4 「……先生、ここちょっと聞きたいんですけど」 空気が重く沈みこんでしまう前に、後輩の部員が手を上げた。 すっと子馬が駈けたような安堵にみんなが肩の力を抜き、キャンバスに向かい合いながら談笑に戻る。古ぼけたイーゼルを用意する者もいれば、パレットを洗いに行く者もいた。菊池もその部員に近づき、絵の様子を伺う。 「ここ、もっと細かく描きこみたいんですけど上手くいかないんです。何度やっても潰れちゃって」 「その太さの筆じゃあ確かに潰れちゃうな」 「これより細いのってあります?」 「ないね。だから、ここはひとまず放っておこう。一通り絵の具で描き終えてから色鉛筆で細かいところを仕上げるってかんじにすればいいと思うよ」 「はい」 先生が数歩離れると、その部員も助言通り、他の箇所を絵の具で塗っていく。 俺の真後ろでは女子三人が談笑。 最近話題のドラマのこと。お小遣いのこと。今週の休日の遊びの約束。いい画材屋を見つけた。パソコンが壊れてしまった。エトセトラエトセトラ。 口を閉ざすのを強制しないうちの部らしい、にぎやかな作業空間だった。 天啓のように澄んだ日常風景。火蓋のように切って落とされかけた汚物を拭い去り、誰もがそれをなかったことにする。 でも俺だけはまだ頭の隅にうろのような澱みが残っていた。 菊池が言ったのと同じことを、俺も思っていたから。 記憶の中ではいつもあやふやだ。生前ですら、目の前にしてもきっと確信は持てないだろう。彼女に順ずる情報を聞いてやっと、あいつのことか、と推測する程度の、よく知らない相手だった。 だからこうやって思い出したのも偶然だ。 あの日たまたま見かけたのも、ほんの偶然。 ――ハムレットだ。 差し出した本を見つめる目に睫毛がかかる。俺よりも低い位置にある頭を少し俯かせ気味にするしぐさ。するりと髪が胸元に舞いこんで、制服のセーラー襟をすっぽりと覆ってしまう。 こちら側へと人見知りそうな腕を伸ばした。彼女の両手が本を掴むとまるでなにか表彰されているような構図になる。 バーコードに機械をあてると無機質な囀りが鳴った。 ようやっと、彼女が顔を上げる。 ――ごめん。こういうの借りるひと珍しかったから。 カウンター越しの彼女はまるで独り言のように言った。目の前に俺がいるのだから独り言ではないのかもしれないけど、少なくとも、彼女が俺に返事を求めているようには見えない。 気弱になりがちな眼差しは作業をするのにあっちこっちへと流れていく。 貸し出しのための過程を終えて俺の元へと戻ってきた本を、ぶっきらぼうに受け取った。小さな文庫本はしなるように空を切る。反射で引っこめた手をカウンターの陰に隠して、彼女は再度口を開いた。 ――期限は二週間です。今度は遅れないようにね、阿部くん。 マシュマロのような小さな頬を持ちあげる柔らかい口角。 息を潜めるようなかすかな微笑み。 そう、彼女はそんなふうに笑っていた。ノイズでぼやけてしまってはいるけど、静かに笑っていたのは覚えている。 どうして名前を知っているのか。 そんな問いかけもろくに口を聞くこともせずに俺は図書室を後にした。 蜘蛛の糸のように細い視線を、背中に感じながら。 図書館だけじゃない。廊下ですれ違うときだって、足元ばかり見るくせに、真横を流れて背を向け合うと、しがみつくような視線を送る。おとなしめの寡黙的な唇よりもその視線はずっと雄弁だった。なにも言わずに、彼女はつられるように振り向いて、小さく手を伸ばすのだ。 振り向いたことは、一度もない。 彼女がそうするのはわずかな時間だったし、振り向かなければならない理由も俺にはなかった。まるで置き去るかのように、俺は薄情だったのだ。数瞬見つめ終えれば彼女は友人の元へと向かう。逡巡さえ奪われないほどのか細い引力。すぐに空気に溶けていく。ちょっと振り向いてみただけの隣人であり、お互い目を合わせたことも会話をしたこともない。 彼女のことは、死ぬまで名前も知らなかった。 「阿部鞠矢!」 廊下ですれ違った千葉に思いっきり腕を掴まれる。しかもご丁寧にご指名つきだ。とんだ公開処刑である。 俺の機嫌を見事にもぎとってくれた部長殿に「なんだよ」と眇めてみせた。 「在庫切れで届くのが遅れてたコバルトバイオレットの大チューブ、届いた」 「……どうも」 流石にそれを聞いて無下に扱うようなことはできなかった。案外自分はちょろいやつなのだ。しゅんと不機嫌も失せて軽く頭を下げてしまった俺に、千葉は呆れがちに言う。 「今度からはもっと早めに言うこと。絵の雰囲気から見るに、紫がベースなんでしょ? こっちが発注かける前じゃなく、あらかじめ自分で予備があるかをチェックしてから描きだしなよ。今回みたいな急な発想だったとしてももちろん」 「かたじけない」 「うむ」 よし、と頷く千葉は俺から手を離した。 ほつれるように交流は終わり、千葉は反対側へと足を進めていく。 俺はその背中を見つめた。振り返らない背中は、相手の思惑とはきっと正反対に冷たく感じる。さっきまですぐそばにあった姿がどんどん小さくなっていくのを名残惜しく思うのは多分俺だけじゃない。控えめな人間なら声だって出せない。 視線を引き剥がして、俺も歩きだす。 学校中は寝返ったかのように静穏。もしくは記憶喪失。馬鹿になる薬でも打たれたみたいに清らかな毎日に戻っていく。 校内を徘徊していた化け物はもういない。重く長く垂れた尾鰭はあらゆる汚物を拭い取って、ぐちゃぐちゃになったまま消えていった。 丸太朶衣は一度死に、何百人もの人間に引きずられ、二度死んだ。 化け物は幽霊だったのかもしれない。 だから姿が見えなくなっただけで。 鈍色の掃除用具入れの隣、だらしない駐輪場の裏、堅く細い木々の真下や静かな図書室のカウンターに、もしかしたら。 「ばかたれ……」 清々しい日常を直視できないあまのじゃくなやつ。 気分を紛らわせるために俺は美術室へと向かう。 昼休みが終わるまであと二十分もある。籠って続きでも描いていよう。乾くのを待たなければならない油絵はこまめに描けるようなものじゃないけど、なにかせずにはいられなかった。 運よく鍵は開いていた。でも中には誰かいて――声からして菊池と千葉だ――コムズカシイうんちくをベラベラと述べている。 ていうか千葉はさっきすれ違ったばかりなのにここに来るのが早すぎる。しかも、すぐ別れたけど結局再会するなんて、なんかまぬけだ。若干気まずい。 面倒なタイミングに来てしまったものだ。 話の折り合いがついたころにでも入ろうと、俺はドアの横の壁に背凭れる。 「近代における“芸術”は古代ギリシアでは全てテクネー、つまり“技術”という言葉で捉えられていたんだ」 語り部はもちろん菊池。相手が千葉だったのは菊池にとって最大な幸運だろう。 「技術だと混乱しません?」 「そうだね。全部同じだったわけだし。絵画や彫刻、演劇だけじゃない。料理も建築も医術も造船も、農業や漁業ですら、技術と呼ばれていたわけだから」 「なにかをする“すべ”が“技術”だったってことですよね」 「なるほどその通りだね」 菊池は嬉しそうに返した。やはり菊池の話についていけるのは千葉だけだった。 もういいかな、と翻すようにドアの前に立ち、開きかけていたドアをスライドさせた。音に気づいて振り向いた二人と目が合う。千葉のほうはなんでここにいるんだみたいな顔だった。実に同意見である。 「ああ、阿部か。ちょうどいいところに」 「え」不穏めいた言葉に俺は後ごみする。「美術が“すべ”だった話はけっこうです」 「あれ? 聞いてたの?」 ぎくっとした。唇を歪ませる俺に千葉は「あー、違うから」と悟ったような表情で手をひらひらと振った。 一瞬姿を消したと思った菊池が持ってきたのはアクリル絵の具のボトルだった。まだ新品なのか状態はいい。でも日焼けしているのか黄ばんでいる。開封していないものを何年も残しておいたのかもしれない。 「これ、開かないんだ。阿部だけが頼り」 そういうことか。 俺はボトルを受け取り、蓋と底を持って力をこめる。 女子の多い美術部で俺は重宝されるべき屈強な男子部員だった。おまけに中学まではスポーツもやっていたことから自分で言うのもなんだけど力が強い。以上のことから、こういう仕事はよく回ってくる。大の大人でしかも男である菊池から回されたことは、今まで流石になかったけど。 「固くなっちゃってねえ、どうも。いけそう?」 「もうちょい、です」 ミシ、と粉を落として蓋が緩んだ。そこからまた急ブレーキをかけられたけど、この分ならもうすぐで開きそうだ。 「あ」 ぱかっ。なんてかわいい音ではなく、ばこっと、不吉な音を立てて開いた。開いたけど、噴き出した。中の絵の具が制服の袖口に跳ねる。 「あー……」 眉を下げながら千葉は席を立った。水道のほうまで小走りで駆け寄り、雑巾を濡らす。俺も蛇口のほうまで行って水を開けた。ぼとぼとと袖に注ぎ、最初は弾いていた水分をどんどん含んでいく。 「先生、ラッカーとかリムーバーってありますか?」 「ないんだよねそれが。石鹸で応急処置しといて」 少しは落ちたけど、やっぱり完全には取れない。真っ黒な制服に絵の具のシミ。美術部の宿命とはいえ屈辱だった。帰ったら親が頭から火を噴くだろう。もちろん怒りが原因でだ。 「そういえば阿部、続き描きにきたの?」 「あ、はい。でもなんか気が削げたんですけど」 「ごめんな」縁の側面に絵の具の滴ったボトルを拭いながら言った。「でもまあ、せっかくだから自分の絵、遠くから見てみれば? 普段近くで描いてるけど、たまには遠くから見てみるのも大事だし」 「はあ」 どうせまだ本格的に描きこむ段階でもないんだから、眺めても意味はないんじゃないだろうか。頭の中で絵の完成形はできあがっているからあとはそれに少しでも近づくよう仕上げていくだけだ。 「まあ、まだはっきりと描いていってるわけじゃないだろうけど、自分の筆の置きかたを見ておくのもいいかもしれないよ。その一筆で印象が変わったりするし」 菊池の言葉に千葉も言葉を挟む。 「タッチで印象が変わると言ったら、印象派のモネとか、スーラの点描とかですよね」 「ああ」俺は軽く頷いた。「ゴッホみたいな?」 「ゴッホはどうだろう」 「えっ、違うのか?」 「私の感覚としては違うかな。ゴッホはストローク」 「僕もそう思うよ」 タッチとストロークの違いってなんだよ。 俺は美術倉庫のドアを開けながら心中で愚痴を吐いた。 これだからこの二人を相手に話すのは嫌なのだ。二人とも、絵を描くぶんには美術史的な知識や技法の正式な判別はいらないと考える人間ではある。菊池なんかは最悪自分の体さえあれば絵は描けると宣っていたほどだ。とはいえ芸術学や美術史の勉強をある程度身につけている彼、彼女らは、俺たち一般部員を置き去りにする内容を会話にすることが多い。俺たちが知ってることといえば授業で習った“ヴィンチ村のレオナルド”くらいのものだった。 倉庫を進むと自分の絵を見つける。それを持ち上げて近くにあった椅子に起き、何歩か下がって眺めてみた。 やはりまだまだの段階だ。色の塗りからしてもまるで塊みたいで、とても見直しをするようなことは。 「あれ……?」 これは違和感だった。 意味深な意味合いでもなんでもない。そのままの意味。なにかが違って、とても違う。 この絵がおかしいことに気づいた。 しゃがんで見ても変わりはない。違うだけだ。 夢中になっていて気づかなかったらしい。こんなに不思議なことなのに。 具体的にどこが違うかはわからない。 でも、描き続けてきたモデルがまるでどこの誰ともわからないものに仕上がっているのは間違いない。画家が違う違うと絵を引きちぎる気分がわかった。何故だ。どこが納得できないんだ。これは、こんなものじゃ、ないはずだ。 美術倉庫の中で俺は呆然としていた。 わかっていることはただ一つ。 俺の絵の住人が崩壊しかけていることだけだった。 他の部員はもうとっくに道具を片づけ終えていた。自分の絵を倉庫にしまって「さようなら」と帰っていく。部長の千葉も壁の金具に部室の鍵を引っかけ、戸締まりを俺に託したあと出ていった。残っているのは俺だけで、今日一日手のつけられなかった絵の前に座りこんでいた。 俺の感じた違和が、絵の画面のなかでも大部分を占める最前のモデルにあることは、考えこんだ結果わかっていた。 というよりここにある以外考えられなかった。 シルエットがどうにも不自然で、絵の意味全てを破壊させている。でもどこがどう変なのかまではわからなくて手のつけようがない。塗りこんでしまっては修正はしにくくなる。バランスを変えるならいまが最終タイミングなのだ。なのにわからなくては、どう描き変えようもなかった。 |