30


 上手く顔の向きを変えれば俺の奇声はすぐさまやんだ。もちろん落ちることは止められないから恐怖がなくなったわけではない。だが頭の中全てを恐怖が支配しているわけでも決してなくて、いくつ形容詞をつけても足りないような手におえない感情を見つけるほうが早かった。
 死に物狂いの超加速が俺に思い知らせてくる。
 抱えこんでいた矛盾にあてた麻酔は完全に切れていた。胸が苦しい。
 いまならわかる。
 きっといまなら伝えられる。
 俺がロケットに乗ることを決めたあの日、あのときに知った。決意することは一瞬だと。だったらもう、心配はいらないだろう。俺はもう恐れたりしない。
 ぐんぐんと地面が近づいてくる。そう時間も距離もない。俺たちが地べたに飲みこまれるのもすぐそこだ。
 できれば建物にだけは突っこみたくない。そんな痛い目は見たくない。
 そんな意思に従うように、体はきれいに逸れていく。
 風を浴び、ようやっと倒れこんだ久しぶりの地上は草の上だった。
 芝生とまではいかないにしろそれなりの広さのある場所に見事叩きつけられた俺たちは寝ころんだまま上がった息を整える。
 水面膨張に耐えきれなくなっていた涙はこめかみのほうを通って流れていった。
「傑作だな」
 酸素の足りていない荒い声で雨利は呟いた。
 仰いだ視界には見慣れた建物。
 俺たちが降りたったのは、事もあろうに学校の敷地内だった。
 結局あのロケットや都市伝説がデマだったのか、それとも本当に俺の願いが叶ったのかはわからない。だけどそんなことはもういっそどうでもよかった。俺がここに落ちてしまったなら、元の場所に帰ってしまったなら、もうそれが答えなんだと思う。
 ちょうどチャイムが鳴った。まるで祝福の鐘だった。
 授業終了の合図か始まりの合図か。今が何時だか正確な時間はわからない。どれだけ飛んでいたかも知らない。何駅も十何駅もドンドコ電車で通過していったのに、ここまで戻ってきてるのだから相当だったはずだ。もちろんスピードも相当だったけど。
「なあ、雨利」
 思った以上に俺の声はひどかった。
 乾いているのに潤んでいて、本当にかっこわるい。
「俺が本当にしたいこと、わかったよ」
 かさりと揺れる音がした。虹色の視線を感じる。きっと雨利が俺のほうを見たんだろう。
 俺は言葉を続ける。
「本当はずっとわかってた。でもずっとできなくて……」
 でも、やっと、やっと整理がついたんだ。
「しょうがないから、向き合ってくる」
 ちょうど見上げた位置にある、三年の教室をじっと見据えた。




 今週の月曜日はちょうど料理部が休みなのを俺は知っていた。
 そして、あんなことがあろうと、姉が放心のまま学業を疎かにし、家に帰ったり行方を眩ましたりしないことを俺は確信していた。
 ついさっき聞こえたチャイムは授業終わりのチャイムのようで、放課後のホームルームを終えた生徒が門を潜って帰路につく姿がちらほらと見えてくる。
 俺は教室に帰ることなく、三年の教室から一番近い昇降口で、姉のことを待っていた。
 数分前までは雨利もいたがあれだけの大冒険をしでかしたあとだ。いつもの調子で「シャワー浴びて寝たい」と伸びをして、下校する生徒に混じって早々に帰っていった。
 まだ妙な心地のする気だるい体を壁に凭れさせてじっと待ちかまえる。
 多分、もうそろそろ。
 もう学校を出たとは思えない、だから来るのはそろそろだ。
 下駄箱のほうを見つめていると、やはりその姿はあった。靴を履き替えて、友達と一言二言交わし、バイバイと手を振っている。
 こっちに向かってくる俯き気味な彼女に、俺は呼びかける。
「亜羽ちゃん」
 まるで信じられないものを見るような目で姉は顔を上げた。ちょっとした怯えなんかも混じっている。訝しげな表情。ほとんど無意識に「亜莉……」と呟いていた。どうしてここにいるのって。なにも言わなくてもそんな心情が読みとれる。
 今まで見たことないような顔をする姉の手を、俺は差し出されてもないのに握った。姉は目を見開く。
「ちょっと話したいんだ」
 言ってすぐに、俺は姉を連れて歩きだした。
 そう歩くわけじゃない。ただ場所を変えるだけだ。
 昇降口から少し離れた校舎の裏。放課後の時間帯なら変な理由でもない限りまず誰も通らないであろうスポットに行きつく。そこはちょうど植木の陰にもなっていて人目につかない。俺の声だって、きっと姉にしか聞こえないだろう。
「……それで、どうしたの」
 気まずそうに姉は言った。姉が俺の目を見ないのははじめてのことだった。
 きっとなにを言われるかわからない恐怖で怯えているんだろう。
 不謹慎だけどそれがどうにもおかしくて、それと同時に切なかった。なんせはじめてのことだから俺もどうしていいのかわからない。これが終わったあとどうなるのかも、予測がつかなかった。
「……言いたいことあるなら言ってほしい」
 俺の言葉に、姉は唇を噛みしめた。皮肉だと思ったのかもしれない。
「あのとき、俺が言いたい放題言っちゃったから、亜羽ちゃんなにも言い返せなかった。だから、俺に言いたいことがあるなら、今言ってよ」
 唇を噛むのはやめたけど、もっとわけのわからなそうな顔をされた。


  


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