22


 息を整えながら区切るように姉は続ける。
「それより、そっちこそ、なんで……学校から抜け出して、どういう、つもり? 授業はまだあるでしょ? サボるの?」
 俺は答えられなくて視線をいろんなところに漂わせたり意味のない声を漏らしたりした。
「それも、まさか」姉は後ろにいる雨利へと目を移す。「友達まで巻きこむなんて」
 心外だこいつが勝手についてきただけなのに、なんて、いつもなら言えたかもしれない。でも俺は姉のいきなりの登場に軽いパニックを起こしていた。溶け落ちていくように頭が真っ白になる。
 そんな俺に、雨利は弁明するように手を上げた。
「巻きこまれるわけじゃないんで安心してください。あんたの弟は無実だ」
 余裕たっぷりの発言に姉は顔を顰める。俺と雨利を見比べて、結局わけがわからなくなったのか振り切るように「それより」と強く叫んだ。
「こんなこと、よくないよ。早く学校に戻ろう。先生になら私も一緒に謝ってあげるから」
 姉は俺の手を掴む。一気に纏わりついたその感触に、ぶわっと感情が高ぶった。
 あ、いやだ。
 急にズキズキと喉が痛み出す。
 抑えつけても次から次へとズキズキは生まれて、吐き出してやろうって舌に飛び乗る。
 俺は空いていた片手で口元を塞ぐ。
 姉がさらに詰め寄った。
「こ、後輩から聞いたの。亜莉、いままで黙ってたみたいだけど、クラスに上手く馴染めてないんだよね?」
 吐き気にも似ていた。内臓の質量が百倍に膨れたみたいだ。重い。もう、姉の顔も、まともに見れない。自分の眉間が澱んでいくのがわかる。
 俺に寸分もおかまいなしな姉は、まだ言葉を続けようとする。
「だから、だからこんなことしてるの? そんなに嫌なの? つらいかもしれないけど、こんなのはだめだよ。どうすればいいのか、一緒に考えよ?」
「……め、て」
「なにがあったかはわからないけど、私に話してみてよ。ね!」少しだけ強張った笑顔で俺に言う。「大丈夫、大丈夫だから! 亜莉のことは、私が守るから! なにがあっても、私は亜莉の味方だから!」

「もうやめろ!」

 喉から破裂した俺の叫びは狭い駅舎に反響した。
 姉は目を見開いたまま硬直している。呆然として、なにを言われたのか、なにが起こっているのかわかっていないような目。まっすぐで、俺の同調を疑わない。俺はずっと前から離れてたのに。とっくの昔に耐えられなくなっていたのに。
 それを訴えるように、ずっと溜めてきたものをぶちまける。

「味方でなんて、いなくていい。もういやだ、もううんざりなんだ! そんなふうにかまわれるのももう耐えられない。なんでこんなことするのかってわかんないのか! 嫌だからだよ! 亜羽ちゃんといるのが嫌だからだ! ずっと! 姉貴風吹かせて守られるのも、許されるのも、全部全部嫌だった! これ以上亜羽ちゃんのせいで、しょうがないやつになんてなりたくないんだよ!」

――この姉は、いじめられっ子だった少年が大きくなり、なにかあるとすぐにでもささくれだってしまう危なげな思春期を迎えているということを、わかっていないのだ。
 もうどんな優しさも、愛情も、庇護も、保護も、俺にとっては迷惑でしかない。
「……嫌なんだよ」
 俺はすっかり緩くなった手を振りほどいて、改札に切符を通す。
 姉は途方もない顔で立ちつくしたままだった。
 その表情に気が重くなって、振り返らないようにホームへと向かう。雨利は俺の手を引いて閉まりかけていた電車のドアに滑りこむように雪崩れた。無機質なマーチが間際に流れる。完全にドアが閉まったあと、電車はゆっくりと発進した。
 俺と雨利は窓際の向かい合った席に座る。
 生まれてはじめて酷使した喉と腹が熱のせいで乾いている。緩むことを知らない顔の筋肉はずっと強張っていた。まだ手にあのしがらみのような温度が残っている。とれない。背凭れに体を預けてみると頭がぼんやりしていることがわかった。ガスの抜けた風船みたいだ。苦しくないはずなのに、力が入らない。いっそ重くて、感情が喉を痛めないのがなんとなく心を騒がせた。
「…………ぷっ」
 向かいに座ったまま黙りこんでいた雨利が急に噴きだす。
 小刻みに体を震わせていて、どうやら笑いをこらえているらしい。
「ぶ、ふふっ、ふははははははっ!」
 前言撤回。
 こらえてない。
 俺が訝しむのも気にせずにげらげら笑う雨利は足までばたつかせていた。乗客が俺たちしかいないから許されるものを、マナーとしては最悪だ。
「あは、はっ、はははははは!」
「……なんなんだお前は」
「いや、ひひっ、あ、あんたのほうがなんなんだよ」
 うっすらと出た涙を拭きながら雨利は俺を見る。しばらく口元を震わせていたが、また弾かれたように噴きだした。もうこいつ嫌だ。
「いや、いやいやいや、だってあんた……」
「ん?」
「亜羽ちゃんって」によによと不愉快に顔を歪める。「あんた、自分の姉ちゃんのこと、亜羽ちゃんって呼んでんの?」
 俺はぱっと口元を隠した。
 その反応にさらに肩を震わせる。
「あの、いや、これは、ずっと両親が亜羽ちゃんって呼んでたから俺にも伝染っただけで。あっちもあっちでお姉ちゃん呼びを強要しなかったし」
「あーはいはいわかったわかった」
「いや、わかってないから。説明させてくれ」
「わかったって。そっかー、そりゃそうだよな。自分の名前呼んでついてくる弟を可愛がらないわけがないよな」
 罪な男だ、と言った。俯き気味に笑うおかげで雨利の顔は見えなかった。気が済んだのか吐息したころには、再び見えたモノクロの顔はいつものような軽薄さを湛えていた。
 ガタンガタンと、電車が揺れる。
 とんでもない速さで移り変わる景色に、すぐ遠くの流れていく景色。真っ昼間の月は太陽のすぐそばにあった。いつもとは違うように感じる田舎の風景を二人で眺める。


  


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