赤毛の悪魔(2/4)




 してやられた。
 まさかあの若者に自分がどうこうされるなど思わなかった。
 まだ口の中にあのおかしな紅茶の味が広がっている。イヴは顔を顰めた。
 ジャックの狙いはオズワルドだ。あの妄執ぶりからは、アンプロワイエであるという責務以外のなにかを感じる。それも、《ハンバート・ハンバート》がセレナータに向けていたような、性質の悪いもの。単独でオズワルドを追っているあたりがそれを伺えるというものだ。他のアンプロワイエを使わないのも、自分以外が信用できないから――などという堅物な意固地による代物では、おそらくないのだろう。そんなものよりも人間的に狡猾で、狂ったような感情からだ。好奇。支配欲。独占欲。なんにしろ、気味の悪い。
 自分たちのことは調べられていた。だとしたら、卑弥呼とオズワルドがどのホテルにいるかくらいも知っているはずだ。イヴが眠ってから一時間半。事を起こすには十分すぎる時間だ。寝起きの体お振り絞るようにイヴは走り抜ける。
 更けない夜を薔薇で謳歌する街を走れば、数分ほどでホテルに着いた。エレベーターを使うのも煩わしく、イヴは階段を駆けのぼる。借りていた部屋の前についてドアノブを押してみる。案の定ドアは開いていた。もう言葉遊びの合言葉は意味を成さない。強張る表情を浮かべ、イヴは部屋に入った。
 短い廊下の先はここから見る限りでも乱れている。玄関付近に落ちていた紙を跨ぎ、焦った気持ちで先へと急ぐ。オズワルドと卑弥呼がいるはずの平和な部屋で、嫉妬狂いしたかのような惨事が滲みこんでいた。
 家具は滅茶苦茶になっていた。獣の爪跡のような歪みが部屋の壁を蹂躙している。シーツも乱れ、テーブルにあったグラスは氷と見分けがつかないほど砕け、そして床に散らばる金属片。見たことがある。これは卑弥呼の義手の一部だ。
 視界の端でもぞりとなにかが動く気配がした。ベッドの隣、陰に隠れるように仰向けになっている人間がいる。イヴはそれに駆け寄った。そこには義手のもぎ取られた卑弥呼が頭から血を流して倒れていた。
「おい、卑弥呼」
 イヴは重い体を起こしてベッドを背凭れにさせる。卑弥呼は朧げに瞼を開けていた。
「しっかりしろ、大丈夫か卑弥呼、卑弥呼」
「……イヴか」卑弥呼は覚醒した途端に痙攣するように体を振動させる。「オズワルドが!」
「ああ」
 卑弥呼の言葉にイヴはそう返す。これだけ乱れた部屋で、辛うじて卑弥呼のいる部屋で、彼女の姿はどこにもいない。つまり、そういうことだ。オズワルドは連れ去られた。
「だろうとも」
 イヴの返答に卑弥呼は眉を寄せる。それから苦々しそうに口を開いた。
「だろうともじゃねえ、違うんだイヴ、お前が帰ってくる前に赤い男が」「いや、知ってるさ。このことに関しては多分、お前よりな」
 その言葉に卑弥呼は押し黙った。イヴの顔を見つめて目を細める。
「お前の傷の手当てをしながら説明する。だから落ちつけ。お前の頭はどうしたんだ」
「…………いや……これはぶつけた、っていうかぶつけられただけだ。そんなに酷いもんじゃねえよ。オズワルドがどこのどいつに攫われたのかお前はわかってんのか?」
 イヴはありったけの救急道具を掻き集めながら言う。
「ヘルヘイム収容所のアンプロワイエ、《ジャック・ルビー》という男だ。収容所時代のオズワルドの拷問官をしていた。あの男は俺にも接触してきた。狙いはオズワルド一人だけ。俺もお前にも興味はないらしい。だから指名手配の出回る囚人の俺たちであっても捕獲をしなかった。オズワルドで手一杯なのになんで大の男二人も輸送しなきゃならないのか、とかなんとか思ってるんじゃないか? ラム・アルムを所持していることから精鋭であると推測される。以上が俺にわかることの全てだ。質問は?」
 適当に消毒して卑弥呼の頭に包帯を巻いておく。傷はそこまで深くなかったため、止血さえできれば、あとは自己治癒でもなんとかなるだろう。縊るようにもがれた義手のほうはどうしようもなかった。イヴの手で修復するのは不可能で、歪な繋ぎ目は宙ぶらりんに死んでいる。じっとしている卑弥呼は、暫くのあと、重く声を吐いた。
「さっき、あいつが拷問されてたって言ったよな。イヴ」
 卑弥呼は真顔で言った。
 イヴは肯定のつもりでなにも言わなかった。
「あいつは、拷問をされなきゃいけないような事件の濡れ衣を着せられていたのか?」
「ツァドキエルの眠り事件」卑弥呼が目を見開くのと同時にイヴは言葉を続ける。「エグラド国民でまず知らない者はいない。一代前の首相が暗殺された事件。その容疑をかけられ犯罪者として囚われたのがオズワルドだ。嘘を本当にするために、オズワルドの口から自白を迫ったんだろう。そのための拷問官だ」
 あの嘘をつかないのを当たり前とする、本当のことを無邪気に口にする、不器用で要領の悪い少女のことだ。なにをされても、どんなことをされても、自分のやっていないことを認めるなんて、そんな賢い真似はしなかったんだろう。そのせいで悪夢が続こうと、きっとだ。だから二年もあの男に苛まれなければならなかった。それがどれだけ愚かな選択かも知らずに。ただ自分がやったと嘘をつきさえすれば、悪夢のような拷問からきれいさっぱり解放されただろうに。
「拷問官に連れ去られたってことはつまり、オズワルドは今、ヘルヘイム収容所にいるってことか?」
「どうだろうな」イヴは包帯を固定して鋏で切る。「ジャックは独断で動いているようだったし……でも、そうだな、確かに現時点では、オズワルドはヘルヘイム収容所にいる確率が一番高い」
 オズワルドが寝かしつけられていたベッドを見つめる。あの華奢な体が沈んでいた繊維の塊には皺が寄ってはいるがそれほど乱れた形跡はない。おそらく眠ったままに攫われたのだろう。意識もなく大した抵抗もできずに連れ去られたに違いないが、たとえ目が覚めた状態であったとしてもまともな抵抗ができたとは思えなかった。昼の取り乱しようからするにオズワルド自身もジャックにただならぬ恐怖を感じている。もっとも、二年も自分を拷問してきた相手にそういった感情を抱かない者などいないだろうが。





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