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「始まってればいいよ」
「お前戻んないのか? 早く帰んないと戻りにくくなるぞ」
「わかってる。ちゃんと教室には行くつもり」
 そう。衝動的に走り出してしまっただけで、別にこれから逃亡しようとか、そんなことは微塵も思っていない。ただ嫌になったのだ。自分が。呪いが。間接的に、那贄亜羽が。
「んー。まあわかるぜ? わかんないけど。すっごい恥ずかしいし死にたいよな。聞いてるこっちが恥ずかしかったもんよ。恥ずかしすぎて真っ赤になるところだった。お前ある意味すごいよ本当」
 ぽん、ぽん。二回だけ、軽く頭を撫でられる。
 雨利の表情は緩かった。隠しきれないにやけ顔。慰められてる気にもならない。腹立たしさにその手を拒む。雨利は拒まれるままに手を下ろした。
 こいつはさっきの俺を見てなにか思わなかったのだろうか。春飼みたく、厭らしさだとかそういう類のものを、俺に見出したりしなかったのだろうか。一貫して態度が変わらないのだからそういうことなのだと思っておく。こいつの自由さに少しだけ救われた。
「……俺ってさ」
「ん?」
「俺って、ものすごく、しょうがないやつなんだ」
「知ってる」
 俺は顔を顰めた。まさか即答されるとは思ってなかったのだ。
 こいつの性格は理解しているつもりだったけど、おかしい、俺と雨利は話すようになってそう経ってもいないのに。この慇懃な態度はどこから来るんだろう。考えなしにも見える言動や行動は見事に俺を掻き乱した。
「知ってるのか」
「当たり前だろ。っていうか、大小の差はあるだろうけど、だいたいのやつからしてみれば、お前は大概しょうがないやつだよ」
「傷ついた」
「舐めときゃなおる」
 イラッときたので俺は雨利の耳を鷲掴んで思いっきり引っぱった。しゃがんでいたせいで重心を崩された雨利は俺の膝へと雪崩れこんでくる。壁に手をついてバランスを取ったが顎は思いっきり膝打ちを食らっていた。
「なんだハグされたいのか。そんなに慰められたいのか」
「うるさい黙れ」
「自分で振っといて勝手に傷ついてりゃ世話ないぜ。わかってんじゃん。どうしようもないやつだって。俺からしてみればお前は閉じこもってるやつ。前にも言った」
「言われた」
「ならわざわざ聞くなって。余計に傷つくのはそっちなんだから」
 これは正論だ。かなり失礼な気がするけど、失礼で返さなきゃいけないように、俺がしたのだ。もう自分に呆れるしかない。でも自己防衛のために荒んでいくばかりで悪循環だ。
「ちょっと推理してみたんだ。あれから」
「は?」
「繰り返しになるけど、お前がそんなになる原因」
 それは、いつか朝に言っていたことだった。
 雨利は体勢を立て直して、いっそ地べたに座りこむ。だらしなく胡坐を掻いているのに放漫に見えないのが不思議だった。
「那贄亜羽が、そんなに怖いか」
 驚く。姉の名前を知っていることにも、その発言にも。
 けど、俺が抱くのは恐怖心じゃない。そう言いかえそうとした矢先に雨利は「おっと」と俺の口元に人差し指を寄せる。
「だあれも、お前がお姉ちゃんに対してビクビクしてる、なんて思ってないさ。俺が言いたいのは、インフェリオリティーコンプレックス」その人差し指を自分の口元へとすいっと引き寄せた。「劣等感ってこと」
 俺なんかとは違って――明るく面倒見たがりの姉は、人気者だった。グループのボス的存在なわけでも特別目立つわけでもない。ただ小回りの利く親切と愛嬌たっぷりの笑顔が、好意という感情に繋がりやすかっただけだ。おまけに心根もたいへん真面目で、大抵の人間が投げだしたがる生涯の強敵・勉強という輩にも積極的に取り組み、その功もあってかしっかり者のイメージも上書きされた。以上のことからわかるように、姉は周囲から評判が良かったのだ。
 そんな姉の隣にくっつく俺を見る大人たちは、口を揃えて言う。お姉ちゃんを見習いなさい、と。毎日毎日飽きもせずにからかわれ、毎度毎度誂えたように姉に助けられる弟を見て、ダメなやつだと思う気持ちはわかる。姉が子供ながらに人間≠ネのだとしたら俺はさしずめ人間見習い≠セ。
 弟を助ける姉。しっかり者の心優しい姉。
 誰かに褒められることは姉の役目で、その姉を引き立ててやるのは俺の役目だった。そしてその労働を果たした俺に、姉は裏心のない無垢な愛情を引き換えるように吐きだすのだ。
「……どっちかと言うと、劣等感は後からついてくるものだから、それに引きずられたことはあんまりない」
「へえ?」
「ていうかなに。最近絡んでくると思ったら、お前そんなこと考えてたのか?」
「いや、厳密に言うなら話しかけるよりももっと前」
「探偵っていうかストーカーだろ」
「思ったよりヒントは転がってたけど、お前って性格からめんどうだから、解きほぐすのはけっこう苦労したかも」
 いつもより艶やかな虹色の目がにやりと細められる。その揺らぎは彩雲や真珠貝の持つオーロラに似ていた。魅力的な瞳だと思った。逸らせない。なにかを問いかけるときにその魔力は強い成果を生むのだろう。言葉なんて回りくどいツールを使わなくても雨利なら一睨みで事足りる。俺に求めているのは確実だった。
 つまりこいつはアレだ。窘める気も慰める気もないけどお前なんかの抱える悩みが気になるからとっとと吐けということだ。
 癪だな。
 わざわざ与えてやる謂れはないし、自分の恥を晒すようなことはしたくない。
 でもこいつにはもうとっくに恥ずかしいところは見せている。
そして俺は肯定されたいのだ。この自由さにつけこんで、姉の否定を切望している。
 取り戻したいのは自尊心。優しい言葉でひねくれさせられた心を正しい形に戻してやること。憎しみというガスが脆くなったところを探ってはくすぐるように嘲笑う――俺はそれを何年も、なけなしの思いで表に出さないできた。いまの今までずっと。
 恐れていたのは、このことだったのかもしれない。
 なにかが起こるって。
 ぶっ飛びそうだ。そのなにかの明確な形を雨利はまだ見せていないけど、俺からしてみれば信じられないようなことなのかもしれない。それこそ天変地異。口を開いたあと、俺に待ちかまえているものは一体なんなのか、想像もつかなかった。
「……姉の言葉が、呪いみたいに離れないんだ」
 順序を守って人に聞かせたことはなかったからか、俺の声は緊張していた。


  


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