馬鹿は首を吊れ(2/4)




「これだから、お前のような頭のないやつは嫌なんだ。考えが足りない、そもそも、自分ではなにも考えない……馬鹿だということを自覚せずに笑っているだけの能天気」
「……哀王、言いすぎだ」
「そうよ、言いすぎよ」
 お前が言うのもどうだろう、とイヴはオズワルドに対して思ったが、己が初めに言い返したことなので、なんとも言えない気持ちになった。
「お前は、そっくりだ……俺の部下だったやつに」
 カラカラと、キャスターが地面を走る音が聞こえてくる。それは銀光りするパイプ棚だ。棚にはエンジンボックスらしきものがずらずらと並べられていて、二人がかりで押されるように運ばれている。移動するパイプ棚は、別方向から押されるリネン用のランドリーワゴンと交錯した。
「馬鹿を隠しもしないその顔も、見ているだけで不快になる」
 哀王の呟きに、オズワルドは「どうしてあたしが馬鹿だってわかるの」と少しだけ顔を顰めていた。図太い返答を寄越すだけのその無邪気さに、イヴは恐れ入りそうになる。正直なところ、イヴとしては、俄然雲行きが怪しくなってきた、と感じていたところだった。顔には出さなかったが、オズワルドの分まで、イヴこそが懸念していた。
 哀王は、ランドリーワゴンに引っ掛かった細いロープを見つめながらに言う。
「なら……アナグラムは得意か?」
「アナグラム?」
「そうだ」
 哀王はにやりと、けれど下品な感じもなく、むしろ冷たく淀んだように笑った。
 どういう意図があるのか、イヴには測りかねて、気まぐれにあたりを注視する。
「たとえば――“墓を作れば美”」
 哀王はすぐさまアナグラムを出題する。
 言葉遊びのなかでもアナグラムの艱難性は高く、言葉の字数階乗の並び替えが可能であり、出題する側も回答する側も困難なゲームだ。しかし、哀王が出題したということは、彼のなかで組み換えは完了している。
 イヴもキャスターの音を聞きながらぼんやりと組み替えた。イヴは数瞬ほどのあいだで組み替え終えたので、すぐさまオズワルドに叫ぶ。

「逃げろオズワルド!」

 それは、哀王がワゴンに掛かったロープを引っ掴んだのと、同時のことだった。
 オズワルドはイヴの言葉に、迷いも動揺もなく走り去る。哀王は舌打ちしながらロープを諦め、オズワルドの後を追った。そして、その彼の背中をイヴが追う。
 区画整理された“亜終点”では、地の利は哀王にあった。どれだけオズワルドが逃げようと、その一点は揺るぎない。せめて五分と五分の勝負に持っていかなければならなかった。
 イヴはオズワルドをどうやって逃がそうか思案する。そのとき、前を走るオズワルドが、きょろきょろとあたりを見回しているのがわかった。ついに彼女が見つけたのは、さきほどの通りすぎたキャスター付きのパイプ棚。オズワルドはそれを思いっきり押し倒して、障害物を作る。それに哀王は引っかかり、見事に足止めを食らった。よし、とイヴの口角は吊り上がる。落下してダメになったエンジンの破片を踏み潰して、イヴはオズワルドを追う。
 貨物倉庫のような外観をしたエリアに入ると、大きな棚の羅列に段ボールが押しこまれている群れがあった。そこに紛れるようにして、オズワルドは身を潜めた。
 イヴは顔を濁らせる。たしかに、一時的に身を隠すことはできたが、身を隠す行為というのは、この場合はあまり賢明な判断とは言いきれない。イヴの見立てでは、この空間から抜け出せる出入口は入ってきた一箇所しかなく、最後には追いつめられて終わりだ。
 そして、哀王も追いついた。イヴには目もくれず、彼は棚の群れからなる通路を一つずつ確認しながら、端へ端へと移動していく。イヴもその後を追うが、どうも彼のペースはイヴより早い。小慣れているのだ。棚を掴みながら一秒未満で視線を巡らせ、次の棚へと移動していく。ガシャンガシャンという荒っぽい音が奥へ響いていくのを、焦る気持ちで聞くしかなかった。
 とうとう哀王が一番端の列まで行ったと思うと、哀王の足が止まる。オズワルドが見つかったのかと思ったが、視線の先に彼女はいない。イヴはそれを疑問に思い眉を顰めるも、すぐにその理由がわかった。
 首が痛くなるほど仰いだ棚の上を、見慣れたシルエットが危なげに飛び移っていくのが見えた――オズワルドだ。
 バサバサと段ボールを蹴散らしながら、棚の一番上にまで登りつめていたオズワルドが、ひょいひょいっと跳びながら、出入り口のほうへと走っていく。
 哀王もイヴもそれを追うように引き返した。しかし、オズワルドの動きには迷いがなく、落ちて大怪我を負うことに対する怯えもない。棚と棚との大きな幅をテンポよく飛び越えていった。そして、出入り口から一番手前の棚まで戻ると、足場にしていた棚の段ボールをありったけ地面に落として、それをクッション代わりに飛び降りる。
 イヴはハッと苦笑するように吐息する。
 哀王が棚を鳴らしながら移動していたため、イヴは気づけなかったが、オズワルドは棚の陰に身を隠していたのではなく、その棚を登ろうとしていたのだ。
 突飛というか驚愕というか、彼女の行動に清々しささえ覚える。
 とうのオズワルドはまだ先を走る。けれど、速度は落ちているし、いずれは追いつかれる。それを悟っていたのか、オズワルドは走った先にある鉄骨のタワーに近づく。それはアーチ状の天井まで長く伸びていて、先にはクレーンのフックがぶら下がっていた。
 哀王は「まさか」と荒い声で無意識に呟くが、オズワルドの表情は真剣そのものだった。
 オズワルドはそのフックに足をかけ、ワイヤーロープを掴み、体重を全て預けたかと思うと、鉄柱を強く蹴る。
 ガラララララッ、と連続的な甲高い音が響き渡り、“亜終点”で何度も反響した。クレーンはどんどんと折れるように前に進み、それに伴ってフックも離れていく。オズワルドを乗せたまま、それは追ってくる二人から逃げるように、火花散るスピードで遠ざかったのだった。
 哀王との差が五十メートルも開いたあたりで、オズワルドは飛び降りる。下手な着地をしたあと、スカートを払わないまま立ち上がった。
 オズワルドが大した身体能力を持ち合わせていないことを、イヴは知っている。運動神経は並かそれ以下、なによりもさっきまで肉体労働をさせられていたおかげで、体力的にも限界がきている。元より、そんなに運動の得意な少女ではないのだ。初めて会った日、アンプロワイエから逃げるために窓から飛び降りたときだって、彼女は着地に失敗して見事な尻もちをついていた。
 そう、彼女は身体能力が高いわけでも体力があるわけでもない。
 けれどそれを、行動力で補っている。
 高い棚をよじ登って渡り歩く、クレーンで滑るように走る――どれも十六歳のか弱い少女がするような発想ではない。きっと危険性だとか深い考えもなしに行動したのだろうが、それがいい方向にはたらいている。なんの迷いも疑いもない行動はまっすぐで力強い。彼女はきっとロープ一本さえあれば、深夜を泳ぐ飛行船からでもなんの躊躇いもなく飛び降りられる。





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