26


「――遠近法」
 彼女は呟いた。呟かれれば、話し言葉よりも小さくなってしまうのだから、聞き取るのは至難の業だった。それなのにどういうわけか確実に届く言葉に、俺は眉を曇らせた。
「なんだ?」
「言っただろう? 近からず遠からず。消失点が繋いでいる」
「なにを?」
「なにを、じゃなくて、誰を、かな」
 ミジンコのくしゃみみたいな笑いかたをするやつだった。吊り上がった口元と震える肩だけが、彼女が笑っていることの証拠だった。結川や雨利のそれに比べればてんでお粗末な代物。まるで誰にも見せたくないみたいに小さな笑い声はそよ風の幻となっていった。
「君も、この歯を見たことがあるんだろう?」
 車両内に散らばった悪意の跡に目を遣る。一つ一つは小さいのに自慢するみたいに強い輝きは相変わらず目に毒だった。それを知ってか知らずか、彼女は視線を落とすことはしない。
「知ってるかい? 歯ってね、人体で一番硬いところらしいよ。でも、私はそうは思わない。私は、人の一番硬いところはここだと思う」そう言って彼女は乳房と乳房の真ん中あたりを押さえた。「だから彼らはこんなにも大事なものを平気で手放せるんだ。白い歯を見せて笑うのは、強いっていう証拠だよ」
「俺はそうは思わない」
「そうかい」
「お前は、この歯を恨めしく思ったりしないのか? その理由を憎んだりしないのか?」
「恨めしく思わないと言えば嘘になるね。でもその理由は私自身だから、引き分けだよ」
 この歯の落とし主たちは言っていた。
 親がちょっとえらいからって。
 そんな悪意なんて歯牙にもかけない彼女は語るように言う。
「彼らが私を疎んじるのは私が父さんの娘だから? そんなことはない。ただ私自身が疎ましいからだ。いくらなんでもそこを履き違えたりはしないよ。それともなにかい? 君の目の前にはナルシストがいると言うのかな?」
 俺の目の前には彼女がいる。硬そうな髪と、ダサい眼鏡と、意味不明なロケットを持った、誰に見せても恥ずかしいような人間が。
 そのとき電車は駅に停まった。相変わらず誰も乗りあわせてこない。こんな平日こんな時間に電車を使うやつはよっぽどの悪人かよっぽどの暇人だろう。俺たちがそのどちらもに属していないのは奇遇な奇妙だった。
「私たちって、きっと心がとっても弱いんだろうね」
 突拍子もない発言は開け放たれたドアに突き抜けていくようだった。
 私たちってなんだよって言う前に、彼女は「あれ?」と言葉を続ける。
「ねえ。肩に魚の手がついてるよ。あっ、よく見ると綿毛だった」
 どういうことだよ。
 俺は確認もせずに両肩を手で払った。視界には黒い綿毛が漂っていた。




 それ以降、再び彼女に興味が出てきた雨利は、次の次の次の駅まで彼女と語らっていた。馬はそれほど合わないようで聞いてて危なげな会話のテンポではあったが、まるで語らうことが当たり前だったかのようにストレートに続けていく様はまさしく異様だった。というよりも、初対面とここまで話しこむこと自体が異様なのだ。お互い名前も知らないくせによく会話に行き詰まらないなと思う。こういう自由さは、雨利の特質なのかもしれない。
「もうすぐで完成する」
 ぽつんと――いや、擬声するとしたら、そっと、彼女は口を開いた。
「へえ」
「あとは、翼と導火線をつけて終わりだ」
 紙でできたロケットを恍惚と眺めている彼女に、俺もまた「へえ」と返す。
「少し疲れたから、眠るとする。ついたら教えてくれないか」
 返事をする間に体を横に倒す彼女は持ってきた材料や道具に埋もれていた。彼女の対面の席に横たわるロケットは微動だにしない。片方からは有るか無きかの寝息が、もう片方からは存在しないはずの原動機の胎動が漏れている。どっちも星の歌声のように響かない。静まり返った塊二つに俺は溜息をついた。
「どうしようもないやつ」
「自分に言ってるのか?」
「そんなわけないだろ」俺はもう一つ溜息をつく。「お前って本当……」
 俺はそれ以上は言わなかった。突然打ち切られた言葉は違和感だらけで、だけど続けてしまうよりはマシだと思った。
「……あんたって、いっつもそうだよな」
「……は?」
 ふとしたような雨利の呟きに、俺は素っ頓狂に返す。
「あんたはなにも言わない。心の中で変なこと考えてるだけなんだ」
「変なことってなんだよ」
「笑っちゃうようなこと」
「笑うなよ」
「笑ったんじゃない。笑わされたんだ」雨利は鮮やかに目を細めた。「笑えるぜ」
 今の雨利に妙な危機感を覚えた。
首筋を焼き切られるような熱を孕んだ視線が鋭く俺に向けられている。虹彩はネオンライトのような滲む真紅。暴くために生まれてきたような色は果てしなく恐ろしい。
「答えてくれよ、那贄亜莉。これがなすべきことだった、なんて、まだ自信を持って言えやしないんだ」
 雨利が俺の名を口にするのは初めてのことだったのかもしれない。
 だからだろうか――そのことに対しひどく鳥肌が立った。
 まるで数学者のようなことをのたまった雨利は「そう、それ」と俺を指差す。
「前にも言ったことだけど、あんたはどうにも、目が合わない」
 電車が轟かせるレールの継ぎ目が擦れる音は、忘却したかのように仕事をしない。
 車両内は静寂そのものだ。
そんな空間で、雨利の声だけが存在感を放っている。
「……そんなことない」
「あるよ。あんた、目は見るけど、合わせないんだ。それってすごく卑怯なことだよ。卑怯で、それでいて卑屈だ」
 お説教にかこつけて単に俺を罵りたいだけなんじゃないのか。そう思ったとき、あまりにも衝撃的な一言で胸ぐらを掴まれる。
「俺どころか、実の姉とすら、目を合わせたことがない」
 閃輝暗点。
 いきなり飛んできた言葉は、いままで味わったことのないような驚異の暴力で、俺の頭をぶんなぐった。
 当の雨利は両手を交互に組んで興味深そうに俺を眺めている。今自分がどんな表情をしているのか知れないけど、そんな俺にすら愉悦を抱いているのだから薄気味が悪かった。


  


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