頭、真っ黒な髪の毛の隙間から、数秒後、呟くような声で「ばーか」と吐かれる。
「ばーかばーか」
「……そっちこそばーか」
「真似すんなばーか」
「亜羽ちゃんこそばかしか言えないの?」
「私は亜莉のレベルに合わせてあげてるんだよ」
「なにそれ、厭味?」
「ろくに私の悪口も言えないような腰抜けにそんなこと言えんの?」
 交代交代にかけあわれる文句は今までになくてくすぐったい。そのくすぐったさが何故か気持ちよくって、俺も姉も笑ってしまった。
 声を出して笑った。
 心の底から笑った。
 久しぶりにこんなに笑って、ふと甘い香りが強く鼻孔を撫でるのがわかった。
 おや。なんてことだ。姉だけじゃなく俺の肩にまで、華やかな花弁が乗っている。姉の花咲くような笑顔につられてしまったようだ。昔はよく、二人ともそっくりねって言われたんだっけ。
 姉はぽつりと「ごめんね」と言う。俺も「ごめんね」と返して、仲直りは完了。
 俺にとってもいい姉離れになったはずだ。
 今度こそ、胸がすくように清々しく、だけど軽やかに満ちている。重くなんてない。澱みもない。雨利の問いの答えもやっと出せた。ブルーバード号の噂はまず間違いなく本物に違いない。胸のつっかえがぽろぽろと跡形もなく消えていく。

 俺はさ、本当はずっと、姉弟喧嘩がしたかったんだ。




 後日談。
 どこにでもある姉弟喧嘩という通過儀礼を見事果たした、そのあとのこと。
 翌日の火曜日から普通に学校に通った俺は、恥ずかしいような気持ちで結川の前に立った。


  


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