馬鹿は首を吊れ(3/4)




「……ははっ」
 イヴは笑った。思わず口からこぼれでた、小さな吐息だった。どういう感情から来るものかはイヴにも測りかねたが、オズワルドという少女を興味深く思ったことだけはたしかだった。
 体力で詰まっていたはずの、オズワルドと哀王の差は、完全に開いた。哀王はスピードを上げる。
 差しかかったのは露店のエリアだ。濁った色の布が、垂れ幕のようにロープで吊り上げられている。そのテントの影を潜るように、オズワルドは走っていた。普段なら目を輝かせていたであろう果物たちを全て無視して、オズワルドはきょろきょろと視線を彷徨わせた。
 なにをする気だとハラハラしながらも、なにをしてくれるんだという好奇心のほうが、イヴにとっては強かった。
 オズワルドはある場所で足を止める。息を整えながら、ある台に近づいていった。そこにはあのとき話したライフルが、少し前に見たときと同じように寝転がっている。まさか、とイヴは瞠ったが、その通りだった。オズワルドは一つの小振りなライフルを持って、哀王やイヴのいるほうへ銃口を向ける。
 哀王は戸惑うように静止した。その彼の反応から、あのライフルに弾が入っていることがわかった。イヴは少しだけ冷や汗を掻く。
 しかし、オズワルドはそれを構えた瞬間、重そうにふらふらとしだした。当たり前だ。ライフルはそんなに軽いものではない。成人した男が持ったって照準に合わせるのには相当な神経と腕力を使う。バランスを取ることが難しいのだ。あれではライフルは使いこなせない。所詮は浅知恵だ。
 哀王はオズワルドの自棄になった乱射に警戒しながら、ゆっくりと近づいていく。
 暫しのあと、オズワルドは顔を上げた。そこに怯えはない。ただ構えを少し変えた。横顔を見せるように体を翻し、突きだした腰の上に、ライフルのボディを掴んだ片手の肘を乗せた。
 オズワルドのその姿勢に、イヴは目を見開く。

 インラインスタンスで肘を腰に乗せるヒップレスト姿勢――ライフル射撃競技で女性が立射のときに用いる、静的射撃体勢だ。

 マイクロサイトからオズワルドの真っ黒な瞳が覗かれたと思えば、彼女は引き金を連続して引いた。
 それは四つの弾線だった。乾いた音が響いたかと思うと、イヴと哀王の視界が、布一色に塗り潰される。突飛なことに、イヴも哀王も溺れるようにもがいた。
 イヴは手足をばたばたと動かし、なんとかその布の罠から逃れる。布越しで湿気た空気から新鮮なそれへと変わったとき、イヴは振り向いて、未だに出口を探す布越しの哀王を見た。
 纏わりついていたのは、ほつれの多い布――これはロープで吊るされていた、あの大きな布の一枚だ。オズワルドは、吊っていた四つ角のロープを狙って射撃したのだ。そう察したイヴは、哀王を見捨てるように、オズワルドを追いかける。
 もがいていたときはそれで頭がいっぱいだったが、クリアになった視界のおかげで、イヴは自ずと思考することができた。
 あの、オズワルドの構え。あれは素人が直感や想像でできるようなものではない。ライフル射撃競技者の構えだった。
 ああ、そうか、とイヴは納得する。二人が哀王にライフルを見せてもらったとき、“実物を見るのは初めてか”という質問に、オズワルドは否定の反応を示していた。後に“家にあったの”と言っていたから、金持ちの道楽として父親か誰かが所持していたのだろうとイヴは思ったが、そうではない。所持していたのはオズワルド本人だった。
 ライフルは上流階級のお遊び。そしてそこに性差はない。オズワルドは嗜みとして、ライフル射撃競技をやっていたのだ。それも、十メートル離れたところから、細いロープを撃ち抜けるほどには。
 オズワルドを追っていたイヴは、閑散としたエリアにまで移動していた。オズワルドはライフルを携えたままだった。重いせいか上手く走ることができず、さっきよりもいっそうスピードが落ちている。
 あたりはまるで建物が丸ごと捨て置かれたかのように、形の良いコンクリートが並べられていた。上のほうには緑色の腐食を帯びた木材と有刺鉄線、工事現場にあるようなリフチングマグネットが無造作に生えている。窓枠らしき壁からは、埃の積もった金属が見える。まるで廃墟だ。
「オズワルド」
 イヴが声をかけても、オズワルドは振り向かない。逃げるのに夢中になっているため、イヴの声が聞こえていないのだ。オズワルドはコンクリートの瓦礫の隙間から、鼠のように山の中に入った。梯子のようななにかを登っていく音が聞こえる。
 イヴは顔を上げた。きっとイヴの体よりも上のところに彼女はいる。逃げろとは言ったものの、まさかここまでやるとは思ってもみなかったのだ。自分すら彼女を見失ってしまったことに、最早、失笑しか出てこない。
「出てきてくれ、オズワルド」
 声を張り上げるようにして、イヴは言った。
 ここは砂漠でも海の上でもない。声は反響して、また自分の耳へと返ってくる。響きがやんだ静寂。カンカンコン、と石が転がる音がした。イヴはそのほうへと向き直って、落ち着いた声で言う。
「もう逃げなくてもいいから」
 返事はない。姿も見せない。
「……俺から逃げろとは、言ってないよ」
 ぽつんとした呟きだった。ちゃんちゃらおかしい逃亡劇に疲弊した、呆れの声でもあった。
 イヴが溜息をついたとき、ごそっと視線を遣ったほうから人影が現れる。
 地面から五メートルほど離れたところから、オズワルドが見下ろしていた。長い黒髪が顔の輪郭を隠して窓枠から垂れ落ちている。
「だけど、誰から逃げればいいかや、いつまで逃げればいいかは、言われなかったわ」
 意地悪な頓知じみた言い訳を、オズワルドはした。
 イヴは肩を竦める。
「哀王から、安全だと判断できるまで。気づいてた? お前は地雷原の上をスキップしていたけど」
「カイコの上で座りこんでいたのよ」
 この娘は永遠に気づかないんだろうな、とイヴは思った。どうやら致命的に、人の感情の機微に疎いのだ。悪意のない天性のものだから、それ故に性質が悪いのだが。
「おいで。哀王と仲直りをしよう」
 イヴの囁きに、オズワルドは「えっ、あたしたち、喧嘩してたの?」と首を傾げる。イヴはあえてそれを無視した。
「哀王から……端的に言うと、仲間にならないか、という誘いを持ちかけられている。ただ、お前と哀王の仲には懸念が多い。現状がこのザマだ」イヴは続ける。「欲しいんだろう。仲間が」
 オズワルドはウーンと首を捻る。なにを考えあぐねているのか、イヴには分からなかった。もしや仲間とナマコをまた混乱させているのかともイヴは勘繰ったが、オズワルドはへらりと笑って言った。
「痛くて、怖いことは、されないかしら」
 イヴは少しだけ目を見開き、つられて苦笑する。それからオズワルドのほうへと手を伸ばして、柔らかい腕の中を晒した。
「それは、お前次第」
「あたし? 哀王じゃなくって?」
「すまないが、これに関しては俺もお前を庇えない。少なくとも、庇うつもりはあんまりない」
「んま。酷いわ。イヴも、痛くて怖いこと、するつもり?」
「まさか。お前の嫌がることはなに一つだってしないから降りてこい」イヴは眉を歪ませた。「いい加減に、腕が疲れた」
 彼女は無邪気に笑う。
 やはり考えもなしの、迷いのない行動で、オズワルドはエアライフルも置き去りに、身一つでそこから飛び降りた。
 命綱のロープもいらないのか、とイヴは心中で驚いた。オズワルドは揚々とイヴの腕の中に飛びこんでくる。勢いのまま、二人揃って地面に潰れた。案外重かった彼女の体を抱きしめながら、イヴは少しだけ体を捩った。
 苦しさに耐えかね、退くように言えば、彼女はいそいそとイヴから離れた。走り続けて上気した頬が、にんまりと柔らかい双丘を作る。
「喉が渇いた」
「水でも飲むか」
 一息つきかけたときに、オズワルドの後ろに男が近づいてくるのが見えた。
 気づいたものの、イヴの反応は遅れた。
 その男はオズワルドを自分のほうへと振り向かせ、胸ぐらを掴んだかと思うと、彼女の顔に拳を抉りこんだ。華奢な体は横薙ぎになり、再び地面へと叩きつけられる。イヴは強く息を呑んだ。

「“馬鹿は首を吊れ”」

 その男は哀王だった。
 殴った彼の拳には、血がついている。イヴが倒れたオズワルドに目を遣ると、鼻血を出していた。顔を押さえる彼女の指から、赤が漏れる。
「アナグラムの答えだ。馬鹿」
 いっとう冷えた声だと、イヴは思った。
 哀王の目にはオズワルドに対する悪意しかなかった。





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