ブリキの心臓 | ナノ

2


「――しかし、エイーゼ、それはいったい誰がためだい?」
 深い深い、眠れる森のような暗闇の中で、人殺しき黄金の瞳を持つ怪物は、エイーゼに囁いた。
 彼を夢に見るのは久方ぶりのことだった。双子の妹を呪う怪物である彼は、本来、彼女しかその姿を見ることは許されない。その原理をエイーゼは事細かに理解しているわけではないものの、彼女曰く、アイジー=シフォンドハーゲンの呪いにすぎないからだ、とのことだった。では何故その呪いがエイーゼにも確認できているかと言うと、それはエイーゼがアイジーの双子の兄だからに他ならない。双子の神秘とアイジーは唱えていた。呪いすら、アイジーとエイーゼは分かち合っている。
 光の感じない真っ暗闇に浮かび上がる、エイーゼと、目の前の彼。エイーゼは「ジャバウォック、」とその怪物の名を呼んだ。
「話が見えない。なにについて言っているんだ?」
「ここ最近の君の行動について。昼間にエーレブルーの娘とも話していただろう? アイジーを当主の座に、と」ジャバウォックはあるかなきかの笑みを浮かべて、言葉を続けた。「ずいぶんと強引な君に、僕も気になっていてね。同じ英雄に殺されかけた好だ。君の意見をお聞かせ願いたい」
 いつの間にやら筒抜けだと、エイーゼは嘆息した。
 双子の神秘の末、意識を共有することも多くなったエイーゼとジャバウォックだが、それはジャバウォックの一方的なものであることがほとんどだった。気づかないうちに己の思考を読まれたり、付き従うように侍られることがあった。今回もそういうことだろうと、エイーゼは推測する。
「命だって分かち合った僕たちだ。それに比べれば、当主の座を分かち合うことなんて、軽いものだとは思わないか」
「重い軽いは別として、アイジーが当主になることで、君はなにを望む? その意図がわからぬうちは、アイジーも困ってしまうだけだと思うけど」
 ジャバウォックの言葉に、エイーゼは視線を逸らす。
「アイジーにけしかけられたのか」
「いいや? 僕の個人的な興味。第一、アイジーに君の本心を尋ねるよう促されても、僕がそれを承諾する謂れはないよ」
「それこそ、同じ《名前のない怪物》の好だろう」
「おや。アイジーの論書を読んでいたの」
「その筋では、アイジーは地位ある研究者のようだからな。参考になるかもしれない」
「……ああ、なるほど。君は《オズ》の研究員としてのアイジーに、爵位を持たせようと考えたのか」
 昼間のリラとの会話の答え合わせをするように、ジャバウォックは呟いた。整った白皙の顎に指を添え、彫像のように麗しい唇を開く。
「ここ三年ほどで彼女は研究員としての地位を築きあげたからね。カカシの呪いとジャバウォックの呪いの呪解に成功。外来の学問や伝承を取り入れ、新たな見識まで編み出さんばかりだ。それは《オズ》という国家機関の長に、高く評価されている」
 ステュアート朝皇位第六位、ソルノア=ステュアートは、国家機関《オズ》を執り仕切る頭取だ。正真正銘の王家の血統である彼は、半道楽的に、半社会貢献的に、呪いに関する研究機関である《オズ》を統括している。人呼んで、オズの魔法使い。
 この国の第六王子が《オズ》の長をしているのにも驚きだが、その王子本人が呪い持ちだということにもエイーゼは驚いた。そして、そんな重大なことを世間話の調子で話してしまう、己の双子の妹の危機管理能力のなさにも。アイジーから件を聞き知ったときは、自分以外の誰にも口外していないことを厳密に言い聞かせたのち、エイーゼは息をついたものだった。
「お前はアイジーと共にいるから聞いているだろう……ソルノア=ステュアート殿下が、この国に蔓延する呪い持ち差別主義を変えるべく、動きだしているとか」
「もちろん。なにしろ、その彼は、アイジーの名をいたくご所望だから」ジャバウォックは続ける。「シフォンドハーゲンのご令嬢が、ジャバウォックの呪いを持つ災厄の子で、その呪解に史上初めて成功し、若くして教授位の座に就いた――シフォンドハーゲンの地位を揺るがしかねない醜聞だが、そもそもの悪しき差別の固定概念を揺るがしかねる朗報だ。この国の呪いにおける学問は脚光を浴び、目覚ましい進歩を遂げるに違いないね。そして、それは、この国を治める王家と、貴族の王家・シフォンドハーゲンの財力をもってすれば、絶対的なものとなる。あの頭取は痴呆のように見えて実に狡猾で計算高い……己の野望のための勝ち筋をきちんと見抜いている。運のいいことに、《オズ》には名のある貴族も多く在籍しているからね。金と名で実績を売り、世論を味方につけ、差別主義を排斥するつもりだろう」
 エイーゼがリラに告げた“アテ”とは、まさにその動きのことだった。幸か不幸か、その水面下での蠢きの渦中に、アイジーがいる。そして、アイジーには教授位の実績もある。
「だが……それはいったいいつの未来の話だろうな」
 固定概念を覆す、思想革命だ。そんな大それた革命がこの国に轟き、夢見たとおりになる日は、十年後か、二十年後か、さもなくば、二人が年老いたあとかもしれない。少なくとも、ここ一年ほどで成し得ることではないだろうと、エイーゼは思っている。
「なるほど。それで、時間が足りない、と?」
「それだけじゃない。王家と盟約したところで、非礼を承知で申し上げるならば、所詮は第六王子だ。より高位の者に踏み潰されれば終わりだろう。さらに言うなら、アイジーの名だけでは足りないと僕は思う。シフォンドハーゲンの名も必要だ。それも“ただの娘”のアイジー=シフォンドハーゲンではなく、“ミス・シフォンドハーゲン”の名だ。さすれば少なくとも、大々的な批判を浴びることはないだろうな。シフォンドハーゲンという地位が、それを許さない。後ろ盾ではなく、先陣を切る一番槍となる」
 そう呟き終えたとき、怪物の彼が己をじっと見つめていたことに、エイーゼは気づいた。
 彼の人殺しき瞳にはもうずいぶんと慣れたエイーゼだったが、そのように無機的に見つめられては冷や汗を掻く。どこか覚束ない気持ちで、しかしそれをおくびにも出さず、「なんだ」と鷹揚に問いかけた。
「熱心だと思ってね。君は、当事者のアイジーよりも、この件について深く熟考している」
「このくらいは考えるまでもないことだ……それを聞くと不安になるな。自分のことなのに、あいつはなにも考えちゃいないのか」
「そう言ってくれないで。アイジーは君のように当主としての教育は受けていないのだから、その思考にまでは及ばないのさ。僕としたところで単なる呪いだ。彼女に類稀な知見を与えることはできない」
 それもそうか、とエイーゼは納得する。
 シフォンドハーゲンの次期当主として幼いころから教育を受け、名門のギルフォード校にて勉学に励むエイーゼ。幼いころからダンスやお菓子や読書や洋服、さまざまな娯楽に身を委ね、学び舎にすら通わなかったアイジー。そもそもの過程が大きく異なるのだ。アイジーは、十五の歳でようやっと、邸の外に出ることができた。親友のテオドルスなんかは“社交界で摩れに摩れた。つまらん”などと言っていたが、エイーゼからしてみればまだ世間知らずの気は残っている。エイーゼと同じ発想に至れるはずもない。考えることはおよそ似ていると言われて育ってきたのに。
「そうか。思考を分かち合うことはできないのか」
 エイーゼの言葉に、ジャバウォックは眇めた。
「ねえ、エイーゼ。もう一度聞くけれど、その熱意はいったい誰がためだい?」
 黒曜石のように艶めく髪が、人殺しき瞳に影を落とす。血も凍るような怜悧に、エイーゼは今度こそ震えた。
 その様を見て、ジャバウォックは微笑った。ぐつぐつと煮え滾るような魔性の笑まいだ。
 まるで崖の上に立っているような危うさを感じた。取り囲む闇も、己を塗り潰さんばかりだった。
「君と彼女の睦まじさは僕の知るところでもあるけれど……どうにも君が急いているように見えてしかたなくてね。君の思惑を知りたいんだ。この怪物めに君の高貴な考えをお聞かせいただく慈悲を願えるかい?」
 慇懃無礼な怪物だとエイーゼは思った。
 答えを誤れば噛み殺されてしまいそうな圧さえ感じる。まるで硬い鱗で覆われた尾に、雁字搦めにでもされているような気分だ。
 これだからこいつのことは好きになれないと、エイーゼは虚空を仰いだ。
「……誰も彼もない。アイジーのために決まっているだろう。僕たちももう大人なんだ。いい加減、将来のことをきちんと考えるべきだ」
「ふうん? シフォンドハーゲンの当主になることが、アイジーのためだと?」
「シフォンドハーゲンの当主になることで、得られる益を与えることが、巡り巡ってアイジーのためになる。僕だけがシフォンドハーゲンの権利を得るのは、なんとなく不公平だとは思わないか?」
「どうして?」
「どうしてって、」エイーゼは数瞬答えに窮した「僕と、アイジーは、双子の兄妹なのに」
 ジャバウォックは嘲笑うように吐息した。
「君からそんないたいけな言葉を聞けるなんてね。僕から言わせれば、そんなのは当然のことだ。その当然のことに、なにを縋っているのやら」
「縋ってなんか、」
「いるだろう? たしかに君の本心はまさしくそれだろう…… “双子の兄妹なのに、」ジャバウォックは続ける。「全てを分かち合うこともできないのか”」
 エイーゼは押し黙った。ジャバウォックの指摘は、あまりにも正しかったのだ。
 エイーゼはその言葉どおりの思いを抱いている。双子の兄妹なのだから、全てを分かち合うべきだ。顔も、生も、死も、未来さえも。
「アイジーのために……実に君らしい理由だよ、エイーゼ。けれどね。それは果たして、本当にアイジーのためになることだろうか? 事実、彼女はとても混乱している。継承問題について揉めているおかげで、大好きな友達とも会えていない。彼女が求めるものは平穏な平和だ。ただ幸せに生きることだ」
 ああ、きっとそうだろうと、そんなことはエイーゼが一番よく理解している。
 きっとそれこそ、親友の結婚式に茶々を入れるような、そんな平和な人生でよかった。実際に茶々は入れているようで、つい最近「解釈違いよ。シルバーリーフは彼女の髪には似合わない」という愚痴をエイーゼは聞いていた。
 エイーゼが勉学に励んでいるあいだに覚えた一人遊びも、決して馬鹿にはしていない。アイジーのダンスは実に優雅で、ひとたび踏みだせば黄金螺旋を描く。アンデルセンのお菓子だって、奇っ怪だが悪くはない。読書は彼女の聡明を育んだし、その見目麗しさならばどんなドレスだって着られて喜ぶ。
 好きなことを好きなだけ好きなように振る舞って、ただただ笑ってほしかった。願わくば、その笑顔で己の手を引いてくれますように。その幸福を、分かち合ってくれますように。

「君たちはもう大人なんだ。子供のころのようではいられないんだよ。エイーゼ」

 そんなことはエイーゼが一番よく理解している。
 ギルフォード校を卒業すれば、エイーゼは“ミスタ・シフォンドハーゲン”となる。それなりの家柄の、器量のいい娘と結婚し、当主としての責任を果たすだろう。広大な領土を手に入れ、財を手に入れ、権力を手に入れる。それこそが、エイーゼに与えられた運命だった。アイジーにしたところで、シフォンドハーゲンの娘にふさわしい運命が与えられている。それなりの家柄の嫡子と婚姻を結び、シフォンドハーゲンの名を捨てることとなる。その家のミスとして、それこそ母であるイズのように聡明な淑女となる。同じ血の流れる半身は、最も隣にはいないのだ。そんな未来は、幼いころから知っていた。
 その岐路に、いま、立っているだけだ。
「幼くはあれない。子供ではいられない。僕たちももう大人なんだ。だから、僕なりに、将来のことを考えている。大人になっても、僕たちが幸せであれるように。僕はただ分かち合いたいだけだ。生も、死も、未来も。それが僕の幸福だから…………」
 と、そこでエイーゼはハッとする。
 愕然としたことで、ジャバウォックの「おや。もうお目覚めのようだね」という呟きは、耳に届かなかった。


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