俺のもとに手紙が届いた。
 昨日死んだ隣のクラスの女子生徒から。
 丸太朶衣(まるた・だい)というごく変わった名前の、ごく普通の少女。性格は大人しく控えめで、目立たず日陰すぎず、日本全国どこへやっても灰汁を出さないような、本当に普通の十七歳。
 そんな彼女が昨日、溺死した。真冬の極寒が氷を張らせた地元の小さな湖で、真っ青になっているところを発見されたらしい。大きく割れた氷の穴のなか、長い黒髪と制服を海月のように揺蕩わせて、不気味に美しく死んでいた。美しい状態。剥製のように固まった死体には傷一つなかったという。淡々しい悍ましさを残しただけで自殺か事故かはわかっていない。ただ他殺の線は限りなく薄いのだとか。
 今日は彼女の葬式で、隣のクラスの生徒はみんな線香をあげに出ている。
 一教室が空っぽになるという非日常性から、彼女の死に関する噂は瞬く間に広まった。
 死んだ女子生徒なんてハゲタカのような学生の恰好の餌食だ。彼女と同じクラスだった人間は不謹慎に濾された空気に竦んで舌と声帯を石にしていたが、クラスや学年が違えば軽々しくその話題を引き合いに出せる。やれいじめだやれ自殺だ。虐待に援交疑惑、真理教徒に成り果てたヤク中の汚物として、心ゆくまま全校生徒に穢された彼女はたいそうな尾鰭をおみ足につけて学校中を這い回っていた。
 薄情な噂に心を痛める彼女の友人や教員の目は研ぎ澄まされたみたいに鋭利だった。ひとたび彼女の名を出せば神経質なまでに反応を見せる。
 考えもしなかった人間の死というものに触れ、つい先日までの穏やかな空気は少しずつ狂っていく。
 たった一日で丸太朶衣という珍しい名前は至るところでポピュラーなものとなった。取り纏うのはマイナスのイメージ、決して精神衛生上よろしくないものだけど。
 それからは悪化の一途だ。なにもかもが異色になって澱んでいく。重い空気が湿り気を産む。噂は尾鰭のつきすぎで最早別物にまで成長していたが、本当のところどうなんだろうね、という好奇心の声は、それら噂の全てを信じているような響きだった。学校には鰭長の化け物が徘徊。その不気味さを笑えるようなやつは、三日後にはいなくなった。残ったのは化け物の轍と薄気味悪い灰色の空気。だとしても、彼女が死んでも、世界は回る。学校という空間で確かな欠落を感じながら、生徒も教員も誰も彼も、意地でも彼女を思い出さないぞという強ばった顔つきで、不器用ながらに回っていた。



◇ ◆ ◇




「ねえ、阿部。発注してた絵の具のことなんだけど」
 放課後の廊下を歩いていると、聞きなれた女子の声が背後で俺を呼ぶのが聞こえた。
 阿部鞠矢(あべ・まりや)。ごく変わった名前と言うのなら俺にもそれが当てはまる。どういうつもりでつけたかは知らないが、鞠矢という名前は平凡に対しそれなりにストイックな態度を取っているように思う。おかげで名前で呼ばれるのが小っ恥ずかしくなり、友達にも苗字で自分を呼ぶように言ってある。女子相手なら尚更だった。
「どうした千葉、まだ届いてないのか?」
 俺は振り向いて答える。声をかけてきた千葉は少しだけ距離を詰めて、俺にも見えるようにA4の白いプリントを持ち上げた。
「そうじゃなくて、確認。今回のブロック展に出す絵で油絵なの阿部だったよね。注文してた絵の具がちゃんと届いたのか見て欲しいの。これリストだから」
 千葉から受け取った紙を俺は眺める。名前と絵の具の横に緑色のペンでチェックがつけられていた。全員に回って確認していたのだろう。これから部活なわけだし部室でも会えるだろうに、この部長は本当にこまめなやつだった。
「アクリル組は黒の発注率が高いな」
「周りじゃなくて自分のとこ見てほしいんだけど」
「俺のは問題ないよ。でもちょっと相談があって」
「え、なに?」
 胸ポケットから出した緑のペンでチェックを入れる千葉は耳だけで俺に問う。これ言ったら凄んでくるんだろうな。
「絵の雰囲気を変えたい。新しく注文してほしいものがある」
「は?」
 ほら、やっぱり凄んできた。
 女子特有の毒素十分な目で、千葉は俺を睥睨する。
「バイオレットカラー全般、ライトマゼンダもあるといい。下塗りに青緑を使いたいからボトルで。それから、今回はサンドにも挑戦したいと思うんだ」
「サンドも?」
「大理石のやつ」
 サンドは絵の質感や雰囲気を変えるための技法だ。サンドマチエール。天然砂や大理石、シェルの粉末をボンド乃至ジェッソと一緒に混ぜて絵の具を用いる前に塗る。ザラザラとした肌触りになって普通の油絵とは違う雰囲気になるのだ。
「それ、もっと早く言えなかったの?」
「なかった。思いついたの最近だし」
「…………」
 千葉はお気に召さないらしい。
 そりゃあ発注したものが届いたあとに催促をされれば顔を歪ませたくもなるだろう。好きで歪ませてるんじゃない。千葉はそう言いそうだな。苛立ちしか浮かばない眉が俺の居心地を悪くする。
「サンドのほうは、今ある分で諦めて。流石に下に施すものをこれから頼んでちゃあ描きだしが遅くなるし。絵の具のほうは妥協はしない。でも、別のメーカーでならコバルトがあったはずだけど?」
「昨日試したけど発色が思ったのと違った」
「ならしょうがないか」
 どうせ下塗りだからと窘めないのが千葉の美徳だった。
 千葉は部活のメンバーの中でも“美”意識が高い。基本的に技術を磨くだけの高校美術部において、美術史まで勉強しているのはこの千葉という高潔の部長だけだ。あらゆる芸術を取りこむことに余念がなく、またそれを部員に与えることにも惜しみを出さない。それに魅せられた哀れな子羊を野原に放りだすことはまずないのだから甘えるしかないのが常々だ。俺の突然の発想にも柔軟に対応してくれるのは、自分の意識と同じくらいに他人の意識を尊重してくれる性格にある。嫌な顔はしてもそれを拒むようなことはない。彼女を時期部長にと選んだ先輩の裁量は正しかった。部内会議中に誰一人として疑問の表情を浮かべなかったのも当たり前のことだと言えた。
「私の印象だとガラッと雰囲気を変えるみたいだけど」考えこむように上目遣った。「下絵はできてるの?」
「下絵の変更はそんなにないから大丈夫だと思う」
「あくまで雰囲気を変えるだけって? カラーリングと下書きから察するに、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、『眠るパリの街を見おろす聖ジュヌヴィエーヴ』ってとこかな?」
 誰だそれは。なんだそれは。
 全然ピンと来なかったが千葉がそう言うのだからきっとそうなのだろうと思い「ああ」と頷いた。
 千葉の表情が柔らかくなる。
「いいんじゃない? 下書きを見たときからいままでと違うなって思ってたんだ。阿部はずっと風景画とか静物画ばっかだったから、そういうのいいと思う。象徴主義っぽくて」
「そういう話は顧問の菊池とでもやればいい」
 ついていけない話に沈みこみそうだったので俺はここで白旗を上げておく。
 どうせ同じ部活なのだしと、部室まで二人で行くことになった。女子にしては速い歩調は男子の俺と同等のスピードで、俺が薄情に置き去るような光景には至らなかった。
 俺は美術部に所属している。
 そう言えば大概の人間は“嘘だろ”と首をキリンのように伸ばしてきた。
 中学時代、地域のアメフトチームに参加していたせいか、俺の体格はいかにもスポーツマンというほどしっかりとしていて、運動部にも負けないくらいには筋肉質だった。学校内ではいまと同じく美術部に所属していたが、キャンバスの運びこみや用具の出し入れなど、貴重な男子部員だからという理由で力仕事の一切を任されていては、ひ弱とは程遠い上腕二頭筋に仕上がるのは自明の理。制服を着こんでもわかるオトコマエな後姿は、デッサンのモデルになってほしいと千葉の頬に羞恥の朱を散らせることなく大真面目に懇願させるほどの力があった。
 鍛えあげたスタミナやコンパスの長さを生かして、高校からは陸上部に入ろうと思っていたのだが、気づけば美術部に足を運んでいるあたりが俺の気質。今では立派なスポーツマン筋肉質系美術部男子を他称させてもらっている。部員数の足りていない運動部に助っ人として頼まれることもあったが、俺の興味が絵画から逸れるようなことはまずなかった。
「あ」
 千葉は思い出したように呟く。
「なんだ。忘れ物か?」
「ううん。私、これから毎週金曜日だけは部活に遅れると思う。菊池先生がいるから大丈夫だと思うけど、部室の鍵が開いてなかったら各自が取りに行くように。これ、みんなに言ってあるから」
「了解。なにか用事でも?」
「図書委員を任せれちゃってね。金曜日の放課後は受付カウンターに立たなきゃいけなくなったの。とは言っても臨時だから、一ヶ月くらいでなくなると思う。受付も三十分でいいらしいし」
「こんな時期に委員なんて任されるか? 前期も後期も一学期の最初に決めるだろ」
「しょうがないよ」千葉は周囲にその名を聞かせないよう声を抑えて続けた。「後期の図書委員、丸太さんだったんだから」
 薄い膜の張っていた記憶から一片を取りだしてみる。丸太朶衣の葬式があった朝、千葉のいるクラスがくっきりと空だったのを思い出した。失念していた。そういえば、丸太朶衣と千葉は同じクラスだったのだ。
 死んだ後期の図書委員の席を臨時にでも誰かが埋めなければならない。千葉が代打として図書委員になったのは、きっとそういうことなのだろう。
 丸太朶衣の名前を出してから空気が変わる。ピリリと暗い電気を帯びた、妙な緊張感のある空気になった。それは、小さな石でも投げれば一瞬で元通りになりそうな仮初のものだったけど、生憎その石を投げてくれる者が周りにいなかった。
「……私ね、丸太さんとはそんなにしゃべったことなかったんだ」
 意外にも、千葉は話の輪を広げてきた。
 そのことには些か驚いたが、無理矢理話を変える気にも俺はなれなかった。
「でも、クラスメイトがいなくなっただけで、やっぱりなんかショックは受ける。教室に残った丸太さんがいたっていう痕跡が見つかるたびに、みんな変な顔するの。氷みたいに固まっちゃうっていうか。図書委員の代わりがいるって発覚したときだって、誰も口を開かなかった」
「……お前が立候補したのか?」
「うん」
「えらいじゃん」
 頭一つ分下の位置で吐息のようなものがこぼれるのがわかった。音の切れ端に笑みが見えるのは、千葉が安堵しているからだろうか。
「図書委員って面倒だろうな」
「そうでもない。あんまり人来ないって。うちの学校、部活の所属率高いし」
「行く意味あんのかよ」
「ないとは言いきれないじゃない?」
「そうだけど」
 でも、図書委員なんて地味な仕事だな。
 既にいない後期図書部員は、目立たないほうが好きなのかもしれない。



◇ ◆ ◇




 丸太朶衣は目立たない女子生徒だった。
 不謹慎な言いかたをすれば、死ぬまで誰かもわからないような、そんな物静かな人間だった。
 友達が少ないかと言えばそうでもない。根暗という表現も微妙に違う。よくある学校生活をよくあるふうに楽しんでいる。そういう意味での派手目のない、目立たないやつだった、ということだ。
 たとえば、丸太朶衣が死ぬ一ヶ月前にあった合唱コンクールでのことだ。
 隣のクラスだったからなんの歌を練習するかも丸聞こえで、学年一律の課題曲とは別に、サビにかけてが爽やかで美しい『COSMOS』という曲を自由曲にしていた。熱意のある担任教師のおかげでまとまりがよく、男子パートも女子パートも整った歌声を奏でていて、優勝候補のクラスとして挙げられていたのを覚えている。千葉から聞いた話だが、クラスにピアノを弾ける人間があまりいなくて伴奏者を見つけるのには苦労したらしい。中学までピアノを習っていたという丸太朶衣が半ば押し上げられる形で伴奏者となり、本番でもミスのないメロディーを披露してみせた。伴奏者は真っ黒いピアノに隠れて姿が見えない。観客が見るのは唯一背を向ける指揮者、聞き比べるのは豊かなハーモニーを生みだす歌い手のみ。結果は二位の優秀賞で、音楽部として現役でピアノを奏でる女子生徒のいるクラスが最優秀賞を貰っていた。結果が発表されたとき、丸太朶衣のクラスは歓声のなかにも、一位になれなかった悔しさの雑じった顔があった。その悔しさの分もはしゃいでお祭り気分に浸るなか、出席番号順に並ぶ列の真ん中あたりで小さく口元を緩ませるような、人知れず喜びを噛みしめる少女が、丸太朶衣という人間だった。


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