ようやっと授業終了のチャイムが鳴る。もうほとんど休み時間の気分だったので、教室内の賑わいに変化は訪れなかった。
 友人としゃべっていたはずの結川が席に戻ってくる。
 自分の席に雨利がいることに「あ」と声を漏らすも、すぐに「座ってていいよ」と続けていた。そんな結川に、雨利は優雅に席を明け渡す。厚かましい返上だ。もう俺に用はないらしい雨利は、二言三言結川と交わしたあと自分の席に戻っていった。結川はぽすんと横座りする。整った顔がじっとりと俺を見る。雨利の次は結川か。入れ代わり立ち代わり忙しないな。
 だらりとした体勢のまま、ちょっと低い目線から、結川を見上げる。
「おつかれ」
 さっきのホームルームのことを指しているのは伝わったはずだ。けど、俺の発言が結川にとってはお門違いだったのか、表情はちっとも明るくならなかった。
「なーにーえーくーん……」
 結川にしては低めな、するりとした声。いつもの笑顔は鳴りを潜めている。輝きが圧倒的に足りない。彼女は星を浮かべてはいなかった。感情によって比例するそのきらめきはチラとも姿を見せないのだ。頬を掠めることも無遠慮に噴きだすこともない。皮肉かな。平和そのものだった。
「言っとくけどさ。機嫌の悪いお前なんか、俺はちっとも怖くないよ」
 ぶっきらぼうに言ったつもりなのに、思ったよりも自分の声は和やかだった。
 ご機嫌ななめの、すっかり普通の女の子になってしまった結川のほうが、ある意味いつもより近寄りやすい。とはいえ、話しやすさを鑑みればいつものほうが好ましかった。それに、散々俺に降りかかってくる五つの針を持った星屑を相手にするのも、近頃じゃ一種のコミュニケーションだと純粋に思えていた。
「……えいっ」
 結川は俺にチョップした。全然痛くなかった。そんな攻撃ならいくらでも受けてやれる。
「気は済んだ?」
「済んでない。むしろその一言にさらにメラついてきたよ」
「話聞くから。なに怒ってんだよ」
「言えない」
「お前なあ」
「言えないっていうか、うまく言えない」結川はぎゅっと腕組みをした。「でもなんか、さっきの、ホームルームのときの那贄くんの言いかたはあんまりよくないっていうか、相手も相手だったけど、あれじゃまるで戦争みたいで、なんていうか、寂しかった」
 俺は目をじんわりと見開いた。半端な体勢をずるずると立て直す。
「なんでお前が寂しがるんだよ」
「言ったら自意識過剰とか思われそう」
「安心しろ。俺とお前のことにかぎって、自意識過剰ってことは多分ない」
「……だってー」
 結川は水っぽく表情を変えた。子供みたいな、涙のない泣き顔。ぱたんと体勢を倒して俺の机に伏せる。
「あれじゃあ那贄くん悪者みたい……ほんとは私の正義の味方なんでしょ?」
「そういうこと言うなよ。恥ずいだろ」
「ありがとー。嬉しいよー。でも寂しいよー」
「あのなあ。お前が寂しがることなんか一つもないからな」
「そんなことないよ。だってみんな、那贄くんのこと勘違いしちゃう」
 それはきっと勘違いじゃなくて本当のことだよ。
 うっかり漏らせば目の前の友達が泣きだしそうなことを、俺は喉元に押しつけた。
 結川が俺をそういう目で見ないのはとてつもない奇跡だ。ありがたい。思えばこいつは出会ったときから俺を対等かそれ以上に見ていた。話しかけられることがほとんどなかった俺にとってはレアケースで、そのときの結川は緊張こそしていたけど敬遠も怯みもまるでなかった。ちょっと多めの笑顔と少しずつ増えていった会話は、俺が絆されるには十分すぎて足りない。砂糖菓子みたいに甘い引力で結ばれる。
 これだから、俺の友達にはお前しかいないんだよ。
「でもね、さっき言ってたよ、ちょっと言いすぎたかもって」
「誰が?」
 結川は控えめに一人の男子生徒を指さした。
「那贄くんと言い争ってた男の子だよー……」
 そいつは、結川が普段つるんでるグループの女子と楽しげに談笑している。あそこに結川も混じっていたのだろう。何人かが気遣わしげに結川をちらちら見ているのがわかった。
 もしかしたら、さっきの自由時間に俺のフォローをしてくれていたのかもしれない。別に興味のないことだったけど、ありがた迷惑だと切って捨てれるほど無情でもいられなかった。甲斐甲斐しさがむず痒い。なんとも言えない気持ちになる。
「えーと、そっか」
「うん。そう」
 ここでだから次に話しかけられたら仲良くしようね≠ネんて言わないのが結川の美点だ。俺がお説教を好きでないのをちゃんと理解している。姉のくせに――亜羽ちゃんもここまでわかってくれていたらな、とさえ思う。いろんな意味で、結川は俺の理想だった。
「そういえば」突っ伏した体勢のまま、結川は俺に顔を向ける。「また雨利くんといたよね」
 声に覇気が戻ってきた。これは俺がフラストレーションの溜まった星々から一斉攻撃を仕掛けられることもそう遠くないと見える。
「そうだな」
「やっぱり友達なんでしょ? いいよ、隠さなくっても。あと九十七人で富士山の上でおにぎり食べれるよ」
「誰が食べるか。っていうか、お前と雨利で二人として、三人目は誰だよ」
「春飼くん。校外学習のグループでしょ?」
 だったとしても、春飼はちょっと違うと思った。第一、俺と友達なんて春飼にも失礼だ。そんなことを言ってのけるあたり、やっぱり結川は大物だと思う。
「そういえば、お前は雨利と仲いいのか?」
 あんまりそういう光景を見たことはないけど、ついさっき席を譲り合いしたとおり、そう話さない仲でもないはずだ。結川はこう見えて人見知りするほうなのだ。それほど仲のよくない相手に気さくな態度は取れない。そう感じた俺は思い切って結川に聞いてみた。
 結川はへにゃりと眉を下げて答える。
「悪くはないと思うよ。っていうか、雨利くんは誰とも仲悪くないもん」
「誰とでも仲がいい、じゃなくて?」
「うーんとね、なんて、いうのかなあ」
 いつもは小ざっぱりした声を間延びさせる結川。
 こういうときのこいつはなにか言いにくいことがあるときだ。
「雨利くんはね、どこにでも友達を作っちゃうんだよ」
「…………あっちこっちウロチョロする困ったくんってことか」
 言いにくそうなことを逆算して割りだした俺に結川は顔を顰めた。
 人の悪口だとかそれに聞こえる言葉をなるべく用いたくない気持ちはわかる。けど、このことに関してはそんなに悪いものでもないような気がした。実際、結川の選んだ言葉で彼を表現するならかなりの好印象だった。いい言葉を無理に選んだものだとしても、素材に難があるとこうも上手くはいかないだろう。
「別に、ウロチョロしてる、ってイメージがあるわけじゃないんだよ? 雨利くんの場合はどっちかって言うと、どこにいてもおかしくない、って感じかな」
 それのなにが違うんだ。俺の気持ちを汲んだのか結川はつけ足すように続けた。
「特別誰と仲がいいとかはないの。一人でいるところは想像できないけど、ずっと誰かと一緒にいるところはもっと想像できないかな。しょっちゅう違うグループに紛れこんでるよ。お弁当食べるメンバーは決まってるみたいけど、もし雨利くんが途中ではぐれたりしてもあんまり気にしてないみたい。雨利くん自身も気にされるのは嫌いっぽいね。ドライな感じ? ふらふらーってしてるの。マイペースって言えばわかりやすいかな。そういうところはちょっとだけ那贄くんに似てるかも」
 誰が誰に話しかけようが勝手。個人の自由。そう雨利は言っていた。まるでそれが普通みたいな口振りをしていたけど、結川からしてみればちょっと特殊らしい。俺を浮世離れしてるなんてからかってきたくせに自分もこれじゃないか。しかも、多分それに本人も気づいてる。なのにそれを常識として振りかざしてくるなんて。まるで騙されたみたいな気分になる。
 やっとわかった。一瞬だけ感じたあいつに対する違和感はおそらくこれだろう。
 あの露頭の迷いかたは、自由からくるものだったのだ。
「自由か」
甘美な響きだ。それでいて意をキリキリと掴んでくるような辛味がある。


  


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