19


「おい」
 確かめたいが、顔を上げたくない。臆病なまま、俺は押し黙る。
「おいっつってんだろ」
 そんな俺の頭を雨利は鷲掴んだ。頭頂部が引き絞られているみたいだった。自然と出た呻き声のあとに「わかってるくせに」という言葉が降りてくる。ちょっとだけ顔を上げた。口元は腕の内側に押しこめたまま、前髪で目元が見えない程度に雨利を見遣る。
「なに?」
「無視すんな」
「してない」
「さっきした。しかも俺って気づいてただろ」
 横座りする雨利の態度は尊大だった。足を組んで、俺の机に肘を置いている。
 置いていた肘を浮かせておもむろに俺の前髪をめくりあげた。
「泣くな」
「泣くか」
「目が赤いぞ」
「お前の真似」
「へったくそ」
 怒りで充血した眼に、雨利は呆れていた。姉が俺に向けるようなのじゃなくて、もっと乾いたもの。優しくはないけどそっちのほうが今は好ましい。
 俺がすごすごと体を起こしていくと「ヤマタノオロチが目覚めたぞ」と真顔で茶化してきた。
 見るのが嫌だったので視線を移すことはできなかったが、どうやら姉は帰ったようだった。談笑していた女子が花粉みたいに散らばっていく。
 雨利は両腕を組んで俺に向き直った。
「誰が思うだろうな」意味ありげに笑う。「さっきこの教室で、殺人事件があったなんて」
 精神的にズタボロった俺はなにも返せずに黙りこんだ。
「安心しろ。死体なら俺が拾ってやる」
 雨利はちらりと廊下側のほうを見た。さっきまでいた俺の姉でも探しているのだろうか。
 あっちを向いたままで雨莉は言う。
「人のよさそうな姉ちゃんだったな」
「よく言われる」
「イメージと違った。もっと馬鹿そうだと思ってたのに、そうでもないんだな」
「母さんが満足するくらいには頭がいいよ。それがなんだ?」
「あんたもしかして言ってないの? 学校じゃあ友達一人いない可哀想なやつですって」
「一人はいるし」
 そう言い返せば鼻で笑われた。
 芋蔓式に思い出す。さっき話題にもされていたように、もし結川が優しさ≠ナ友達をやってくれていたのだとしたら――考えただけで肝が冷えた。そうでないことを願いたい。
「ま。そう機嫌悪くすんなよ。今のあんたの顔すごいぞ。誰かに見せられたもんじゃない。目撃者が俺でよかったな」
「馬鹿にしてる?」
「そうあたるなよ」
 血管がむくむくと膨れあがっていくのを感じながら、俺は眉を顰めた。
 だいたい、こいつはなにをしに来たんだ。今日は目も合わなかったのに本当にいきなりだった。ただ話をしに来たわけではないのはなんとなくわかる。慰めているようにも見えるがどこか軽薄なのはその理由に因るからか。自由なのは相変わらずだ。俺にとってはそれが馬鹿馬鹿しくもあり、同時に少し羨ましい。でも俺はこいつみたいになれないから、こうやっていじけてひねくれることしかできなかった。
 やるせなくて、嫌な気持ちが蔓延して、睨みつける視神経は腐った性根に引きずられていくかのように暗んでいった。
 そんな俺に雨利は、威迫にも似た微笑みで柔らかに問う。
「迷いはなくなった?」
――ふとしたときに、思う。
 那贄亜羽がお姉ちゃんじゃなかったら、そもそも存在しなかったら、俺はこんな人間にならなくて済んだんじゃないのかって。
 過剰に与えられた保護も囁かれ続けた呪いもなにもない、卑屈や屈辱なんかよりもよっぽど健全な心を持った人生を歩めたんじゃないのかって。
 踏み出せないことに雨利は気づいていた。俺の躊躇いを悟って、そのうえでなにも言わないでいたのだ。
 でも、もう、俺は直感してしまった。
 雨利の一言が引き金だった。諦めるみたいに心が叫ぶのだ。
 かつてない感情が支配する。ちょっと愉快だ。不思議と不安はない。あるのは自信。失くしかけていた、そして今一度、無理矢理に奪いとった自尊心。
「俺、行ってくる」
 言い切った。これでいいと思えた。
 亜羽ちゃんから離れてくる。もう二度と帰らない。しょうがなくないやつになるんだ。
「そっか」
 どこか楽しむような雨利の声は肯定でも否定でもない。
 チャイムが鳴った。四時間目が始まる。この授業を乗り越えれば昼休みだ。
 雨利は席を立つ。俺のほうを向いて手を振った。
「じゃあ昼休みにな」
「待て」
 聞き過ごせなかった。俺は目を眇める。
「どういうことだ?」
「そのまんまの意味だよ」なんでもないように言う。「俺も行く。言ってなかったっけ?」
「言ってない!」
 俺が叫ぶとどこかで爆発が起こる。少し離れたところで席に戻ろうとしていた結川だった。急に大声を出したからびっくりしたのだろう。俺は結川と雨利とできょろきょろ視線を彷徨わせ、最終的には雨利に戻る。
「なんでだよ」
 責めるように言った。
「なんでも。いいじゃん別に。仲良くしようぜ」
「笑えないって。絶対置いてくからな」
「置いてくだって? 何時の電車かもわからないくせに」
 そこで俺はハッとなった。
 そうだ。金曜日のあのとき、雨利はお昼ごろ≠ニ濁すように言っていたのだ。民間ロケットのある駅に辿り着くための電車を俺は知らない。もっと言うと、俺は生まれてこのかた徒歩通学しか経験したことがないのだ。電車に乗りなれていないため、今回のアクションには不安があった。
「まさか……はめたのか?」
「そりゃ疑いすぎってやつだよ。人聞き悪いな」
 悪いもなにも、その飄々とした態度が疑惑を増長させるのだ。俺もそうだけど、こいつも身の振りかたを考えてみるべきだと思う。人に振り見て我が振り直せ。こいつに言ってやりたいことは常々たくさんあった。


  


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