18


 周りはほとんどが自分の席についている。こんなことは滅多にない。耳に入ってくる会話を分析するに、次の数学の課題をまだ終わらせていない生徒が必至こいて友人から写させてもらっているようだった。まだ余裕があるとはいえ、休憩時間は十分しかない。大勢の人間は自分の利き腕が攣ることも厭わずに猛スピードでシャーペンを走らせていた。
 課題なんぞとっくに済ませていた女子グループは、教室のドアの付近で談笑している。どうやら教室の外にクラス外の友達がいるらしく、姦しい声は賑やかだった。
「えー、じゃあ次に作るのは生キャラメルですかー」作る? なんの話だ。「きゃっ、おいしそう」「っていうかそんなもの作れるの?」「キャラメル溶かすだけでいいとか?」そんなわけないだろ。「そんなわけないじゃん!」ほら。「どうせならいろんな味の作りたいよね。塩とかチョコレートとか」「チョコレートキャラメルって絶対おいしい!」「ああもう絶対かわいい」なにがかわいいんだ。「羨ましいなあ。女バスに差し入れしにきてよ」「だーめー」「うわ、けっちいなあ。女バスと料理部って場所近いのに!」ああ、料理部の女子か。「まあまあ、蜂蜜レモン作ったときは持っていくからさー」「ねえ先輩、来週は蜂蜜レモンとかどうです?」は? 先輩?
「そうだね。顧問の先生に聞いてみるよ」
 その声に、心臓が縮んだ。
 もちろんそれは錯覚だったけど、まだ麻痺したような感覚は残っている。
 机に突っ伏したままだったから顔はよくわからないけど、聞き間違えるはずがない。
 姉がいる。
 俺のクラスの教室の前に、姉がいるのだ。
 バリアを張るみたいに息を潜める。なるべく気づかれないように、元々動いていなかった体をさらに停止させた。もうこのまま寝たふりを極めこむのもいいだろう。こんなに気まずいのは初めてだった。
 なんやかんやで、今まで姉が俺の教室に来ることはなかった。というより、普通に生活していたら兄弟姉妹のクラスに訪れるようなことはまず起こらないのだ。だから俺たちも例に漏れず、互いのクラスに干渉するようなことはなかった。俺は姉が何組かも知らない。姉も似たようなものだと思う。
 だからこそ、こういうことが起こったのだろう。多分クラブ活動のことで後輩と話をするためにこの教室に足を運んだのだ。女子と楽しげに談笑している声がそれを物語っている。
 だったらそのままでいてくれ。どうぞ俺に気づかないでくれ。
 学校ではなるべく姉と関わりを持ちたくない俺は、ただ姉が去ることだけを祈った。
 しかしだ。
「――あ。え? あ、もしかして」
 姉の、ちょっと驚きを含んだ、そして嬉しそうな声が耳に届いた。
 会話の流れを無視した呟き。
 嫌な予感にじわじわと体温が上がっていく。
「先輩?」
「あ、うん、ごめん。弟がいたから」
「弟……ってもしかして、那贄くんのことですかっ?」
「そうだよー。このクラスだったんだ」
「そっかあ、そっかあ、名字一緒だなあとは思ってたんですけど、まさか先輩の弟だったとは!」
「あんまり似てないですね」
「あはは、そうかなあ? 昔は、笑った様子がよく似てるって言われてたんだけど」
 自分のいないところで自分の話をされているというのは、ひどく居心地が悪い。重いなんてものじゃなかった。些細な言葉が胸を突く。笑い声が全部、自分に向けられているかのように感じる。狸寝入りなんかやめて、耳を塞いでしまいたい。会話の流れが、あまり好ましくない、嫌な方向に向かっていくのがわかる。
「え、那贄くん笑うんですか? 見たことなーい」
「そうなの?」
「まあ、あんまり話さないからわかんないんですけど」
「今だってああやって寝てるし、いっつも不愛想だし」
 女子の声はどこか高慢ちきだった。
 俺は不快感に拳を握る。
「あ、でも花ろんちゃんとはしゃべってるみたいだね」
「花ろんちゃん優しいから」
 優しいから、なんなんだ。
 追及してやりたいのに、そんなことできない。あの集団が怖くて仕方がなかった。槍玉に挙げられているような感覚。生身は傷ついていないのに話題の中心の俺は杭で打ちつけられていた。
 姉がいるってだけで、空気みたいだった個体が特別な力を持つ。ドア側のほうの体がビリビリと疼いていた。もう教室のどんな雑音も耳に入らなくなる。
「そうなの、あの子ったら不愛想で。昔っからよくからかわれてたせいなのかなあ。でもね、悪い子じゃないんだよ。かわいところもあるし」
「那贄くんが?」
「本当だよ。だからまあ許してやって」
 他人の過去を勝手に暴露しておいて、まるで俺を庇うみたいに姉は苦笑を浮かべる。
 許してやってって、何様のつもりなんだろう。恩着せがましくて押しつけがましい。
 昔からこうだった。
 亜莉を傷つけないで、悪く言わないで。自分がどれだけ残酷なことをしているのか知りもしないで、勝手に俺を守った気になっているのだ。姉だからって。俺をどうしようもない存在なのだと思い知らせる。
「あっ、でもこの前、先生に叱られててもずっと仏頂面でしたよぉ」
「嘘でしょ! なにそれー、もう」
 姉の呆れるような、それでいて慈しむような、俺の神経を逆撫でる声が、聞こえてくる。
――もう、本当に――なんて。
 ああ、やめろ。お願いだから言うな。今だけは許してくれ。こんな、こんなところで言わなくたっていいじゃないか。焦燥。彼女がかわいがってる後輩はもちろん、興味を持ったクラスメイトも、みんなが聞いているような気がした。心臓がうるさい。その瞬間が来ないことをなによりも祈っていた。今すぐどこかに隔離してしまいたい。時間なんて止まればいい。いやだ。やめてくれ。やめてほしいのに。
 俺の気持ちなんて知りもしないで、たおやかな暴虐を彼女は振るう。

「しょうがないなあ、亜莉は」

 身体の中心を真下から貫くみたいに怒りが疼きはじめる。胸の奥が赤黒いもので騒がしい。鎮めようとしてもいろんな穴から漏れだしてしまいそうだった。苦しい。呼吸が震えた。瞳孔のあたりがマグマみたいに熱かった。あまりの悔しさに喉が痛い。
 未だに暢気に笑ってる、毒みたいな声が届いてくる。えー、那贄くんの名前って亜莉っていうんですかー。かわいい。亜莉くんだって、って。ふざけるな。冗談だろ。昔みたいな。からかうような。名前を、知られた。その口で。結川にだって呼ばせたことないのに。
 折りたたんでいた両腕の肘を抱きしめあう。
 処刑された罪人の気分だ。俺は悪くないのに。火炙りにされて、心の中で悲鳴を上げることしかできない。手拍子で囃した当の本人たちは新しい話題を取り入れることで俺のことを会話から葬り去る。だけど、一度火を起こされたものは燃焼しきるまで消えることはない。針の筵みたいなこの場所で、俺は静かに焼かれていた。
 誰かが座ったのか、空いていた前の席がガタリと揺れる。
 結川が戻ったのかと思ったがどうやらそうじゃない。
「おい」
 つい最近聞き慣れた声だったが確信がなかった。


  


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