24


 さっきまで作業に打ちこんでいた少女だ。
 ここでやっと無意識のモザイクが取れる――パッと見のイメージよりも貧相な格好をしていた。ガリガリな体型に丸まった背。瓶底みたいに分厚い重そうな眼鏡の奥に見えるのはつぶらな瞳だ。どこにでもいそうでいない、地味な女子だったが、トーマス・キャンピオンの詩に出てくるような美しい形の唇が目を引いた。姿勢が悪いせいだろう、布きれを着こんだ小人がずるずると体を引きずっているように見える。ちゃちなお化けじみた彼女は、少しだけ腰を浮かせてドアのほうを覗きこんでいた。
「すみません」
 私のです、と。紡がれる音色はまるで長い溜息のよう。
 産毛の発したような細々とした声は存外車内に響いた。ボトルを取るために足元にしゃがみこんだ少女を見て、乗車してきた三人の人間は数歩退く。
「……あれ、お前って」
 しかし、彼女の全貌を見たときに、先頭にいる青少年が口を開いた。
 三人はそれぞれ灰色のブレザーを着ていて――地元ではそれなりに有名な高校の制服だった――一律に似たり寄ったりな顔を持っている。どこか小馬鹿にしたような目で彼女を見下ろした。様子がおかしい。もしかして、知り合いなのだろうか。
「はあん。学校に来てないと思ったら、お前こんなとこでなにやってんだよ」
 後ろの二人もこそこそとなにか話している。あんまりよくない話なのは雰囲気でわかった。これでもかというほどの悪意が臭っていて、聞いてるこっちが嫌な気分になった。
「いいご身分だよな。親がちょっとえらいからってこんなのんびり生きてるなんてよ」
 少女は立ち上がった。つぶらな目は光も闇もないような目で、確実に自身を罵倒する言葉と対峙していた。華奢な体と相俟ってか、彼女がひどく小さく見える。
「しかも、なんだそれ。ボンド? お前また変なもん作ってんの?」
「変なものって?」
「授業中も休み時間もずっと一人で作ってたじゃん」
「あれだ、ほら、鳥みたいなやつとか」
「なんとか言えよ不登校」
 その発言に弾け飛ぶような爆笑が起こった。
 実際に弾け飛んだ。真珠ほどの大きさの白い歯。笑いすぎた三人の口から際限なくこぼれていく。カラコロと転がっていく音に、いよいよ不快感がにじり上がってきた。この感覚を、俺は昔味わったことがある。なにが面白いのかわからないまま、一方的に笑われるこの感覚。ナイーヴなところにまで手を出してくる下衆さも古傷をくすぐられている気分になった。
「……言っていいのかい?」
 拾いあげたボトルの蓋をさする手。彼女の手は、恥じることを知らなかった。
「は?」
「だから、なんとか言ってもいいのって聞いたんだよ」
 ほとんど囁いているような音量で、聞き取るのがやっとだった。直後に電車のドアが閉まる。こっちの音のほうがよっぽど耳に入ってくる。声帯は驚くに匹敵するほど薄弱だ。なんの意志も伝えられそうにない。その割に心を揺るがすのは、くすりと舐めるような独特の上目遣いが殊のほか威力を持っていたからだろう。
 まさかこんなお返しをもらうと思っていなかった彼らは口を開けかけては閉じ、閉じては開くという、滑稽なしぐさをいつまでも続けていた。見苦しさと痛々しさが半分半分でかなり不憫だったが流れ上は自業自得だ。雨利が鼻で笑ったのが聞いてとれた。
 しかしそれはあちら側にも聞こえていたらしい。
 俺と雨利が一連の流れをじっと見ているのに気づくと最後尾にいた男子生徒が「なんだよ」と不機嫌な顔で睨んでくる。残りの二人も俺たちのほうへと視線を向ける。こちらの対応が悪かったとはいえ謝りたくなかった。
「なに見てんだよ」
「……別に」
「絶対こっち見てただろ」
「なんだよ、文句あんのかよ」
 鬱陶しい絡みかたをしてくるやつらだと思った。
 面倒なことになったぞと体は火照っていくのに、目の前の雨利は相変わらず余裕そうでにやにやと状況を眺めている。その余裕は羨ましさに値するが、まるで他人事のようでイライラした。
 三人は三重奏のように舌打ちをする。
「なんだよはっきりしろよ」
「こっち見てたくせに。気持ち悪い」
 今にもこっちににじり寄ってきそうな彼ら。
 その彼らの横に未だ立つ、華奢な存在を思い出した。
「…………いいのか」
「は? なにが」
「だから」少女が薄く笑うのが見えた。「なんとか言ってもいいのかって聞いたんだよ」
 俺の言葉に、彼らは今度こそ沸騰でもしたのかというほど顔を赤くした。一瞬にして頭から蒸気は上がり、汽車のように勢いよく噴きだす。怒りで汽笛が鳴ったかと思えば、彼らは荒っぽく別の車両に移っていった。
「お見事」
 雨利は楽しそうに手を打ち鳴らした。リズムの悪い拍手が静かになった車両に響き渡る。
「傑作だな。お前にそんなユーモアがあったとは」
「嫌なやつらだった」
「そうか」
 苦々しく言った俺の言葉を雨利は軽く流す。
 絡まれていた少女はそのまま元の席に戻っていった。不愉快なことを言われただろうに顔色一つ変えない。重そうな眼鏡を両手で押さえなおし、回収したボトルの蓋をくるくる回して開ける。
 再び車内に平和が訪れた。
 緊張から来ていたさっきの熱はすっかり冷めてしまって、体も心もすうっと楽になる。
 その静寂のせいか――糸が布からどんどんほつれていくみたいに、いろんなことを思い出してしまう。さっきから視界をちらつく歯のエナメルが目や脳に痛かった。
 ちょうど、あんな感じだったのだ。
 俺が小さいころ、ありんことからかわれていたころは。
 思い出は劇的に、残酷に記録されてしまうものだから、実際はもっとちゃちなものなのかもしれない。でもさっき俺は確実に、あの状況と過去を重ね合わせていた。自分のことじゃないのに、自分のことのように俺を庇ってくれた、今では小さな女の子ごと。
 沈黙は金。言わぬが花。雉も鳴かずば撃たれまい。言い返す必要はなかったが、あのとき返せなかった自分の言葉を数年越しに言ってやれたような、そんな気分だった。うっすら掻いた背筋の汗にすら誇りを覚える。


  


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