言葉を借りて“個性が見えない”とするのが一番近いのかもしれない。雰囲気だとかの問題か。いや、そんなことはない。ただ圧倒的にしっくりとこない。
 これは違う。これじゃない。これは誰だ。別人だ。
 まさしく無限リピートだった。
 一度沈みこめば浮かび上がれない。ずんずんと、纏う繊維が水分を含んで。重い。体の輪郭が狭まっていく。薄く細い氷の針のようなものが自分を覆っていく。肩へ、顎へ、耳へ、鼻先へ。溺れるのだ。オフィーリアだ。
「思い悩んでいるようだね」
 気づけば背後には菊池が立っていた。珍しく真面目な顔をしている。声も低い。
「……なんか、違うんです」
「デッサンが狂ってるとか?」
「いや、そういうことじゃないと思います。もっと本質的に違うっていうか」
「それはこのモデル?」
 菊池は俺の絵をしげしげと眺める。
 見られたくない気持ちはあってもこのタイミングだとそうも言えない。
「はい……」
「なんだろう。オフィーリアにつられすぎてるってことは?」
「そういうのでもないんですよ」
「このモデルが誰かわからないからなあ。なにをどうすればいいのか、僕にはわからないや」
 尤もな意見だった。
 俺は少しだけ俯く。
「絵の中の登場人物は二人。一人は男で一人は女。どちらもまだ若い。顔は見えなくて、女は男に……話しかけようとしているのかな? 腕を伸ばしている」
 青緑を孕みながら画面上を踊るバイオレット、くすんだ菫色。狭い空間の隅々を燃えあがるようなマゼンダの影が蔓延っている。二人とも後姿だ。わずかながらに距離はあった。真っ黒い背に触れようと、華奢な片腕は鳩尾ほどの高さで伸びている。
 絵は中途半端なところで止まっていた。
 決してこれから進まないように思われた。
「やっぱり、ちゃんと観察することだよ」菊池は苦笑と共に呟いた。「見て、確かめること。芸術っていうのは案外ちゃんと見ることから始まるんだ。もちろん構想力も大事だよ? エスキースを何枚も蓄えておくのもいい。でも、僕らにはせっかく、カメラよりも優秀な視覚機能が備わっているんだ。確かめるべきだよ、きっとね」
「…………はい」
 菊池は言い残すようにして俺の背後から数歩だけ後ずさった。
 テーブルに放りだされたままの筆箱。そこから突きだしたシャーペンを使うときはまだ来ない。念のために出しておいた絵筆も、ペインティングオイルもなにもかも。パレットに押し潰されるように広がったカドミウムレッドの絵の具の毒が俺の思考を狂わせる。とにかく描く、ということすら今の俺にはできないのだ。
「そういえばね」
 ふと、思い出したように菊池が言った。
 というより実際に思い出したから呟いたのだろう。
 振り返ったところにいた菊池が見ていたものは、いつか部員たちに語っていた一枚の切り絵だった。
「この額縁について、彼女はなにも教えてくれなかったけど……一つだけ、こっそり、僕に話してくれたことがあるんだ」
 ストーブのごうごうと鳴る音がいやに大きい。実際には菊池の声のほうが大きいはずなのに、どうしてかその声は俺には遠かった。
「彼女はこれを“ただの自己満足なんです”と言っていた」
 そのあと菊池は肩を震わせる。
 喉で小さくうずまっているのはまず間違いなく笑い声だ。
「どういうことなのか、これまたさっぱりわからなかったよ。絵なんてほとんど自己満足みたいなものだ。それを、そんなふうに言うなんて。彼女は話すことはあまり得意ではなかったからね。ヒントをもらったところでそれすらも解読不可能なんて本当に――」
 言葉は潰れた。
 笑いながら振り向いた菊池の目が、捉えたのだ。
 一直線に俺の絵を見ている。
 その顔色が今まで見たこともないようなものに変わったとき、俺は捉えられたことに気づく。
 サッと自分の絵に視線を遣る。ありありと伝わってくるものは俺自身にはどうしたって隠しようがなくて、逃げるように足元へと目を落とした。
 さっき見てしまった菊池の顔が頭から離れない。教育者の顔をしながら、もう一つ別の人格を混ぜこんだような、そんな複雑なもの。もう一つの人格はきっともう一つの感情。俺に向けられたものではない。あんな家族愛のような淡い親しみのこもったものを、俺に向けてくるわけがない。
「その絵の構想を始めたのは一ヶ月くらい前のことだっだよね」
「……はい」
「雰囲気を変えたいと言い出したのは、あの日の、すぐあと」
「……はい」
「阿部が、どういうつもりで、その絵を描いているのか、僕にはわからない」
 菊池の声もほんの少し緊張していた。
 戦いているようにも感じられた。
 俺の背後にいる絵の違和感に、菊池は斬りこんでいく。
「でも、一つだけ言わせてくれ。阿部……お前は、なんにも見ていないよ」
 さっきと同じ顔をして、菊池は俺に強く言う。


「丸太朶衣は腕を上げない」


 絵のなかで手を伸ばす彼女が、ようやっと俺の幻想であることに気づいた。
 振り向いても、そこに彼女はいない。学校中探したってもう見つからない。どこにもいるはずがないのだから見えるわけがない。全部今さらだ。俺は生きていたときですら、彼女を見てはいなかった。
 よく考えればわかることだ。あんな人間が、腕を伸ばせるわけがないのに。声をかけることも、目を合わせることもできなかったのに。手を伸ばそうと小さく腰から上げて、それすらできずに力なく手を握り絞める。所詮その程度だ。その程度で、振り向くには、俺たちはあまりにも無関係すぎた。
「阿部は彼女を知っていたのかい?」
「いいえ……」囁かれたのは乾いた空気に似合わない声だった。「臆病だったから……俺は彼女が死ぬまで、その名前すら知らなかった」
 彼女がもっと欲張りであればなにか変わっただろうか。俺がもっと果敢であればなにか変わっただろうか。
 出席番号順に並んだ列の最前席にいた俺は、ステージの端で楽しそうにピアノを奏でる彼女を見ていた。図書室で健気に執務に勤しむ彼女を知っていた。廊下ですれ違うたびに見つめられていることに気づいていた。俺たちはお互いになにも知らなくて、けれどそこに発露する剥きだしの感情に戸惑った。彼女を、そしてなにより自分を信用できなかったのだろう。彼女が俺に向けたあのひたむきな眼差しのわけを、もっと本当の意味で考えていればよかった。
 ろくに出会いもしないまま、ある日、丸太朶衣は死んだ。
 確かめるのが怖くて彼女からの手紙は読めなかった。
 葬式のあった日の夜に、ライターで燃やした。
 言い逃げをされたのか、一生を恨まれたのか、自殺だったのか事故なのか、もう誰にもわからない。残ったのは、仕返しのように置き去られてしまった、俺の心だけだった。
「……やっとその絵のことを掴めてきたよ」
 顔はおぼろげ。名前も知らない。話したことすらなくて、だから根性なしの俺は振り向くこともできなかった。
 丸太朶衣は、隣のクラスの女子生徒。
「その絵においての阿部の“芸術”は“なにかを伝えるすべ”だったんだろうね」
 もしかしたらいつか出会えたはずの全然知らない赤の他人。



◇ ◆ ◇




 トラックの荷台に絵が積みこまれていく。
 青いビニールで覆われたのは俺の油絵一枚のみ。まだ乾きが甘かったせいだ。搬出時に他の絵に絵の具がついてはいけないからと、前日にきつく封印してもらった。あの固結びなら運んでる最中にほどけるようなことはないだろう。展示会場についたとき梱包を剥がせるかも怪しいところだけど。
 寒い季節の早起きは身にこたえるが、本日はブロック展。
 そんなことも言ってられない。
 絵を運んでくれるトラックよりも先に会場についた美術部員は、他校に挨拶をしたあと各々のポジションを確認していた。去年よりも展示面積が少なかったことを抗議しに行った千葉と菊池は、おそらく範囲の拡大をもぎ取ってくることだろう。あの二人に口で勝てる者など小心者の多い美術部にはそういない。他校の顧問も舌を巻くほどだ。
「印刷したタグに、名前もタイトルも書いてあります。両面テープを使って額縁に貼りつけてください」
 十センチほどの真っ白い紙でできたタグが配られる。明朝体で打たれた文字はなんだかかっこよくて、それだけに額縁に貼るという稚拙さがかっこわるかった。
 会場の奥から威風堂々と千葉、菊池の二人が帰ってくる。
 千葉は片腕を空に上げた。
「角の所まで使っていいって」
 部員たちの歓声が上がる。
 流石だ。やはりこいつに任せておいて間違いはなかった。
 配置に苦労していた部員たちは「これで余裕ができる」とガッツポーズをしている。その脇を脚立を持った女子二人が横切った。俺の前にそれを置いて、当然のような顔で俺に言う。
「じゃあよろしくお願いします」
「はいはい」
 体育会系美術部員の出番である。
 壁の高いところへ絵をかける仕事は、基本的に俺に回ってくるのだ。
 俺は腕まくりをして脚立を動かす。考えてもらった配置表を見ながら、指定の絵を持ってくるように告げる。
「阿部、これ頼んだ」
「はいよ」
 菊池が脚立の下から両手で絵を差し出す。絵の具がメインのうちにしては珍しい色鉛筆画だ。ふわふわとした色使いで絵本のような世界を描いている。この大きさで色鉛筆を選んだのか。相当時間がかかっただろうな。
「交渉しに行くときに他校の絵を見て回ってきたんだ」
 金具を持ったまま見上げる千葉の目は妙に好戦的だった。
「へえ。どうだった?」
「今年は賞狙えるかもしれないね」らしくもなく、口角を吊り上げる。「思ったよりもいい作品はなかった。面白いのはいくつか見かけたけど、サイズが小さかったからな……その点うちは40号以上って決めてたからね。常勝校を超えるのは厳しそうだけどいい勝負にはなると思うよ」
 逞しいことを言う千葉の顔は勇ましかった。部員に指示を出す横顔は雪花石膏でできているかのように気高い。こいつがここまで言うのなら今回はいけるのかもしれない。俺も心の隅で小さな期待を抱いた。
 部員たちによってビニールで巻かれた絵が担ぎこまれてくる。うちでこんな扱いを受けた絵は一枚しかない。俺の絵だ。
 ばりばりと梱包を解くのを見ながらハラハラした気持ちで脚立を移動させる。
 千葉は開封された絵を両手で持ち上げる。俺に渡す前にしげしげと眺めた。そういうオプションを本人の前で披露するのは感心しない。
「思ってたよりもいい絵になったよね」
「はあ……どうも」
「褒めてるんだけど」
「別にいいよ。これ、ただの自己満足だし」
「ふぅん」
 いつまで経っても絵を渡してこない相手に「いいから早くかけよう」と急かす。しかしタグをつけていなかったためまだのようだ。印刷した紙の束から俺のものを探していく。
 そういえば菊池の姿が見えない。いつもなら搬出のときは千葉との熱いトークで美術部を賑わせるどころかうんざりさせているはずなのに。
 会場を見学しているんだろう。ブロック展の展覧会場として使われるこの会館はちょうど円形になった建物で、聳えるような吹き抜けや煉瓦造り風の壁が趣を感じる。特に入口のアーチは素晴らしい。アーチは人間が生みだした最も素晴らしいものの一つだと豪語する菊池が、特に褒め称えた代物だ。要石に緑の鉱石を使っているのが小憎らしいほど粋らしい。そんな粋な建物にぐるりとかけられた何校もの美術部員の絵画は、まるで鮮やかな水槽だ。木目のないちゃちな木枠を覗きこめば、誰かがなにかしらの思いをこめて描かれた画が驚くほど素直に自己を示している。いくら学生の作品と言えど練り歩きながらそれを鑑賞するのは案外面白い。
 俺もこの展示作業を終わったら見に行こうかな。
 ぼんやりしているうちに、俺の絵にタグをつける作業は完了していた。千葉が「おーい」と声をかけてくる。
「この絵はその列の真ん中ね」
「真ん中まん真ん中じゃないか」
「唯一の油絵だしね、こう、メインに」
 メインに、じゃない。
 第一俺はそんなに絵が上手いわけじゃない。自信がないとかじゃなくて、実際の実力はそこそこなのだ。自分を研鑽することに余念のない千葉なんかはやはり上手いが、俺はそこまで熱心にはなれない。
「まあその配置で構成組んじゃったから」千葉は俺の絵を持ち上げて渡す。「はい。そこね」
 俺はそれを受け取った。のしかかったのは確かな重み。ゆっくりと持ち上げて配置場所に手をかける。
「タイトルもなんか不思議」
 千葉はぽつりと呟いた。
「そうか」
「この絵の女の子もさ、不思議。相手の後ろ姿を見てて、片手を小さく開いてる。伸ばそうとする前を描いたの?」
「どうだろうな。伸ばしたかもしれないし、伸ばさなかったのかもしれない」
「なにそれ」
 瞬く間に有名になった目立たなかったはずの彼女は、平和的な意味でまた目立たない存在に戻っていた。もう誰も彼女のことを思い出さない。徘徊する化け物は完全に死んだ。健全に世界は回っていく。それは俺も同じだ。
「そういえばこの女の子、うちの制服着てるよね。モデルは誰?」
「さあ? 全然知らないやつ」
 俺は目を細めるように小さく笑い、かけ終えたばかりの絵を、体を反らせて眺める。
 知っているはずなのに見慣れない少女の後ろ姿に、とうに燃やした手紙の存在を思い出した。
 きっと死んだとされる時刻より前に俺の下駄箱に放りこんだのだろう。意気地なく臆病になって読めなかった手紙。あれを読めば、彼女の死の真相も、聞けなかった彼女の言葉も、きっと知ることができたはずだ。
 俺たちは相変わらず不器用だ。
 あの手紙がなんであれ、返事をするつもりはなかった。読んでいない手紙に返事などできるわけがない。相変わらず薄情なことを言うが、もう終わったことなのだ。あれが遺言であれラブレターであれ、俺はその手紙の思いに答えることはない。

 ただひとつ、俺の描いた絵のタイトルが『Raise your hand』だということを、丸太朶衣は知っているだろうか。


 Fin.


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