21


 結川花ろん。こいつは、みんなが慕うようなやつで、優しくて、俺なんかにはもったいない、角砂糖みたいな人間なのだ。新しく始まった春のころ、俺みたいな不愛想なやつに健気に話しかけてくれたおひとよしで。もし結川が優しさ≠ナ友達をやってくれていたのだとしたら――だとしても、悲しさを隠して許してしまえるくらい、これからもよろしくと本心で言えるくらい、俺はこいつが好きだった。
「…………なんで結川は、こんなしょうがないやつと友達でいてくれるんだ?」
 口から出てしまった瞬間、春飼のときと同じ間違いを犯すんじゃないかと思ったが、結川はへらりと苦笑するだけだった。
「しょうがなくなんかないよ、ちょっと不器用なだけ」
「不器用って」
「かわいく言えばドジ、かっこよく言えば不器用」
「どっちもダサいことに変わりはないな……」
「かっこいいよ」言い聞かせるみたいに結川は言う。「那贄くんは、ダサくなんかないよ」
 彼女はきらめいていた。柄にもなく、なにか神聖なものを見ているような気分になった。真っ白いベールに包まれてるみたいな心地に、こいつは本当にすごいと確信する。
 数秒遅れで、結川は、さっき俺が投げかけた質問に答えるみたいに、言葉を紡いだ。
「一学期の最初、席が隣になったこと覚えてる? あのときはまだ、あんまり話したことなかったよね。ちょうど委員を決めてるときで、でも女子の学級委員だけなかなか決まらなかったの。学級委員って、リーダーシップのとれる人気者かクラス一の秀才がなるって、相場が決まってるでしょ? でも、うちには、そんな頼りがいのある女の子もまさしくこのひとって秀才もいなかった。だから、私に白羽の矢が立った。クラスの女子のなかでちょっと目立つくらいの普通の私が。本当はやりたくなかったのに……あっという間におだて上げられて、自信もないのにそういう空気になったとき、隣に座ってた那贄くんが、ひっそり声で言ってくれたの。嫌なら嫌って言えばいいんだよって」
 そのときの俺は、きっと善意なんてなかったんだと思う。ただ、いつの間にかそういう役に添えられていた結川に同情して、そしてほんの少し、ムカついていたんだと思う。
「嬉しかった」
 そんなこと、結川にはお見通しなのかもしれない。
でも結川は――本当に嬉しそうにきらきらと微笑んだ。
「それから君は、私の特別だよ」
 嬉しいのは、俺のほうだ。これ以上ないくらいのエールを貰った。できることなら持っていきたいくらいだった。自分の中でせっせと蓄えておいた思いがこぼれていく。
「――じゃあ、行ってくる」
「うん」
 結川はにこっとかわいらしく笑った。
 俺たちはどちらが先ともわからず手を離す。
 カバンを肩に下げたが教室を飛び出すまで結川は俺に手を振ってくれていた。
 廊下に出ると雨利が背中を押して俺を急かす。跳ね上がるような声で「ちょっとばかし時間が押してる。走っていくぞ」と促した。




 移動している生徒にまぎれるように小走る。階段を下りて下駄箱まで急ぎ、靴を履き替えた。職員室や三年の教室のある校舎から丸見えの立地だったが、昇降口を出るのには困らなかった。目立たないようにするのは流石に無理だろうから、ひたすらに走って学校を出る。運良く教師に遭遇することもなかったので、考えていたよりもスムーズに脱出できた。
「電車は何時何分発?」
「午後一時四十四分」
「間に合うのか?」
「間に合わせんだろが」
 カバンに入れた荷物が重くて走るたびに肩にめりこんで悲鳴を上げる。中で暴れているのか音が響いていた。
 努力の甲斐あって発車五分ほど前に到着した弥生(やよい)駅は、岩石の塊かと疑うほど古くて小さかった。真っ暗な地面にぽつんと立つ様は小惑星さながらだ。独特の雰囲気は、北窓から漏れる風の光。泥まみれの山の微笑み。時間が時間だけに駅舎は静かで俺たち以外に誰もない。すぐそばの堀から温んだ水の音だけが聞こえていた。
「俺、電車に乗るの初めてかも」
「そうなの?」
「通学だって徒歩だし」
「俺は定期も金もあるけど、あんたは大丈夫なのか?」
「うん、まあ、貯金がある」
 そう言うと俺はカバンを下ろし、荷物の幅と重量の大いなる原因となっていた透明なブタの貯金箱を出した。ギラギラと輝く貨幣の塊を見て、雨利は「うわっ」と興醒めしたような表情をする。
「なにこれ」
「だから貯金」
「虫歯くっさ」鼻をつまみながら雨利は払いのけるようなジェスチャーをした。「足りるかどうか、ちゃんと計算しとけよ」
 結論から言うと、その貯金は切符代ぴったりだった。
 屈辱で得たその不愉快なお金がきれいに紙切れ一枚と交換されるのはちょっとないくらい爽快だ。貨幣枚数は半端じゃなかったので勘定口に入れるときは苦労したが。
 雨利が券売機で切符を買っているあいだ、ぼんやりと駅舎の外を眺め見る。
「…………はぁ?」
 心臓が跳ねる前に目を疑った。
 捉えた人影は小さくて、だけど懸命に走ってきているのがわかる。手荷物はなにもなく身一つで、どことなく疲れている様子だった。
 呆然とする。嘘だよな。見間違い、人違いだよな。心の中で呟くけど、近づいてくるその姿は十年以上そばにあり続けた見慣れた形をしている。
 鳩尾を打たれたみたいに声が出ない。一瞬で手は冷えて汗を掻きはじめる。足の甲は見事に釘を刺されたようで動いてくれなかった。ただ、もう目の前にいる呪いの元凶を、これでもかと刮目させられる。
「亜莉っ!」
 亜羽ちゃん。
 髪を振り乱しながら俺の前に立った姉は、怒りとか疑問とかを綯い交ぜにしたような表情で俺を見上げる。肩で息をしているところを見るにここまで走ってきたのだろう。
顎に伝う汗を拭う姉に「なんで」とか細い声を漏らした。
「偶然、教室から見えたの。亜莉が、学校から出る、ところっ」
 ああそうだ。学校から出るための道のりは途中、職員室や三年の教室のある校舎から丸見えなんだった。たまたま窓際にいた姉がカバンを持って帰ろうとする俺の姿を見て不審に思うのも無理はない。


  


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