29


「着火して十秒で発射するよ。用意はいいかい?」
 そう槇は囁いた。
 そのロケットはとても静かだった。これがもうすぐ飛びたつものとは思えない。そして俺はこれに乗るのか。これに乗って行ってしまうのか。
「あのさ」雨利が手を上げる。「ずっと思ってたんだけど」
「なんだい?」
「お前、ライターもマッチも持ってないだろ。どうやって点けんの?」
「ああ、そんなことか」
 風のそよぎよりも小さな吐息で笑った。眼鏡の奥のつぶらな瞳を爛々と俺に向け、槇は続ける。
「君の意志を燧石代わりにする」
「え? なんだって?」
 混乱する俺に「君はなんのためにここに来たんだよ」と槇は返す。
「答えなくてもいいさ――君の願いは、なんなんだい?」
 俺の脳がその言葉を咀嚼したとき、突然に導火線に火が点いた。
 バチバチッと静電気が連続で起こっているかのような音を立てて、その火はロケットの幹部へと近づいていく。
「さあ、急いで。残り八秒」
 ちょっと待て!
 俺は焦りに顔を強張らせた。
 え、もう? もう乗るのか? 本当に乗るのか? 乗っていいのか? 乗ってどうするんだ? ここを離れるのか? 違う、離れるのはここからじゃない、姉からだ。そう。姉の呪いから解放されたくて、俺はこんなところまで来たんだよ。でも、その割に、姉を傷つけたときにあんな重い気分になったのはなんでだ。っていうか重い気分になってたのか。ごまかしてただけで。俺はずっと向き合ってなかった。本当はどうなんだ。俺が本当にしたかったのは、こんなことをしてまで、離れることなのか。
「五秒前!」
 掠れがちの、それでも声の小さい彼女にしては今までで一番よく通る声音で、そう叫ぶ。
 俺は相変わらず二メートルほどの大きさしかないロケットの前で立ちつくしていた。
 泡みたいにロケットが震えている。この唸り声は地面から発せられているのだろうか。鳥肌の立つような響きだった。火花はチカチカと俺を急かす。心臓ごと急かす。今だと急かす。急かすのは火花だけじゃない。病的に小さな、なんの威力も持たなそうな声が、一丁前に俺を掻きたてるのだ。止まることはない。カウントダウンの数は、俺を脅してるみたいにどんどん小さくなっていく。消えてなくなりそうだ。でも、自分の気持ちに自信が持てなくて、こんなところまで来てやっと俺は躊躇いが出てきて、縋るための一歩が踏みだせない。
 そのとき。
「しょう、がない、やつ、だなあ!」
 若干怒りを孕んだ雨利の声が耳元でうるさく鳴った。まったく同時に腕を掴まれる。そりゃもう無理矢理の乱暴に、俺は雨利に連れ去られた。足が縺れるほど急いで、残り一秒の段階で二人してロケットに跨る。自分がどれだけちっぽけだったかを思い知らされるような青い空が視界一面に広がった。
 視界が滲んだ。
 俺はずっと、亜羽ちゃんと――――

「ゼロ!」

 一閃。
 怪獣みたいな力に体を持っていかれた。
 今まで体験したことのないほどのスピードで俺たちは打ち上げられる。
 とてつもない勢いを浴びて皮膚は剥がれそうなくらい痛い。
 四方を囲む夢の情景がぼやけるように霧散した。
 打ち上げられた体は想像を絶するスピードで、上斜め六十度に上昇を続ける。
 背後で跨る雨利が興奮した外国人のような声を上げている。おかしい。この状況でよくもまあそこまで叫べるものだ。ものすごい度胸と声量。
 一方の俺は絶叫マシン以上の恐怖に息をするのも忘れていた。震えが止まらない。全神経が張りつめられていて下から上へと迸るような冷たさ。勢いは凄まじくて鳥肌ものだ。こんなのほとんど拷問だろうが。
 体の芯が絞られるような勢いの最中。
 雲に頭を打ちつける前に、打ち上げ軌道の絶頂に達した。




――もう、しょうがないなあ、亜莉は。
 当時俺よりも少しだけ背の高かった姉の影は夕空に届きそうなほど伸びていた。
 ありんこありんことからかわれ、姉の愛情に庇われ、すっかりいじけて口の聞かなくなった俺を、落ちこんでいる可哀想な弟として姉はいつも以上に世話していた。手を繋ぎながら家に帰る俺たち二人は傍からたいそう仲のいい姉弟だったに違いない。一足早く反抗期と思春期をごちゃまぜにした微妙な時期を迎えとんだマセガキになっていた俺は、もちろんそのことにすら遺憾を覚えていたわけだけど、隣で優しい声を出す勘違いの姉がいることが、明確な拒絶のストッパーになっていた。
――なんで亜莉は泣いてばっかりいるの?
――だって……。
――あんなこと言われて嫌じゃないわけないのに。
 繋がれた手をぎゅっと握っていた俺に、姉は小さな溜息をついた。
――嫌なことは嫌って相手に伝えなきゃだめだよ。
――うん。
――じゃないと、伝わるものも伝わらないでしょ。
――そんなんでからかわれるのがなくなるとは思えないけど。
――そうかも知れないけど。
――それにあいつらになにか言う前に言われるんだから無理だよ。
――まったくこの子は!
 俺のことを叩くふりをした姉はすぐに苦笑する。眉は切なげに垂れ下がっているのに花開くほど可憐で、きっと何者にも傷つけられたことがないんだろうなと思った。傷つけたくないと思わせるなにかをこの愚図な姉は持っている。
――大丈夫。私はなにがあっても亜莉の味方だから。
 突然立ち止まった姉は俺にそう言った。
――私が亜莉のことを守ってあげる。嫌なものから全部守ってあげる。
 細い腕で力こぶを作り、意志強く歯を見せた。
 俺はそんな姉を見上げることしかできなくて黙ったままだ。
――嫌なことがあったらちゃんと私に言うんだよ。
 結局その約束を、俺は守らなかった。




 走馬灯に思いを馳せている場合じゃない。嘘だろ。信じられない。信じられないことが起きた。今すぐに槇をぶん殴りたい。本当に運命を握られてた。しかも大船どころかとんだ泥船だ。股ぐらが不安になるほどの浮遊感のあと、ロケットは跡形もなく空中分解したのだ。
 ハロー、アイザック・ニュートン。
 彼に逆らうすべなどない俺たちはいとも容易く墜落していく。
「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば」
 空気が俺に押しつぶされて、裂かれる痛みに悲鳴を上げている。
 心臓とか意識とかいろいろぶっ飛びそう。
 星にでもなったかのような気分だ。この真っ青一面の世界で、滴るような荘厳な流れ星。それこそ紛れもなく俺たちだった。
「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば」
 俺と共に絶賛落下中の雨利の目はいつも以上に鮮やかに輝いていた。唇の裏側に空気が入ってくるおかげで奇声を上げざるを得ない俺を半泣きの状態で笑っている。こいつ本気で殴りたい。でもそれどころじゃないから抱きつきたい。空から落下なんて笑えない。
 暢気な青咫畝の町並みを見下ろす。
 ほんとなんにもない。
 こんな素直な町で生きていたのか。
 こんな状況でさえなかったら感動していただろう。
 目尻から滴る塩辛いやつはそんな情緒のある感情から来ているものではなかった。


  


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