「これが彼女の作品だよ」
 美術部の部室でもある美術室では、顧問の菊池が授業作品の整理をしていた。壁にかけられた作品を外して、見やすいように軽く持ち上げる。
「切り絵をするとき、大体の子は物とかを描こうとするんだよ。丸太さんもそうだった。でも、周りの友達が花とか蝶とかを目指して頑張って切り取っていくなか、丸太さんは別の物を選んだ。額縁だよ」
 確かに、真っ白い紙に真っ黒い紙で模られていたのは、歪なところも目立つが十分荘厳と言えるほどの太く分厚い額縁だった。
 菊池は頬のふっくらした顔をニィッと緩ませて続ける。
「ちょっと驚いたよね。なんていうか、作品としてはあんまり目立たないし、面白みも、うん、ないでしょ? まあ、そこが逆に面白いと思うのかもしれないけどさ。どういう意図なんだろうって僕も考えちゃったよ。丸太さんは教えてくれなかったけど」
「はあ……」
 美術室に入って早々振られた話題に、俺も千葉も渋い反応をするしかなかった。
 とっくに描く準備を始めていた他の部員に視線を遣る。俺たちと同じようななんとも言えない顔をしていて、きっと菊池は数分前からこの話をしていたのだろうと思った。
 美術部顧問の菊池は、丸太朶衣が大のお気に入りだった。
 どうやら丸太朶衣とは“遠縁の親戚の姪”という非常にややこしい関係らしく、言うなれば血の繋がらない血縁者らしい。しかし、その身内の贔屓目を抜きにしても、菊池が授業作品を通して部活中に丸太朶衣という女子生徒の名前を出すことはたびたびあった。
 作品を持ちだして感傷に浸りたい気持ちはわかるが、如何せん俺たちからしてみれば重すぎる。今日そのテの話題は、囁くことすら罪だとでもいうほどの魔力を持っているのだ。菊池の寂しさを癒すためだけに、現在プチブレイク中のセンシティヴな女子生徒の話に花を咲かせる気など微塵もない。
「あの、先生、ちょっといいですか」
 しかし、そのお気に入りの丸太朶衣よりもさらにお気に入りなのが、我が美術部の部長である千葉女史だった。都心の有名美術大学を本格的に狙っているらしい千葉の熱意は、菊池の教師としての心を燃え上がらせるには十分だったのだ。
 だからこそ、千葉の紡ぐ言葉は無下にせず、亡き女子生徒の授業作品を壁に戻して「どうした千葉」と居心地の悪い話題に終止符を打つほどの面倒見の良さを見せる。
 ようやっと解放された死刑囚のような顔色の美術部員は、揃いも揃って溜息をついた。
「阿部が新しく絵の具を注文したいようなので」
「ええ? また? 注文したばかりだよ?」
「はい。突然思いついたらしくて。バイオレット系の油絵の具です」
「うーん。確かに美術倉庫にはなかった気がするな。送料もったいないし、他に注文があるひとは今のうちに言っておくように」
 菊池は美術部員全員に聞こえるよう、声を張りあげた。
 俺は美術室の奥にある美術倉庫の棚から自分のパネルと道具を取りだす。テーブルに置いたあともう一度棚に戻って、黒のエプロンを手に取った。
 美術部では当然絵の具を用いるので、そりゃもう当然汚れる。向こう見ずな部員は制服のまま描いたりもするが、大概は汚れてもいい服や体操着に着替えるか、俺のようにエプロンをつけるかのどっちかだった。エプロンならつけてしまえばあとは腕をまくるだけで大体は汚れずに済む。女子の場合は体操着に着替えるのが多数派で、純白のシャツが絵の具に彩られることがまるでステータスかなにかのように堂々としていた。体育の授業中に恥ずかしくないかと聞いてみれば“絵の具とは私たちの血潮である”となんとも雄々しい返答を頂いたのだから感服するしかない。思い返してみれば一つ上の先輩の体操ジャージは芸術的なまでに汚れていた。言うなれば大出血、らしい。芸術は爆発ではない。出血なのだ。
「随分と絵の雰囲気を変えるみたいだね」
 いつの間にか俺の背後に立っていた菊池が言った。
「はい。まあ。でも、モデルが変わったわけじゃないんで」
「ちょっと手直しをするってくらい?」
「もう少し重たくっていうか、暗くしようかなと」
「サンドも使うんだってね。独特な透明感も出るから重すぎるってこともなくなると思う」
 サンドのことも報告したらしい。
 俺は千葉をちらりと見る。
 寒さに屈し、体操着のジャージを着こむ千葉は、先週作ったキャンバスにアタリをつけているところだった。すぐ隣にイーゼルがあることから、今日中には筆を入れるつもりなのだろう。下書きを見ながらシャーペンを滑らせる姿を見ながら、俺は菊池に呟く。
「千葉はなにを描くんですか?」
「あはは、今回はあんまり題材を決めてないみたい。インスピレーションのままに雰囲気で描いてみるって」
「あいつの雰囲気は俺たちで言う計画的だろうけど」
「モチーフは雰囲気だけど、配置や一つ一つの関連性には気を遣うからね。花なら花言葉を、物質なら漢字の意味や語源を、感情なら連鎖反応を。辞書とか使って一枚の絵の構成を作りあげていくんだから、千葉の描きかたは結構独特かも」菊池は顎に手を当てる。「でも、今回は発想を握られすぎてるように思うなあ。僕のお下がりの教科書を貸して以来、イリヤ・レーピンの『サトコ』に夢中なんだ」
 お下がりの教科書とは、菊池が大学生のころに購入した西洋美術史の本のことだろう。
 千葉の熱意に感動し、菊池が手持ちの蔵書を彼女に貸しだすことは、よくあることだった。
 今では小さな高校の美術教師なんて枠に収まってはいるが、菊池は元々有名な芸大を首席で卒業した優秀なアーティストだったらしい。芸術を究めるために二年ほどヨーロッパに渡米しただとか結局どこに行ったのか怪しいような発言をしているが、たまに目にする過去作品を見るかぎり結構な実力者なのだろう。本人は技術よりも芸術学のほうが好きらしく、それに関連する書物を美術室の棚に置いては、千葉に熱弁をふるっていた。そのくせ、熱心に美術史を学ぶ千葉に対して“美大生なんて馬鹿ばっかなんだから今から勉強してたら大学入ってからやることなくなるよ”と漏らすこともしばしばで、結局熱いんだか冷めてるんだかよくわからない教師だ。それでも、菊池の話についていけるのは千葉しか、千葉の話についていけるのは菊池しかいない。現状、遺憾ながら、菊池は優秀な美術教師だった。
「見たことあるかい? イリヤ・レーピンの『サトコ』。瞑想的で美しいよ。頭から離れないのも無理はないね」
「俺、描く専なんで」
「残念だなあ。イリヤ・レーピンといえば『イワン雷帝とイワン皇子』もすごいんだから」
 知らない知らないと首を振るのも申し訳なくて、せめてもの姿勢としてスマートフォンからネットで調べてみることにした。画像検索をすればすぐにそれが出てくる。見なきゃよかったと思った。
「な? すごいだろう?」
 すごいけど、アクが強すぎた。
 俺はなんとも言えず苦笑いをする。
「阿部の絵の話に戻るけど、今回の阿部の絵ってなにが描きたいの? 人間の後姿だってことはなんとなくわかるんだけど……ちょっとあやふやだな。モデルはいるんだよね?」
「はい」
「なら、ちゃんと観察したほうがいいよ。これじゃあ誰か伝わってこない。個性が見えないんだ。まあ、モデルが誰だかわからないようにしたいならアリかもしれないけど、ただ色や雰囲気を変えて個性をつける、なんてのはあんまりいいことじゃないよ」
「……わかりました」
 これだから、菊池を優秀な美術教師だと思ってしまうのだ。
 どちらかと言えば放任主義で、大抵のことにいいんじゃないと頷いてしまうこの軽薄そうな男を、遺憾と思っていても認めてしまう理由は、美術部員共通ここにあった。
 きっと筆を持たせれば、ひとたび魔術的な絵を真っ白な紙面に施すのだろう。
 結局、その日の部活が終わったころには、俺の描くパネルにはサンド特有の硝子じみたきらめきがチクチクと瞬いていた。乾かさなければならないからそれ以上の手を加えられなかったのだ。配色や構図を確認、修正し、本日の部活動はこれにて終了。もう空は真っ暗で、サンドの大理石にも負けないきらめきを星々は湛えていた。
 壁や椅子につかないようパネルを倉庫に仕舞う。パレットの絵の具が乾かないようにラップを敷いて、絵の具を洗い、自分の棚に戻した。
 一足先に部室を出る。
 豆電球みたいな照明が点いただけの薄暗い下駄箱に向かい、自分のそれを開けようとして手を止める。
 この下駄箱を開け、靴の上に静かに乗っていた手紙を手に取ったのは、もう三日も前のことだ。差出人の名前にピンとこなくて鞄の中でほったらかしにしていたのを、翌朝のニュースを見て愕然とした。怖くて中身を読めなかった。俺はあの手紙に、彼女がなにを書き綴ったのかを知らない。
「――やっぱり自殺なのかな」
 下駄箱の棟一つ分を隔てた先、いまの今まで意識もしなかった見知らぬ声が、俺の鼓膜を振るわせる。
「ああ、丸太朶衣だっけ?」
「そうそう“マルちゃん”!」
「噂で聞いたんだけど、自殺する前日、なんか悩んでたっぽいって」
「ええ、嘘。それ本当のやつじゃん」
「でしょー?」
「でも私、殺されたって聞いたよ」
「え? 誰に?」
「出会い系で知り合った、なんかヤバい男にって」
「やだ、それって……でも丸太さんにそんなイメージある?」
「大人しそうな子だった気はするけど」
「なんかストーカーだったってのも聞いたよ」
「男のほう?」
「違うよ、丸太朶衣」
「えー、やっだ」
「一途にアピールしてたけど、相手にブチ切れられたんだって」
「そうなんだ……」
「まあ噂だよ? でも、ね。実際のところはさあ」
「どうなんだろうね」
 噂で聞いたんだけど。どうなんだろうね。そう言いながら、その全てを面白半分に信じて、さらに彼女に豪奢な装飾を施していく。校内を好き勝手に漂わされる信憑性のない化け物には口がない。自分たちに物申すことがないからと際限なく同い年の少女を貶めていく様は、見ているだけでも、聞いているだけでも気分が悪い。
 向こうにも聞こえるように大きく下駄箱を閉める。
 俺の存在にやっと気づいたのか、話しこんでいた声はすぐさまにやんだ。
 なんて臆病者だ。責められるのは怖いくせに、それを弄ぶのをやめられない。丸太朶衣の噂話など所詮は会話を盛り上げる材料でしかないのだ。そんな軽い気持ちで、死んだ人間は汚される。
 未だにそんなふうに笑える生徒がまだいたことに驚いた。てっきり、もうなかったこととして扱う方針に決定したのだと思っていた。少なくともそれが大多数の意向だ。最近の学校内じゃ死んだ人間をほのめかすだけでも後ろ指をさされるのに。
 だからこそ怯えたのかもしれない。そして誰もが怯えている。だから口を噤むのだ――内心では様々な思いを秘めて。
 昇降口から外に出る。ふと美術室のある校舎を見遣ると、まだ明かりが点いていた。ちょうど校門までの道のりからは美術室の中が見える。特に窓際のあたりに人が立てば顔がわかるほどだった。
 隣の美術倉庫には菊池が神妙そうに立っていた。
 目の前のには、立てかけられた一枚のパネル。次のブロック展に出す作品の中で、パネルで描いているのは俺しかいない。
 うちの部では絵を描く際、パネルかキャンバスかを選べるようになっている。木枠に亜麻の繊維布を貼りつけるキャンバスは油絵向き、ベニヤ板のような木板にロール紙を貼るパネルは水彩向きだ。油絵を選んだ俺は実際キャンバスで描くほうが適しているのだが、パネルのようなきちんとした平面のほうが描きやすく感じられ、菊池と相談した結果、木製パネルにジェルメディウムを塗りこんだものを紙面として使うことにしたのだ。
 まだなにも塗りこんでいない状態とはいえ、顧問教師が俺の絵を見ている。
 なんだか気恥ずかしい思いになって、俺は早足に校門をくぐった。


 


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