3 最寄りの駅までは歩いて五分。 たかが五分だが、されど五分だ。 深海のように明度を失った宵終わりの空気は氷を落としこんだように冷たい。春になればもう少し明るく暖かくなるが、そんな時期を迎えるにはあと指が三本ほど足りていなかった。 気を抜けば温かい部屋にいた反動で鼻水が滴る。 寒さと一緒に鼻をすすりながら、温かいココアを飲みたいと思った。 ――ああ、丸太朶衣だっけ? ――そうそう“マルちゃん”! あの淑やかな少女は、そんなコミカルなニックネームで親しまれていたらしい。 思い返せばそう呼ばれているのを聞いたことがある。 誰が言ったのか、誰に言ったのかは知らなかったけど、きっとあれは、丸太朶衣を呼んでいたのだろう。 朶衣。聞く分には男の名前に聞こえる、漢字を見ても判別に苦しむ、そんな不可思議の名前を授けられた彼女は、きっと俺と同じくらい、下の名前で呼ばれるのが好きじゃなかったんだろう。だからこそあえて名字からニックネームを作ってそれで呼ばせるようにした。そんな流れが容易く汲み取れるようなあだ名だった。 意識してみればいろんなところでその文字を見かけた。 音楽室に並ぶ長机。Bの0.5のシャーペンで刻まれた文字には“マルちゃんは××が好き”とあった。おそらくこのマルちゃんは丸太朶衣だ。××の部分は上から塗り潰されていて――友人にでも書かれたのを羞恥から丸太朶衣本人が塗り潰したんだろう――鉛の粉が噴きだすほどに真っ黒い。頑張れば読みとれなくもなかったけど、俺はそれをしなかった。 もう一週間も経っているのに、丸太朶衣の座っていた席の机には、雪みたいな小さい花を生けな花瓶が置かれている。ちらりと教室を覗いただけでもその一角だけが別世界のように見えて、殺虫剤を撒かれたみたいに誰も近寄らない。きっと早く撤去してほしいとでも思っているのだ。花や少女に悪気はない。でも確実に空気を害している。学校を徘徊する化け物の末路は多数決でとどめを刺されるしかない。あの花瓶が姿を消すのもそう遠くはないだろう。 「なに見てるんだ?」 「……別に」 廊下にぽつんと立ち止まっていた俺に、友人は話を中断し声をかけた。 別にと返したけど、視線の先を辿ることで、俺が見ていたものの目当てはつくだろう。陶器特有の滑らかさを持つ骨のように細長い胴を見て、友人の顔は少しだけ冷めたものになった。 反応を見せるだけマシなもんだ。大抵のやつはそろそろなんの興味も示さずに忘れていく。 「……あ、忘れてた」 「なんだ? 教科書か?」 「いや、そうじゃなくて。本」 「教科書だろ?」 「そっちじゃない。図書室に、本返すの忘れてた。催促来てたのに」 貸し出し期間を超過すると、図書館から直々に催促状が届くようになっている。気になる小説があるけど買うにはもったいないときや、絵の参考資料になりそうなものを見繕うとき、頻度としては一年に五回くらい、俺は図書館を利用していた。そんな頻繁に借りるようなことはないから返却期限を切れるなんてことはよくあって、そして今それを思い出したのだ。 「マジかよ。貸し出し期間二週間だろ? どれくらい超過したんだよ」 「一ヶ月くらい」 「そりゃひどいな」 友人はおかしそうに笑った。笑われることはさほど嫌じゃなかったけど、周りがちょっとうるさそうに通りすぎるのは申し訳なかった。 周りの目に気づいたのか声のボリュームを絞る。いつも通りの声音で俺に言った。 「阿部って時々ぬけてるよな」 「うるさい。明日持ってくるって」 「あーあ。期限大幅に超えて返し遅れたやつってブラックリストに載せられるらしいぜ。貸し出し制限がかかるんだって」 「でも俺、前も一ヶ月くらい返しそびれたぞ。けど普通に借りれてる」 「ラッキーだな」友人は目を見開かせた。「誰か当番のやつが気利かせてくれてたんだろうよ」 教室の移動を終えた俺たちは指定の席につく。 明日本は持ってこよう。樹海と化してはいるが、勉強机のどこかにあったはず。年代の古いものほど下に配置されているから、せいぜい塔の真ん中くらいだ。見つけだせない場所じゃない。 なにを借りたのかと思い返しあぐね、数秒後にピンとくる。 すぐに出てこなかったのも無理はない。 ガラにもない物語を借りたのだ。 四大悲劇の一つとしても名の知れた、ウィリアム・シェイクスピアの名作、The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark――翻訳名を『ハムレット』。 「オフィーリアを知ってるかい?」 夕方の日差しと同じくらい和やかな声で、菊池が正面から俺に尋ねる。描いているのを見られるのがどうにも苦手で、俺は体がむず痒くなるのを感じながら返答をした。 「知ってます。っていうか、前に先生が教えてくれましたよ」 「あれ? そうだっけ?」 照れくさそうに頭を掻く菊池は歳相応にあどけない。これぐらいの世代のひとはだんだん心が少年へと交代していくイメージがある。 「まあ、だったら話は早い。ジョン・エヴァレット・ミレイの代表作『オフィーリア』。ヴィクトリア朝の最高傑作とも言われている名画だよ」 いま阿部が描いている絵にはそのオフィーリアを感じるんだ、と菊池は神妙にしみじみを混ぜこんだような表情で囁いた。 ミレイのオフィーリアは、シェイクスピアのハムレットに出てくる登場人物からそのままきている。ハムレットの美しき恋人・オフィーリアは、ハムレットに冷たくされ、度重なった不幸により、溺死してしまう。その悲劇の少女を題材にしたのが、川に浮かぶ様が神秘的な一頭地を抜く『オフィーリア』である。 「なんでだろうね。体勢や色使いだって全然違うし、この絵には水面も草花もないはずなのに」 そんなにわかりやすかっただろうか。 俺は不安な気持ちで呟くように言う。 「イメージを、引きずられすぎたのかもしれません」 「意識をしすぎたってこと?」 「はい。でも描き直すつもりはないです」 「うん……それでいいと思う。まだ明確なものは見えないけど、阿部の伝えたいものを伝えるのが一番だからね」 俺は油絵の具をたっぷりと含んだ筆をパネルに伸ばした。竜胆色の絵の具がぷっくりと乗る。いまは色を置く段階でしかないから、非常に画面が混乱している。全体的にのっぺりとしていて、手を出せていない感じがすごい。ただそこに色を置いただけ。でも、下地に時間をかけた分、どの色を置いてもイメージ通りだった。やはり下塗りの色にこだわったのが良かったらしい。前回の絵では薄いピンクを置いたのだが、上から重ねた植物の緑は瑞々しく映えていた。どんな色を塗るかでイメージは大きく変わる。油絵の具は乾かさなければならないのでこまめに手を加えられるようなものじゃないが、こういう、自分で雰囲気の作りやすい長所が俺は好きだった。 視線を感じ、顔を上げる。 菊池はまだ俺の絵を眺めていた。 勘弁してほしい。こうも見られると描きにくい。 絵画教室でもあるまいし、部活中に顧問がここはこうするべきだとか筆を貸してみろだとか言うことはまずない。小さなアドバイスなんかはよくあることだが、基本的には生徒の個性に身を任せていた。だから批難されるなんてことはないはずだ。ないはずだけど、自分よりも歴戦の芸術家にこうも注視されていては緊張するのは当たり前だ。 自然と遅くなる筆ごと、菊池はパネルを観察していた。 「これは女性だね」 「……はい」 「髪が長くて、まだ若そうだ。奥にもう一人いるのか。どっちも後姿だね……声をかけようとしているようにも見える。女性のほうの、これは制服かな?」 俺の絵を見てぽつりと呟く菊池。言い当てられるともっと恥ずかしくなってくる。声につられて他の部員たちの意識も俺に向けられているような気がした。微妙な表情をする俺に気づいたのか、苦笑をしながら「こりゃ珍しい」と言った。 「阿部って、自分の絵を見られることにあんまり抵抗がないタイプだったのに」 「はあ。まあ、そうですけど」 「見られたくないのは、自信がないか、誰かに向けて描かれたものだからかの、どっちかだよね」 押し黙っているとまるで助け舟のようなタイミングで、倉庫のほうから「先生、黒い絵の具がなぁーい」という声が上がった。菊池は返事をしながら倉庫へと引っこむ。まさに万事休すを得たような気持ちだった。 「あるじゃないか、黒」 「あるけど出ないんですよ。なんで絵の具の黒ってこんなに固まるの早いんだろ」 「たまたまじゃない?」 「そんなわけないじゃないですか! 他の色はまだ使えるのに黒だけどのチューブも固まってるんですよ!」 アクリル絵の具派の生徒が次々に声を上げて、黒い絵の具が固まる謎について討論している。熱を吸収しやすいからすぐに乾くんじゃないかというのが一番有力な説だ。特に今回のブロック展で絵画部門でなくデザイン部門で出品する生徒はいかに黒が貴重であるかを語り、発注における黒の重要さを説いてみせた。 油絵では黒を使うのはよくないとされているから、正直あまり縁のない話だった。色を混ぜれば混ぜる分だけ暗くなるのだから下手な無彩色を使うより色を混ぜこむほうが俺の好みでもあった。 「そうそう。オフィーリアの話なんだけどね」 棚の裏から黒のポスターカラーを取り出してきた菊池が、小さな惑星でも撫でるような手配せで話を戻す。 「ミレイのオフィーリアは、溺死して力ない手が手のひらを見せて水面から上げられているのが神々しいほど美しいんだけど、僕としてはその周りの花々にも注目してもらいたいんだ」 どんな絵かピンとこない部員が多かったので、千葉は壁に並んでいた美術の本を手っ取り早くかっぱらって、菊池の説明に遅れないよう素早くページを開く。開かれたのはもちろん件の絵。それを覗きこむ部員は感嘆の息を漏らした。 「水面に浮かぶよう描写されている草花には、象徴的な意味がこめられていると言われている。ヤナギ、見捨てられた愛。イラクサ、苦悩。デイジー、無垢。パンジー、愛の虚しさ。首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折。ケシの花は死を意味している。どうしてその植物を描いたのか、シェイクスピアのハムレットを読めばわかりやすいんじゃないかな。ミレイの描きかたは実に千葉寄りだ。いや、千葉がミレイ寄りと言えばいいのか。モチーフの一つ一つに意味を与える。ちぐはぐに見えて統一された構成が美しさを生みだすんだ」 結局はお気に入り自慢かよ。 千葉の名を口にしたあたりで部員どころか千葉本人さえも、半ば白けた顔をした。千葉の性格からしてみれば、菊池の言うことは有難半分迷惑半分、つまるところ有難迷惑なのだろう。 部員の一人が美術史の本に手を伸ばす。なにかを調べるようにページをめくり、指を止めたところでテーブルに広げた。 「他の画家もオフィーリアを描いてるんですね」 ほぼ同時期に描かれた数多くの画家の様々な絵に、鑑賞の目が注がれた。 極彩色で彩られているもの。デザイン的なもの。20世紀初頭がピークだったのかもしれない。少なくともそのページのオフィーリアが描かれたのはそのあたりだった。 「ミレイの絵は後世に影響を与えたからね。ポール・ドラロッシュの『若き殉教者の娘』もオフィーリアに影響されたのではないかと言われている。水面に浮かぶ死体というのは身の毛もよだつほど恐ろしいが背徳的に美しい。どの絵も純真そのもので描かれている。それだけ、誰もがオフィーリアに魅せられたのかもしれない。溺死した美少女。悲劇のヒロイン」 暗く冷たい水面に髪を広げ、長い服を漂わせ、息絶えた唇と死に色の瞳は閉じられることなく曝けている。 「――丸太朶衣みたいだよね」 水底に沈んでしまいそうな声で、菊池は言った。 |