02
「なにを信じればいいか、わからなくなったことってある?」
いきなりの、話題転換。
母さんは何食わぬ顔でトーストを咀嚼しながら、俺のほうを見ることもなく問いかけてきた。
「なんだよ、いきなり」
「母さんはあるわよ。まずお天気お姉さんの予報が外れたときね。あとはお気に入りのスカートのチャックが閉まらなくなったときとか、今日がゴミを出す日だと思っていたら実は昨日だったときとか」
「最後のは結構自業自得だよな」
俺は呆れたように呟いた。
母さんは、時々こうなのだ。まるで何かに触発されたかのように、神の啓示でも授かったかのように、ずっと言い迷っていたことを突然放つかのように、俺に何やらよくわからん質問をすることがある。確か前は何故男女と性別が別れているんだと思う?=Aその前は好きと嫌いの決定的違いってなんだと思う?=A論点は右往左往縦横無尽し、どこに行き当たるか全く予想が掴めない。将棋で言う桂馬、チェスで言う――知らない、俺はチェスなんて嗜むジェントルマンじゃないもんで。
「ねぇ、正義」
「なに」
「アンタはそんなことある?」
未だにこちらを見つめない。視線は心行くまで通わずに、俺を見据えることは有り得なかった。それでもその意識だけは完全に俺に向いていて、どうにも居心地が悪い。
「まあ、そこはもう答えなくていいから、一つだけ言っておくわ」
時々思う。
「信じる前に、付き合わなきゃいけないときだってあるのよ」
なんで母親ってのは。
こんなに間がいいんだろうか。
「おや、正義、おはよう。昨日は傘に入れてくれて本当にありがとう」
教室の空気はまだ、開け放たれて間もないほどの薄ら寒いものだった。風がないという点以外ではあまり外とは変わらないように思う。陽のある利点を鑑みれば案外どっこいだ。
日誌を持って教室に向かった俺を清々しい態度で出迎えたのは、一番乗りと言わんばかりのしたり顔をしていた口虚だった。俺はガラリと後ろ手でドアを閉める。
「早いな、口虚」
「早いよ、勿論。今日は天下の終業式なんだからね」
母さんといい口虚といい、生憎二学期の終わりという意味しか持ち合わせていない今日の終業式に何を求めているというのだろうか。俺は心中で呟いた。
窓にはまるで絵画のように、きっちりと区切り取られたような葉のない木々が横断していて、その苛烈なまでの存在感と言ったらなかった。こっちから見ると、口虚を背後から貫いているように見える。それが少しだけおっかなくて、鳩尾のところから鳥肌立つような寒気が広がった。
「それで、口虚。お前のそれはなんだ?」
「ああ、これかい」
俺が来るまで口虚が従事していたであろうそれ≠ノ目を移す。授業で使うようなノートよりも数段階大きなサイズをしたスケッチブックだ。リングの部分はふやふやと軟く折れていたり、ジッパーのような形を描き千切れていたりなんかもした。手元にはシャーペン。そして色鉛筆が広がっている。ざっと見ただけでも三十色は優に超えているであろう本数だった。綺麗にグラデーションして並ぶその細長い棒は、ある色が極端に短かったり長かったりしている。それなりに年期が入っているようだった。いつ頃から使っていたのだろう。
「実はね、恥ずかしながら美術の点が足りないらしいんだ。木工パズル。残念なことに私はまだ木板をカッティングすることさえ出来ていないんだよ」
「そりゃ間違いなく単位が無いな」
二学期の美術の成績はその木工パズルの完成度でつけられているはずだった。筆記、所謂定期テストの無い科目である美術は、日々の作品の出来で優劣をつけるのである。その授業作品が完成されていないとなれば、点数は実質ゼロに近い。今まで何をやっていたのだろうか。まあ何もやっていなかったんだろうけど。
口虚は視線をスケッチブックに持っていったまま、苦笑交じりに言う。
「本来なら二学期の成績としてではもう間に合わないみたいなんだけど、特別に待ってあげるから、せめて何か描いてこい、と先生がおっしゃってくれたんだ」
「お優しい限りだな」
「全くだよ。あの先生の手は温かいか冷たいかのどちらかだ」
「どちらでもない人間なんているかよ。にしても、何か、って?」
「さあ」
その答えの通り、口虚のスケッチブックは真っ白そのものだった。一度何かを描こうとして消した素振りすら見られない。
「せめて題材が欲しいものだね。このままじゃ白紙で提出することになってしまうよ」
「提出する意味ないだろそれ」
「タイトル。私の心」
「どす黒く塗り潰した方がらしく見えると思うぞ」
「ならばタイトルが変わってしまうじゃないか」
俺は呆れた吐息を漏らしかけて。
「タイトル。私の不安」
それを辞めた。
というより。
辞めさせられた。
自分のコントロールを放棄したみたいに、俺は自然と一時停止する。
口虚は、数ある色鉛筆の中からいっとう哀しい色を選び抜いて、ぐりぐりと紙面を埋めていく。絶妙に凹凸した紙は奇妙なテクスチャを生み出し、その塗り潰すだけの行為がより拙く幼く見えた。
俺は、やっとの思いで口を開く。
「……お前に不安なんてあったんだな」
「ふふふ、正義は私をなんだと思っているんだい?」
俺の言葉に苦笑する口虚。
次は、色鉛筆の中でもいっとう凄惨な色を選び抜いた。
「私だって不安という感情はあるよ。当たり前じゃないか。人間だもの」
「まあ、そうだろうけど」
意外なものは意外なのだ。普段のこいつは不遜とも尊大ともとれるような態度でいる。そんな態度で、嘘をつく。嘘をついて他人を傷付ける。
足水と言い合ったあの日だって。
――君は、雌豚だ。
――そこの君の足は大根みたいだ。
――自分で嫌にならないのかい?
突拍子もない罵倒を浴びせて、何食わぬ顔をしてみせた。何をするにも飄々と超然としていて、不安なんて女々しいものはないように思っていた。それは口虚が雄雄しいという意味ではなく。なんだろう。どこかそういう、狡さみたいなものがあるように感じていたのだ。
そう、感じていた。
だというのに。
「不安だよ」
「………口虚?」
「今も不安だ、本当は今にも泣きたいよ」
紙面を走らせていた手を止めて、使っていた色鉛筆を定位置に戻した。次は、数ある色鉛筆の中でもいっとう切ない色を選び抜く。なんの規則性もなく、ぐりぐりと、さらにその一面を埋め尽くしていった。
「言っただろう? 正義。私にはもう時間がないんだ」
「時間が……ない」
前にもそんなことを言っていた。
――私もそろそろ例の《期限》が近いからね。
――学生の本分片手間、《正義の味方》本分にも勤しまなければならないのだよ。
「そうさ。また今年も私は、何も出来ずに、《正義の味方》として何も出来ずに、こうして終えてしまうんだ」
今までじっと見つめていたスケッチブックから視線を剥がして、逸らすことすら忍ばれるような眼差しで俺を見る。黄金の冠に埋め込まれていそうな煌めく瞳は、酷く哀愁が漂っていた。
「不安で堪らないよ」
口虚は疲れきったような顔をしていた。実に奴らしくない表情だった。
疲れきって。
憑かれきって。
まるで全青春を謳歌し終えた人間のような、このあとどうすればいいかもわからない、途方に暮れた顔つきだ。寂寥感を黄昏と一緒くたにしているような顔色。それこそ、今奴が新たに選びぬいた色そのものだった。
しかし今は朝。
夕暮れには程遠い時間帯。
勝手に黄昏てはいられない。
ふっと息を吐いた後、奴はいつも通りの笑みを浮かべる。
「愚痴をこぼしてしまったね」
申し訳なさそうに肩を竦めて、口虚は言った。
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