03


 不意にスケッチブックの紙面を見つめると、ものすごいことになっていた。仰々しいくらいの絵――いや、これを絵と呼ぶ者は世界中を探したって一人として見つからないであろう、奇妙なその色の調べたちは、突き刺すような威力で俺の視界を埋め尽くしてくる。批評させていただくと、成績はともかくとして毒素は満点に違いなかった。形容するならプラスチックを通した光が石油に塗れた花々を照らしているような、そんな、奇妙で絶妙で微妙な危うさ。危うさ。儚さ。絶望感に煮た、焦燥感。
 美術の苦手な俺にも絵画の批評が出来たのかと感服する。まあこれは絵画じゃないのだから当たり前なのかもしれない。
 これはまるで、悲鳴のようだった。
「すまないね、正義」
 ……考えすぎかもしれない。こいつは口虚絵空。あの《嘘つき》口虚絵空なのだから。
 いつもの突拍子のない行動。
 構ってほしいばかりの演技。
 そういった、《可哀想》な行為なのかもしれない。
俺はなんとかこの微妙な空気を変えたたくて、昨日言われたことをそのまま奴に言うことにした。
「三学期からは俺以外に任せられるらしいぞ、学級委員」
 いきなりの俺の発言に、口虚は数度瞬きをした。まるで星すら飛ばしてそうな、ティンカーベルが撒き散らす光の麟粉を髣髴とさせるそれだった。
 俺をじっと見つめている。
 ――どういう意味かな。
 意図を推測するとしたらそういったものだと思う。
「なんでも、次の委員長は足水らしい」
「へぇ」
「まあしっかりした奴だから安心は出来るが、副委員長が住人なのがいけないな。あんなお調子者にクラスを預けてどうするつもりだ、とは思うけど。この面子なら三学期を大いに盛り上げてくれそうだ。ある意味適任かもしれないな」
「そうかい」
 口虚の眼差しは変わらない。相変わらず健気に俺を見つめている。
「まあ、ある意味、いいタイミングだったのかもしれないな。俺もしんどいと思っていたわけだし」
 口虚は何も言わない。何も言わずに、俺の続きを待っている。
「俺は委員長じゃなくなるんだ、だから」
 次からは。
「俺じゃなくて、他の奴に頼るんだぞ」
 口虚の、さくらんぼみたいな唇がひゅっと動く。
 何かを言おうとしているようで、でも何も言わずにいる。
 口虚絵空は――知らない。
 俺が阿久津先生に、委員長が故に口虚の面倒を見てくれと頼まれていたこと。
 きっと奴は、俺が当たり前のようにこいつの傍にいたことすらわからずにいた。
 わからずに、というか、本当の本当になにもわかってないんだ。
 なんの意識もなく、俺と一緒にいたはずだ。
 面倒を見ている見られていない。
 手を焼いている焼かれていない。
 世話をしているされていない。
 そういうものは何もなしに。
 奴はただただ俺といただけだった。
「………うん」
 だから、俺の言葉の正確な意味を、きっと口虚はわかっていない。わからずに、何も知らずに――あのとき職員室で味わった、沼みたいに泥ついたものに気付かずに――ただ肯定の言葉を述べたはずだ。
 突き放したことに。
 見捨てたことに。
 放り出したことに。
 気付かず傷つかず、奴は頷く。
「よし」
 俺も頷いた。
 これでよかった。
 これで俺は、任務を終えた。
 口虚は俺から視線を剥がす。スケッチブックへと視線を固定させた。その横顔は人形のようで、長い睫毛が影を生んでいる。艶やかな黒髪が柔らかく肩から滑り落ちる。きっと微動したのだろう。にしても気付かないくらいの動作だったが。
 俺はそのまま、自分の席に着こうとする。こうして今まで口虚と話していたおかげで、その行為をすっかり忘れてしまっていたのだ。
 奴から視線を外して一歩歩き出したまさにそのとき。
 ひやり、と。俺の手に冷たい何かが這った。
 俺は一瞬肩を震わせる。
 この温度には、少し覚えがあった。ずっと雪遊びをしていた子供みたいな、そんな冷たい温度。まるで外に出されていた金属みたいな鋭ささえある冷たさ。
 ちらりと手に目を遣る、ほんわかとした口虚の白魚の手が、まるでこびりつくように俺の手を握っていた。しかも、両手で。
「……どうした、口虚」
 俺は眉を潜めて奴に問う。
 口虚はというと、いつもの幻想を撒き散らしたような顔つき――などでは決してなく、さっき不安について語っていたときみたいな悲しげな顔――でさえもなく、何も映し出していないような、あからさまに明らかに明け透けな、何もないようなそんな鉄壁の無表情をしていた。
 そんな顔をしていると、殊更奴は人形のように見える。黄金率だか白銀率だかに則った美しい顔立ち。人類にはありえない色をした虹彩は、引き込んでくるみたいに俺を誑かす。
「……………」
 口虚は何も返さない。ただじっと俺を見つめているだけだった。
 無限大数乗の一瞬を終えたころだろうか、か細い声で。
「わたしといてくれ」
 そう、呟いた。
 いつもの、まるで歌うように軽やかな明るい調子とは程遠い、気弱な声音。酸素が多量に含まれた、掠れ気味の呟き。その弱々しい声に引っかかりを覚えたが、しかしそれも気にすることなく、俺は呆れたように奴に返した。
「そのスケッチブックか? 完成は自分で決めるものだろうから勝手にすればいいがな。それくらい自分で先生に渡しに行け」
 そう言い放つと、口虚は下唇を噛むように顔をしかめさせた。そしてもう一段階強く俺の手を握り。
 でも、そのとき。
「おはよー、相変わらず早いなー本真」
 クラスメイトの男子生徒が教室に登場した。



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