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「なんかそんなかんじの話、最近した覚えある」
「は? 聞いたことあったのかよ。しゃべり損じゃん」
「そうじゃなくて。都市伝説じゃないほうのMSCの話。シャトルに手紙乗せて打ち上げるってやつ」
 雨利は思い出したように「ああ」と呟いた。
「あれって願いごと関係あるか? むしろ誰が読むんだよ」
「月の神様がいま一番有力。読んだら叶えてくれるんじゃない?」
「七夕じゃあるまいし」
 ちなみに七夕も神様は関係ない。短冊のシステムを正確に把握してるわけじゃないけど。
 にしても、なんか拍子抜け。
 俺が内心で怖がっていたようななにかは起きなかった。都市伝説も、周りが騒ぎたてるほどじゃない。願いを叶えるなんてよく聞く話。それこそ本当にMSCのシャトルに手紙を乗せてもらえばいい。短冊と同じ要領で素直に書けば、もしかしたら。
――那贄くんならなんて書くの?
 俺の願いは、姉から離れることだった。
 ふとしたときに思う。那贄亜羽がお姉ちゃんじゃなかったら、そもそも存在しなかったら、俺はこんな人間にならなくて済んだんじゃないのかって。過剰に与えられた保護も囁かれ続けた呪いもなにもない、卑屈や屈辱なんかよりもよっぽど健全な心を持った人生を歩めたんじゃないのかって。
 だけど、呪いを浴びなかった今日でさえ、とんだ失態を晒してしまった。きっともうどうしようもない。離れるだけじゃ、足りないのだ。
 そもそも、離れるってあやふやすぎる。
 姉が弟離れする、くらいで俺は考えてたけど、家族なんだし同じ家に住んでいることは変わらない。これってあまり意味がないんじゃないのか。
 だとしたらもっと物理的に離れる必要がある。距離を。
 願懸けするくらいならいっそどこかへとぶっ飛んじゃったほうがよっぽど――――あ。

「そのロケットに乗ればいいんだ」

 カチって。
 嵌る音。頭の中で。収まった瞬間電気が走って、よぎった考えに心臓が沸騰した。
 いきなり呟いた俺に雨利は振り返る。文字通り、目の色を変えていた。なに言ってんだこいつって顔で俺を見ている。苛立ちは全然湧いてこない。それ以上にせり上がってくる熱をきっと雨利は知らない。
 願いが叶うとか叶わないとか、そんな魔力みたいなものは信じなくてもいい。どっちにしろ俺の本懐は遂げられる。どこへなりとて飛ばしてくれ。大気圏を越えて、太陽系を抜けて、小さな世界にいた弱者が世界の広さを知るのも悪くない。この胸の腐敗を止められるのなら、真空でだって生きられる。
 今まで先延ばしにされていたものの存在に慄く。俺はどれだけおあずけを食らっていたんだろう。それを俺に伝えたのがこの雨利鏡麻だというのだから、俺の本能もあながち間違っちゃいない。
「雨利。その一週間に一本しかない電車って、いつ出るんだ?」
「え? 月曜の……昼ごろだった」
 月曜か。今日は金曜だから、土日を挟んだ来週の月曜日がちょどいい。
 徒歩通学だから定期券はない。だけど、お金にあてはある。
 これはきっとチャンスだ。しょうがない俺の、しょうがない俺による、しょうがない俺のための。ならば逃すわけにはいかない。いつの間にか躍動している心臓に逆らうような野暮なことなど考えなくてもいい。
「ちょっと待て」
「待つどころかさっきから歩いてないよ」
「そうじゃない。あんたなんか変なこと考えてない?」
「考えてるだけじゃない。やるんだよ」
 雨利は驚いたように表情を変えた。
 あくまで都市伝説だろって、そんなことは百も承知だ。でも俺は確かに見たのだ。空に煙の飛沫を上げて、栄光の輝きが空へ突き抜けていくのを。あの奮い立つような音を、響きを、ただ呆然と感じたのだ。
「それともお前も馬鹿げてるって思うのか?」
「思わないよ」
 予想外にも、雨利は即答した。本当に口を開いたかわからないほどだった。
 何故そうも迷いなく言えるのかわからない。俺にはそう見えるだけで本当は揺らいでいるのかもしれないが、だとしても確信的な口調だった。呆けている俺に、やつは「俺も見たから」と涼やかな呟きを注ぐ。
「俺も見たから」
 そう反復したあと、雨利はまた歩き出す。教室のドアの前まであと少しだった。俺もそれに続き、ほかの教室の授業の邪魔にならないよう足音を立てずに早歩きした。
「あ、でも、その時間にどうやって学校抜け出そう」
 俺がぽつんと呟くと、雨利は笑った。後を引かない笑い声は響くことはなく、放り投げられた感覚に似ていた。
「俺の尊敬するチャールズ・チャップリンの名言をあんたにも教えてやろう。あんたも見たかもな。ちょうどテレビでやってたんだ」
 幻聴と同じ音量。俺には想像もできないようなことを、雨利は言ってみせた。
「いいかい、もし、良いと思ったら、どうやろうかなどと決して心配するな。つまり直感だよ」




 結局そのあと教室に戻れば先生から冷淡なお叱りを受けた。長い時間立たされたとか激烈な暴言を吐かれたとかそういう類のものではなく、三分間ほどの、自分の身の振りかたなどについてよく考えてみろという、諭しの言葉だった。席につくときに結川の心配げな顔がじっくりと俺を追っていたがあれやこれやと深入りされることはなかった。ただ一言だけなにかあったの?≠ニいう優しさに、劣等感から答えることができなかったのは少しつらかった。春飼もなにか話したげにしていたけどなるべく無視をして一日をやり過ごした。頭の中は月曜日のことでいっぱいだった。
 その土日はもっといっぱいになった。いっぱいになりすぎてぶつぶつ口から溢れてしまったほどだった。運よく姉に聞かれることはなかったが、父親に頭の心配をされてしまった。それでも考え続けた俺は、ひらめきを摩擦しすぎたせいだろうか、熱で凝固した決意が揺らいでいった。月曜日にしでかすことを考えれば考えるほど、本当にそこまでするほどのことかろ自信を失っていくのだ。もう姉にはうんざりだろう、いやいやそれでもそんな突飛なものに縋るなんて馬鹿げてる、でも。そんなスパイラルに呑みこまれてしまえば寝る時間以外のほとんどを思考にあてなければいけなくなった。浮いては沈み、沈んでは浮く意欲。そうこうしている間に日曜の夜がきて、月曜日は目の前だ。
 そこで俺が考えたのは、直感に頼る、ということだった。
 どうせこんな突拍子もないことを企んだのも直感だったのだ。やるかやらないか。明日直感で決めてしまえばいい。幸運なことに件の電車は昼に出る。朝早急に準備をしなければならないということはない。とりあえず準備だけはしておいて、そのときの気分に任せてみるのもありだ。
 そして月曜日の朝。
 教室に入ると、珍しいことに結川が眠っていた。今までそんなことなかったおかげでけっこう驚いてしまった。思わず近づいて、まじまじと顔を覗きこんでしまう。


  


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